反間の計とは? わかりやすく解説

反間の計

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)

戦国時代 (中国)」の記事における「反間の計」の解説

紀元前279年、燕の昭王死に、子の恵王王位継いだ恵王楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言流し恵王耳に入るようにした。恵王はこれを信じ楽毅解任し、代わりに騎劫将軍として送ったこのまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した騎劫楽毅戦略とは反対に即墨への強制攻撃命じた。しかし、斉の軍隊民間人抵抗起きて騎劫攻撃は実を結ばなかった。 次に田単城内結束促すよう考え城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物目当てに無数の集り誰しも不気味な様子怪しんだ。これを田単は「神の教えよるものと言い、「いずれ神の化身現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ自分はその指示に従うという姿勢見せた。そして軍令の度にこの神の名用いて人々を従わせた。 続いて捕虜になると鼻そぎの刑に処される恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した敵将騎劫その通りにして見せつけると、即墨人々は燕軍への降伏恐れ祖先辱められたことへの恨みから団結し士気大い上がった

※この「反間の計」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「反間の計」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「反間の計」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「反間の計」の関連用語

反間の計のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



反間の計のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの戦国時代 (中国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS