中国大陸の書院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 18:13 UTC 版)
「書院 (東アジア)」の記事における「中国大陸の書院」の解説
書院の由来は唐代にあり、開元13年(725年)、麗正殿を集賢殿と改めて書院を置き、学士を置いて古今の経籍を校勘したり、天下の遺書を収集したりした。 貞元中、李渤は廬山白鹿洞に隠居して読書したが、南唐の時、ここに学館が置かれ、廬山国学とされた。これが宋代に白鹿洞書院と改められた。南宋の朱熹や明の王陽明がここで講学している。 宋代、政府によって書院の造成が奨励され、政府や私人が書院を創設した。白鹿洞書院(江西廬山)・応天府書院(河南商丘)・嵩陽書院(河南太室山)・岳麓書院(湖南岳麓山)は、宋の「四大書院」と呼ばれる。 元代には、すべて政府の管理下に置かれ、科挙試験の予備校と化した。 明代には、東林書院のように政治問題を取り扱う書院があらわれ、しばしば弾圧の憂き目にあった。 清代、科挙を目的として数千もの書院が作られた。しかしなかには、阮元の詁経精舎(杭州)・学海堂書院(広東)のように、科挙ではなく学問研究(考証学)を目的とするものもあった。 清末、科挙が廃され、書院は「学堂」と改められた。これが近代、中国の大学の母体となっていった。 中華人民共和国成立後、文化大革命中の批林批孔運動による儒教排斥に伴い各地に残る書院建築物に対する破壊行為が横行したが、1990年代以降復興再建が進められている。白鹿洞書院は世界遺産である廬山の、嵩陽書院も「天地の中央」にある登封の史跡群の構成資産に含まれることから観光地化(遺産の商品化)が著しい。
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