1971年12月以前
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「山岳ベース事件」の記事における「1971年12月以前」の解説
1970年12月、革命左派が起こした交番襲撃事件である上赤塚交番襲撃事件を赤軍派が高く評価し、これを契機に赤軍派と革命左派は急接近し、同年12月31日に赤軍派の森恒夫・坂東國男と革命左派の永田洋子・坂口弘(永田の内縁の夫)が初会談の場がもたれた。翌1971年1月には革命左派の合法部門京浜安保共闘と赤軍派の合法部門革命戦線が共同で集会を行い、両派は「革命戦争の盟友」としての契りを結んだ。その後も両派は接触を繰り返し、革命左派は真岡銃砲店襲撃事件で奪った銃を、赤軍派は活動資金やアジトを提供して互いに支持、支援をしあっていた。同年7月に両派の合同・統一が検討され、革命左派の非合法部人民革命軍と赤軍派の非合法部中央軍を合体した「統一赤軍」の結成が確認された。「統一赤軍」の名称は革命左派の獄内最高指導者川島豪の強い反対に合い、「連合赤軍」と改称された。その後両派において交番襲撃計画(「殲滅戦」)の情報交換などが行われていた。 1971年8月 - 革命左派が山岳ベースを脱走したメンバー2人を殺害(印旛沼事件)。脱走発覚直後、革命左派の永田洋子、坂口弘(永田の内縁の夫)が赤軍派の森恒夫に2人の脱走を話すと、森は赤軍派において脱走未遂をして警察に通報しようとしたメンバーの処刑を検討していることを明かし、「スパイや離脱者は処刑すべきではないか」と言ったという。永田と坂口にはこう言った森だったが、赤軍派は処刑を実行せず、森は2人目の殺害を坂東國男から聞くと、「またやったのか! もはやあいつらは革命家じゃないよ!」と動揺したという。吉野雅邦はこの印旛沼事件を「のちの暴力的『総括要求』や『処刑』の大きな推進要因となってしまった」と位置づけている。 8月末 - 印旛沼事件に運転手として関わったJ(女性メンバー)は事件後精神的に不安定になり、衝動的にベースを逃げようとし、「私も殺して埋めてよ」と叫ぶなどするが、結局脱走はせず。永田はJと2人で話をし、Jは自分が逃げるのを男性同志が押さえつけて殴ったことを「うれしかった」と語った。 9月 - 革命左派メンバーで印旛沼事件の実行犯の1人でもあったkが脱走未遂。これを知った吉野雅邦はkを殴り、胸ぐらをつかみながら「何で、何でだよ、殺されちゃうんだぞ」と涙声で詰問。 9月11日 - 福島県の交番を坂東・植垣康博ら赤軍派メンバーがナイフで襲撃。交番には警官がおらず失敗に終わった。この襲撃は森の指示によるもので、「殲滅戦は革命左派と共同で行う」という革命左派との約束を無視し「抜け駆け」で行われたものであった。植垣によれば同月14日に予定されていた革命左派との合同会議を前に「殲滅戦」を成功させ、「赤軍派は断然強い」と思わせて革命左派に対して優位に立とうとする森の意図があったという。森は坂東らがナイフで交番を襲撃しようとしたことを「消極的な考え」として批判。「今後は銃による攻撃的殲滅戦を必ずやれ」と指示。 10月22日頃 - 赤軍派(森)と革命左派(永田、坂口、F)による指導部会議。両派による合同軍事訓練の開催で合意。後日再度行われた指導部会議によって赤軍派の新倉ベース(山梨県)での開催を決定。 10月24日頃 - 革命左派のkとkの恋人の女性メンバーが丹沢ベース(神奈川県)から脱走し名古屋で逮捕される(k脱走問題)。 10月25日 - kの逮捕を受けて、革命左派は丹沢ベースを放棄し、大井川上流の井川(現在の静岡県静岡市)への移動を開始。同時にkも計画に関わっていた福島県の交番襲撃計画も断念された。 10月27日頃 - 井川に到着した革命左派は八木尾又付近の廃屋をアジトとする(井川ベース)。また、安倍川上流の牛首峠東(静岡県)の造林小屋を拠点に、さらに奥に小屋の設営を開始(牛首ベース)。 11月12日 - H(女性メンバー。吉野の内縁の妻で妊婦)が井川ベースから上京し、吉野の旧友でHとも面識があった大泉康雄と会う。Hは「わたしたちはいままで、負ける闘いばかりしてきた。いつも負けて、柴野さんのような犠牲を払ってきた。でも、これからは負けない闘争を貫徹する。わたしたちには、絶対安全な根拠地がある。わたしたちは遊撃戦を展開し、それに勝ち、そして、その安全な拠点に帰る。そういう闘いをいよいよ始めるから、あなたとも当分会えない」と告げて吉野から大泉に宛てた手紙を渡した。「殲滅戦」への決意を込めた吉野の手紙からHの妊娠を知った大泉はHに「大丈夫なの?」と尋ねたが、Hは「わたしは革命児を生む。そして、立派な戦士に育てる」と答えた。Hは自身の決意を語った後、「ねえ、ヤス君、わたしたちのしていること、どう思う? ばかげていることではないかしら……」と大泉に尋ねたが大泉はそれに何と回答したか覚えていないという。またこの前後、Hは実家にも行き母親に「十万円ないと(山岳ベースに)帰れない」とせがみ、現金と衣服を受け取った。Hの母親はこのときHの妊娠に気がつかず、後年「赤ちゃんできているのに気がついていたら、引きずってでも家の中に押し込めたのに……」と吉野の母親に話したという。 11月中旬 - 人に見られたため牛首ベース(建設中)を放棄し、革命左派は井川ベースに戻る。この牛首ベースにいる間のある日、永田はG(女性メンバー)に1969年9月に逮捕された際に自供したことの総括を、Hにかつて政治ゲリラ闘争を救援対策組織(救対)の立場から批判したことと永田がかつて出した中国へ行くという方針を根拠地問題を抜きにして批判したことの総括を求めた。またFの内縁の妻であるcにはFからの自立を求めた。 11月21日 - 革命左派の是政アジトが摘発され、I・d・m(Jの妹)・他1名が逮捕され、アジト近くで川島豪の妻が逮捕される(是政大量逮捕問題)。 11月24日 - 革命左派は群馬県の榛名湖の温泉旅館跡を拠点とし、さらに奥に小屋の設営を開始(榛名ベース)。 11月末 - kの脱走によりJの消耗は顕著になっていた。これを受けて坂口は突然Jを川に連れ出し、「夢中になって洗濯しろ!」と命令。永田は後に、坂口によるこの洗濯の強要と、k脱走未遂時の吉野による暴行を「暴力的総括要求の萌芽」と位置付けている。
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