なん‐とう〔‐タウ〕【南唐】
南唐
南唐(江南国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)
李煜(南唐後主)(演:張亜希) 南唐皇帝・李璟の六男。琴棋書画や詩詞歌賦の才能には抜群に優れているが、治国や政務にはあまり興味を示さず自由奔放な性格。 父・李璟の病死後、西暦961年に南唐皇帝(江南国国主)に即位。当初は、宋朝と非常に良好な関係を維持していたが、宋が天下統一への野心を強めると、次第に宋朝に反抗の意思を示し始める。 宋の帰順要請を拒否し、宋が南唐に攻め入ってからも徹底抗戦を主張し続けた。だが結局、高懐徳の率いる宋の大軍に金陵を攻められ、南唐は滅亡。自身は皇后の周英とともに捕縛され、汴京に連行された。 宋に降伏した後は、趙匡胤の温情で特別に死罪を免じられ、「違命侯」という皮肉めいた地位に封じられ、併せて右千牛衛上将軍の職も授かった。そして、汴京に邸宅を賜って、妻の周英とともに貴族待遇の安穏とした暮らしを許された。 李璟(李景)(南唐元宗)(演:蘇茂(中国語版)) 南唐皇帝(江南国国主)。五代屈指の名君。李煜・李従善の父。 天下に覇を唱えんとする大きな志を持つ。仁義に満ちた英明な君主で、群臣を巧みに起用し、民を我が子のように愛し、善政を敷いて国力を増強させた。その在位中、閩・楚の二か国を併合し、領地を飛躍的に拡大し、南唐の勢力を大いに強めた。 西暦956年、勇んで後周に戦いを挑んだが、完敗。後周に降伏し(※形式上は和議)、臣下の礼を取って国名を南唐から江南国に変更。自身は皇帝から降格して江南国国主を自称。さらには敗北の代償として、江北14州をはじめとした国土も割譲する始末となった。 後周に完膚なきまでに敗れた後は、自身の軽率な行動を後悔し、強く自重して後周との友和を維持した。また後周が滅びて宋朝が成立した後も、宋朝と友好関係を結んで、自国の安定を第一に考えた。 揚州で反乱を起こした李重進が、江北14州を餌に協力要請をしてきたが、李重進軍の形勢不利を察し、熟慮の末にこれを拒否。そして、宋朝との友好を維持した。南唐の援軍を得られなかったことで、李重進は敗死への道を突き進むことになる。 西暦961年に崩御。 徐鉉(演:高森) 南唐(江南国)の重臣。忠臣。翰林学士承旨。徐蕊(花蕊夫人)の叔父。 南唐が後周に完敗した際は、降伏(和議)の使者として柴栄の幕舎に赴いた。 宋朝に対して友好的な大臣であり、宋との戦いにおいて後蜀の孟昶・花蕊夫人が、南唐に援軍を求めた際も、これに反対した。 宋が南唐へ帰順を要請した際は、主君・李煜に対して宋への帰順を唱えた。宋が南唐を攻撃してから後も、徹底抗戦を主張する李煜に対して宋との和平を唱え、一時は撤兵要請の使者として汴京に赴き、宋皇帝・趙匡胤に謁見した。 南唐滅亡後は、李煜・李景達らとともに宋に降伏。趙匡胤にその忠義を認められ、宋朝における翰林学士の地位を与えられた。 林仁肇(中国語版)(演:李昱孚) 南唐(江南国)の大将軍。枢密使。名将。文武両道の優れた忠臣。趙匡胤が甚だしく恐れた南唐最大の強敵。 趙弘殷と戦場で対峙し、その左腕を負傷させたことがある。後周との「滁州の戦い」において大いに奮戦し、南唐軍が壊滅的被害を受ける中、ただ一人、2000の人馬を率いて廬州に撤退することに成功した。 李重進の反乱軍が南唐に救援要請を行った際、李重進の軍への呼応を李璟に進言した。 やがて、趙匡胤の仕掛けた「反間の計」によって陥れられ、猜疑心を強めた皇帝・李煜によって毒殺された。
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