1971年12月以前とは? わかりやすく解説

1971年12月以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 18:11 UTC 版)

山岳ベース事件」の記事における「1971年12月以前」の解説

1970年12月革命左派起こした交番襲撃事件である上赤塚交番襲撃事件赤軍派高く評価し、これを契機赤軍派革命左派は急接近し同年12月31日赤軍派森恒夫坂東國男革命左派永田洋子坂口弘永田内縁の夫)が初会談の場がもたれた。翌1971年1月には革命左派合法部門京浜安保共闘赤軍派合法部門革命戦線共同集会行い、両派は「革命戦争盟友としての契り結んだその後も両派は接触繰り返し革命左派真岡銃砲店襲撃事件奪った銃を、赤軍派活動資金アジト提供して互いに支持支援しあっていた。同年7月に両派の合同統一検討され革命左派非合法人民革命軍赤軍派非合法中央軍合体した統一赤軍」の結成確認された。「統一赤軍」の名称は革命左派獄内最高指導者川島豪の強い反対に合い、「連合赤軍」と改称された。その後両派において交番襲撃計画(「殲滅戦」)の情報交換などが行われていた。 1971年8月 - 革命左派山岳ベース脱走したメンバー2人殺害印旛沼事件)。脱走発覚直後革命左派永田洋子坂口弘永田内縁の夫)が赤軍派森恒夫2人脱走を話すと、赤軍派において脱走未遂をして警察通報しようとしたメンバー処刑検討していることを明かし、「スパイ離脱者は処刑すべきではないかと言ったという。永田坂口にはこう言っただったが、赤軍派処刑実行せず、2人目の殺害坂東國男から聞くと、「またやったのか! もはやあいつら革命家じゃないよ!」と動揺したという。吉野雅邦はこの印旛沼事件を「のちの暴力的総括要求』や『処刑』の大きな推進要因となってしまった」と位置づけている。 8月末 - 印旛沼事件運転手として関わったJ(女性メンバー)は事件精神的に不安定になり、衝動的にベース逃げようとし、「私も殺して埋めてよ」と叫ぶなどするが、結局脱走はせず。永田はJと2人で話をし、Jは自分逃げるのを男性同志押さえつけて殴ったことを「うれしかった」と語った9月 - 革命左派メンバー印旛沼事件実行犯1人でもあったkが脱走未遂。これを知った吉野雅邦はkを殴り胸ぐらをつかみながら「何で、何でだよ、殺されちゃうんだぞ」と涙声詰問9月11日 - 福島県交番坂東植垣康博赤軍派メンバーナイフ襲撃交番には警官がおらず失敗終わった。この襲撃指示よるもので、「殲滅戦革命左派共同で行う」という革命左派との約束無視し抜け駆け」で行われたものであった。植垣によれば同月14日予定されていた革命左派との合同会議前に殲滅戦」を成功させ、「赤軍派断然強い」と思わせて革命左派に対して優位に立とうとする意図があったという。坂東らがナイフ交番襲撃しようとしたことを「消極的な考え」として批判。「今後は銃による攻撃的殲滅戦必ずやれ」と指示10月22日頃 - 赤軍派)と革命左派永田坂口、F)による指導部会議。両派による合同軍事訓練開催合意後日再度行われた指導部会議によって赤軍派新倉ベース山梨県)での開催決定10月24日頃 - 革命左派のkとkの恋人女性メンバー丹沢ベース神奈川県)から脱走し名古屋逮捕される(k脱走問題)。 10月25日 - kの逮捕受けて革命左派丹沢ベース放棄し大井川上流井川現在の静岡県静岡市)への移動開始同時にkも計画に関わっていた福島県交番襲撃計画断念された。 10月27日頃 - 井川到着した革命左派八木尾又付近廃屋アジトとする(井川ベース)。また、安倍川上流牛首峠東(静岡県)の造林小屋拠点に、さらに奥に小屋設営開始牛首ベース)。 11月12日 - H(女性メンバー吉野内縁の妻で妊婦)が井川ベースから上京し吉野旧友でHとも面識があった大泉康雄と会う。Hは「わたしたちいままで負け闘いばかりしてきた。いつも負けて柴野さんのような犠牲払ってきた。でも、これから負けない闘争貫徹するわたしたちには、絶対安全な根拠地がある。わたしたち遊撃戦展開し、それに勝ち、そして、その安全な拠点帰るそういう闘いをいよいよ始めるから、あなたとも当分会えない」と告げて吉野から大泉宛てた手紙渡した。「殲滅戦」への決意込めた吉野の手紙からHの妊娠知った大泉はHに「大丈夫なの?」と尋ねたが、Hは「わたしは革命児生む。そして、立派な戦士育てる」と答えた。Hは自身決意語った後、「ねえ、ヤス君、わたしたちのしていること、どう思う? ばかげていることではないかしら……」と大泉尋ねた大泉はそれに何と回答した覚えていないという。またこの前後、Hは実家にも行き母親に「十万円ないと(山岳ベースに)帰れない」とせがみ、現金衣服受け取った。Hの母親はこのときHの妊娠に気がつかず、後年赤ちゃんできているのに気がついていたら、引きずってでも家の中押し込めたのに……」と吉野母親話したという。 11月中旬 - 人に見られたため牛首ベース建設中)を放棄し革命左派井川ベースに戻る。この牛首ベースにいる間のある日永田はG(女性メンバー)に1969年9月逮捕された際に自供したことの総括を、Hにかつて政治ゲリラ闘争救援対策組織(救対)の立場から批判したことと永田がかつて出した中国へ行くという方針根拠地問題抜きにして批判したことの総括求めた。またFの内縁の妻であるcにはFからの自立求めた11月21日 - 革命左派是政アジト摘発されI・d・m(Jの妹)・他1名が逮捕されアジト近く川島豪の妻が逮捕される是政大量逮捕問題)。 11月24日 - 革命左派群馬県榛名湖温泉旅館跡を拠点とし、さらに奥に小屋設営開始榛名ベース)。 11月末 - kの脱走によりJの消耗顕著になっていた。これを受けて坂口は突然Jを川に連れ出し、「夢中になって洗濯しろ!」と命令永田は後に、坂口によるこの洗濯強要と、k脱走未遂時の吉野による暴行を「暴力的総括要求萌芽」と位置付けている。

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