1970年代後半から1980年代にかけての変化
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「モスクワ放送」の記事における「1970年代後半から1980年代にかけての変化」の解説
1970年代後半に、英語放送はラジオ・モスクワ・ワールド・サービスと改名された。この企画は、モスクワ放送の長年のジャーナリストであり支配人でもあるアレクサンダー・エフスタフィエフによって開始、監督された。その後、北米サービス、アフリカサービス、さらには「英国・アイルランド」サービス(全て英語)が、通常(24時間)の英語のワールド・サービスと並行して、一日に数時間放送された。 1980年の一時期には、カリブ海の島嶼やアメリカのフロリダ州向けにキューバのハバナから、600kHz(後に1040kHz)で中波放送を行った。 モスクワ放送の短波放送は、その送信出力、指向性、到達距離の点でかつてないほど優れていた。1980年の最盛期には、同じ番組が非常に過密であった短波帯で40の周波数で受信できたが、ソ連政府は無線周波数を国家機密とみなしていたため、完全な放送時間・周波数のスケジュールを発表することはなかった。 1980年代に放送された番組の中で最も人気のあったものの一つは、他のほとんどの番組とは対照的な非公式の演出によるもので、著名なラジオ司会者バシーリー・ストレルニコフ(英語版)によって主催された「リスナー・リクエスト・クラブ」であった。モスクワ放送で始まったもう一つの人気番組は、ソビエト連邦についての聴取者の質問に英語で答えたMoscow Mailbagだった。1957年からは、英語を使いこなし、ユーモアもあることで知られるジョー・アダモフ(英語版)がこの番組を担当した。
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