反長宗我部勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
『一統記』から登場。かつて畿内の有力大名であった阿讃の三好家が中心となって四国を席巻する長宗我部家に対抗しているが、劣勢を強いられており共通の敵を持つ織田家(羽柴家)と共闘体制をとっている。四国征伐では三好(十河)勢は豊臣方に組しており、仇敵の長宗我部家が豊臣家に降伏したため、戦後はそのまま豊臣家の寄騎大名家となった。しかし仙石、長宗我部両家と出兵した「戸次川の戦い」で十河家当主であった存保が戦死、(史実では改易処分となり)大名家としては没落した。 三好康長(みよし やすなが) 通称は山城守、または三好笑岩とも呼ばれている。天狗の異名を持つ三好一門の老将で、かつては足利将軍家や松永久秀、織田信長と激戦を繰り広げた。後にその執拗さを気に入った信長に登用されて臣従し、四国方面軍の寄騎として長宗我部軍相手に奮戦した。しかし信長の死により四国方面軍が解散された事で旧領奪回の夢も潰え、現在は畿内の屋敷に隠居している。長宗我部軍との対峙を控えた権兵衛に四国攻めの寄騎に加わる様に誘われるも、『時の権力者の権勢と下克上を堪能した。新しい世に興味はない』と拒否。去り際、自身が愛用した天狗頬を権兵衛に託した(後にこの天狗頬は三好三郎に贈られている)。 その後、秀吉の甥の三好信吉を養子にしていた縁から愁嘆極まっていた秀吉の元を訪れ、乱世の下克上を説き秀吉を発奮させた。 十河存保(そごう まさやす) 通称は民部大輔。当初は、康長が離脱した後の三好家の中心的存在として三好三郎の名を主に十河名を従に表記されていたが四国征伐後から現名を名乗る。阿讃諸侯からは酒呑童子の化身と称される破天荒な武将。酒呑童子の渾名に相応しく、血の変わりに酒が流れていると噂されるほどの酒豪。 長宗我部軍と対峙した際には女装して落ち延び、包囲された阿波勝瑞城では生き残った兵士達と褌姿で鳥刺し舞を踊って雨乞いの儀式を決行し、本当に雨を降らせる事に成功している。板野平野一帯が洪水に呑まれたことで避難していた長宗我部軍を奇襲し一時は勝利を収めたかに思えたが、降雨すらも予測していた元親が軍を引かせていた事から逆襲を受け、阿波国史上最多の戦死者を出して大敗した。しかし敗北後もしぶとく生き残り、手勢を率いて長宗我部軍の進軍を阻み続けている。引田の戦いでは本陣突撃を狙う権兵衛の無鉄砲を気に入って自らも加勢し、撤退時にも生き延びる様に呼びかけ、元親との戦いで阿讃の同胞達を次々と失う中で執念深く抵抗と逆襲を続ける。 四国征伐が始まると讃岐方面軍に寄騎として合流、その際に権兵衛と初対面し、互いに豪放でありながら実は人見知りする性格から最初は遠慮していたが、すぐに意気投合して戦友の間柄となった。その後も仙石隊と共に讃岐方面軍の先鋒を務め、植田城では諸将に逃走を進言したが、その後も長宗我部軍との決戦を徹底的に避ける羽柴軍の消極的な戦略には不満を露わにしていた。四国征伐後、権兵衛が大名となった讃岐の内、十河(三万石)を与えられて豊臣家の寄騎大名となった。四国取次となった権兵衛と仇敵、長宗我部家に使者として訪れるなど行動を共にし、秀吉から九州征伐の先遣隊として上陸を命じられると権兵衛、長宗我部父子と共に寄騎として出兵した。しかし九州でも「聊爾無く」との秀吉の命令に鬱憤を溜めていたが、独断で島津(家久)軍との開戦を決めた権兵衛に、「聊爾あっての三好一族よ」と賛同する。戸次川の戦いでは先陣左翼として中央の信親隊を援護し、家久軍の第一波は撃退したが、神降りした家久軍の第二波の怒涛の突撃の前に右翼の桑名隊は壊滅、後備えの仙石隊が苦渋の退却を決断し、信親隊と敵中に孤立する中で権兵衛を非難する将兵に「奴が正しい」と理解を示し、殿として他の隊を逃す役目を引き受ける。果敢に応戦するも全兵死兵と化した家久軍の突撃に呑まれ、致命傷を負い、「スゲェ合戦…見せてもろたぜ」と言い残して介錯された。 大柄な元親を巨鯨と呼び、気がつけば復讐を通り越して「巨鯨狩り」が生甲斐になってしまっている。 外見のモデルは、ロレンツォ・デ・メディチ。
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