豊臣氏
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豊臣氏 | |
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「太閤桐」 (豊臣秀吉定紋) 五七の桐 | |
氏姓 | 豊臣朝臣 |
出自 | 称・藤原氏 |
氏祖 | 豊臣秀吉 |
著名な人物 | 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 豊臣秀頼 |
後裔 | 羽柴氏(武家・公家) 木下氏(武家 → 華族) |
凡例 / Category:氏 |
豊臣氏(とよとみうじ、とよとみし、旧字体:豐臣氏)は、日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。
天正13年(1585年)に正親町天皇から羽柴秀吉に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。この氏は豊臣政権における大名統制の手段として用いられ、有力大名の官位叙任では家伝の姓は無視され基本的に豊臣氏が用いられた。
豊臣氏の誕生
秀吉は氏どころか苗字も持たぬほど下層階級の出身と考えられるが、立身栄達により家系の公称を要するようになると平氏を称した。これは主君・織田信長を模倣したものと考えられており、たとえば『公卿補任』の天正11年(1583年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されて以降、関白になる直前の天正13年(1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記されている。
その後、天正13年(1585年)7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。
そして翌天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。秀吉が自らの右筆である大村由己に執筆させた『任官之事』(別名『関白任官記』)では「古姓を継ぐは鹿牛の陳跡を踏むがごとし」と単純な前例踏襲は拒否することを述べ「われ天下を保ち末代に名あり。ただ新たに別姓を定め濫觴たるべし」として、秀吉は特別に傑出した人物であるから源平藤橘にならぶ第五の新しい氏を創始できるのだ、と高らかに宣言している。
改姓の厳密な時期については明確でない。局務押小路家に伝来した『押小路家文書』には「請う、藤原姓を以て豊臣姓に改めんことを」云々と記す秀吉の上奏文と、これに応えた天正13年(1585年)9月9日付の改姓を許可する宣旨が残されている。一方『公卿補任』では、天正14年(1586年)の項に、秀吉について「藤秀吉」(藤原秀吉)と記載したうえで「ーー藤原姓を改め豊臣姓となすと云々」と注している。「ーー」とは「月日不明」という意味である。これによれば、改姓は天正14年(1586年)になってから行われたことになる。『公卿補任』で秀吉が「豊秀吉」(豊臣秀吉)となるのは天正15年(1587年)からである。実は、秀吉の官位叙任については、天正10年(1582年)10月3日の任左近衛少将、天正11年(1583年)5月22日の任参議など、そのことを示す文書は残っているものの、あとから日付を仮構して偽作したとされているものが少なくない。当時の秀吉にとっては日付を操作して文書を偽作することは常套手段であった。また公家たちにとっても、天皇に日付をさかのぼった文書の発給を求めることは半ば日常的なことであった。『押小路家文書』の上奏文と宣旨も同様の性質のものとみなされている。実際に秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、天正14年(1586年)12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である[1]。
豊臣姓の特権的地位
藤原氏に代わる新たな摂関家の氏として創始された豊臣姓は、この政権における官位叙任ではまさしく特権的に扱われた。秀吉は機会あるごとに、家臣だけでなく陪臣にまで広範囲に豊臣の氏を与えていった。豊臣政権下における官位叙任は秀吉の意志がすべてである。秀吉から口頭で官位叙任を告げられれば、その場ですぐにその官位を正式に名乗ることもできた。秀吉が戦争のために京都を離れている時期に、そのような例がしきりに見られる。朝廷は単にそれを追認して事後に宣旨・口宣案などの官位叙任文書を作成するにすぎなかったが、その文書には、本人の本姓が源氏であろうと藤原氏であろうと、一律にすべて「豊臣朝臣某」という名が記載されることになっていたのである。豊臣氏はこうして膨大な数の構成員を獲得していくことになった。
改姓における豊臣氏と羽柴姓への誤解
しばしば誤解されるが、秀吉は「羽柴」という苗字を「豊臣」に改めたのではない。これは現代人が氏と苗字を区別する習慣を失い、両者を混同することからくる錯誤である。当時は氏と苗字を併用するのが社会習慣であり、そのなかで豊臣と羽柴も併用された。そもそも「羽柴」は単なる私的な名乗りである名字(苗字)に過ぎないが、「豊臣」は天皇が創始し朝廷の手続きを踏んで公式に下賜された氏である。氏と苗字は厳密に異なる存在であり、歴とした氏である豊臣と苗字に過ぎない羽柴はそもそも互換の対象にはならない。秀吉が「豊臣」に改めたのはあくまで関白叙任の際に得ていた「藤原」の氏であり、苗字は改めた記録が見当たらず従って羽柴のままであったと考えられる[2]。つまり秀吉は関白羽柴内大臣藤原朝臣秀吉殿下(藤原秀吉)から関白羽柴内大臣豊臣朝臣秀吉殿下(豊臣秀吉)となったはずである。それゆえ江戸時代に至るも豊臣氏の子孫らは、豊臣の氏と並行して羽柴の旧姓「木下」を称し続けている(秀吉の血縁者は大阪の敗陣以降、徳川氏をはばかり秀吉の旧姓である木下姓を使用した)。しかしながら羽柴が豊臣になったという錯誤は一般に広く浸透しており、たとえば国民的歴史作家とされる司馬遼太郎も著書『豊臣家の人々』のなかで「羽柴の姓を豊臣に改め」などと記述している(但しこの表現はあくまで読者の知識水準を踏まえた文学的表現であり、当然司馬の学術的錯誤などではない)。
秀吉死後の豊臣氏
豊臣氏の拡大は、秀吉が個人的な権力により官位叙任権を独占し、同時に官位叙任文書の内容を意のままに改変できたことに基づくものであり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると当然その拡大は停止し逆に縮小に向かった。徳川家康とその一門が「羽柴」の名字と「豊臣」の氏の使用をやめ、慶長8年(1603年)には家康が「新田」・「徳川」などの名字を称し「源朝臣家康」として征夷大将軍となったのは周知のとおりである。しかし、家康は、この段階ではまだ、生前の秀吉のように官位叙任権を排他的に独占するにはいたっていない。秀吉の後継者で羽柴宗家の当主である秀頼は、大坂城によりながら、自らの直属家臣に対する官位叙任を相変わらず独自に続けていた。また、諸大名が羽柴の名字や豊臣の氏を使用するかしないかは、基本的に本人の判断にゆだねられたままであった。
たとえば、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が右近衛権少将に任じられているが、これは「豊臣朝臣輝政」としての任官である。また同慶長8年(1603年)山内一豊が従四位下に叙せられ、土佐守に任じられているが、これも「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。また、これも慶長8年(1603年)のこと、加藤清正は関ヶ原の戦いの恩賞として肥後一国を一円領有するに当たり、主計頭から肥後守へ改めただけでなく、同時にそれまでの「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。いわゆる“豊臣恩顧”の大名の代表格でもあり、秀吉の親戚である清正は別として、輝政は家康の女婿であり、一豊は「小山評定」の逸話で著名な親徳川派であるが、この件では特に家康への遠慮のようなものは見いだせない。
その後も、池田輝政の長男輝直(後の利隆)、加藤清正の次男清孝(忠正)、福島正則の次男忠清(後の忠勝)など、豊臣氏の再生産は続いている。福島忠勝の例では、諱では将軍徳川秀忠の偏諱を与えられており、明らかに江戸幕府を通じての官位叙任であるにもかかわらず、幕府は豊臣の氏の使用を阻止できないでいる。秀頼がなお健在であるという前提があるとはいえ、秀吉が達成した既成事実は大きく重いものとして幕府にのしかかっていた。
江戸時代の豊臣氏
慶長20年(1615年)7月に大坂の陣で大坂城の羽柴宗家(豊臣家)が滅亡すると、それまで羽柴の名字や豊臣の氏の公称を続けていた大名たちは一斉にその使用をやめている。たとえば福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。これは特に幕府から禁止されたということではなく、宗家の滅亡にともなって自然消滅とみなされたものらしい。
ただし、秀吉の正妻高台院の兄弟たちおよびその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。『寛政重修諸家譜』には、豊臣を本姓とする大名家として、備中足守25,000石の木下家と豊後日出25,000石の木下家の2軒、同じく旗本として、足守木下家の分家1軒と日出木下家の分家2軒を掲載する。このうち木下利次は、高台院の養子となり、豊臣氏(羽柴家)の祭祀を継承することが許されている[3]。
また、朝廷の地下官人のうち、かつての滝口武者を再興した「滝口」36軒があったが、そのうちの1軒である木下家は本姓を豊臣氏と称していた。この家は、明和5年(1768年)に木下秀峯が滝口に補せられたのを創始とする。秀峯は当初「しげみね」と名乗っていたが、安永7年(1778年)に「ひでみね」と改めた。あきらかに「秀吉」を意識した諱であるが、秀峯の前歴・系譜関係などは不明である。秀峯-秀時-秀敬-秀邦-秀幹-秀有と相承して幕末に至る。衛府の志(さかん)から尉(じょう)を経て諸国の国司(おおよそ介まで)となるのを極官とした。極位は正六位下であった。さらに、「滝口豊臣秀時(秀峯の子)」の子に佐野秀孝(極位極官は文政8年(1826年)12月19日時点で正六位下・雅楽少允)が、秀孝の子には佐野秀富(極位極官は弘化3年(1846年)4月18日時点で正六位下・雅楽少允)がいた。
加えて、『地下家伝』によれば、山本正綱は内蔵寮官人・豊臣信易と長井宗信女との間に生まれた子であり、氏は豊臣・大江であったとされる。正綱は、延宝7年(1679年)9月20日に生まれ、寛保3年(1744年)に辞官する際には従六位下・修理大属であった。先祖については、「家記依焼失先祖年序不相知候」とあり、家記が火災によって燃えたために不明であったという。正綱の子孫は利房-正興-正芳-正安と続き、正安は垣内氏と改姓した上で正武-匡雄-匡幸-匡久-匡盛と続いた(参考 : 地下家の一覧)。
『寛政重修諸家譜』によれば、伏屋氏も江戸時代に豊臣氏を名乗っている[4]。
その後、明治時代に「氏」制度が廃止されるまで、新たな氏は創設されることはなかった。華族の宗族制では、足守・日出の両木下家が「豊臣朝臣・肥後守俊定裔」として第75類に分類されている。豊臣朝臣は皇別・神別・外別のいずれのカテゴリーにも含まれておらず、同様の扱いを受けたのは琉球国王であった尚家だけであった。
豊臣氏の組織
すでに平安時代には解体し形骸化していた氏であるが、藤氏長者・源氏長者などの役職、氏爵などの慣習が儀礼的に存続していた。秀吉も、関白に就任するにあたり、それに付随するものとして藤氏長者を兼ねている。豊臣氏もこれを引き継ぐかたちで氏長者を設置している。「豊氏長者」(ほうしのちょうじゃ)である。天正19年(1591年)12月、秀吉が養子羽柴秀次に関白を譲った際に、関白職任命にともなって作成された各種官位叙任文書が『足守木下家文書』に伝来しているが、そのなかに「関白内大臣、よろしく豊氏長者たるべし」云々と秀次を豊氏長者に補任する内容を持つ宣旨が含まれている。秀吉の関係文書には同様のものは見当たらないが、当然、秀吉も豊氏長者の地位にあったものと考えられる[要出典]。
なお、豊氏長者は、同時に藤氏長者の地位と権限をも掌握していた。秀吉は関白に就任する際、近衛家に対して、将来的には前久の子息信輔に関白職を返す約束をしたというが、秀吉はこれを反故にしただけでなく、それまで摂家のものであった藤氏長者までも奪ったのである。そのことを誇示するように[要出典]、秀吉は豊臣に改姓したあとの天正16年(1588年)1月に、藤原氏の氏神春日社の最高責任者の一人である正預職の任命権を行使している。また、同天正16年(1588年)12月には、藤原氏の始祖藤原鎌足を祀る多武峯寺に、弟羽柴秀長の居城のある郡山への遷宮を命じ、実行に移している。このとき用いられた命令文書は、本来は藤原氏の大学別曹である勧学院の別当(弁官が務めることから弁別当といい、また「南曹弁」ともいう)が氏長者の意志を奉じて発給する奉書である長者宣(藤氏長者宣)であり、時の南曹弁は、藤原北家勧修寺流に属する右中弁中御門資胤であった。秀次の関白就任にあたっても、上述の豊氏長者に補する宣旨のほか、藤氏長者を意味する「氏長者」に補す旨の宣旨が別途作成されている。
豊臣姓を称した者のリスト(暫定)
村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」[5]の「豊臣姓一覧表」、同「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」[6]より被下賜者を年代順に並べた。なお、豊臣氏の氏長者及びそれに準じる立場の豊臣秀吉・豊臣吉子(高台院)・豊臣秀頼の3名は村川作成の表には含まれていない。また、豊臣姓を名乗ったとされることが多い佐竹義宣・里見義康・鳥居忠政・山口正弘については、村川は信憑性が低いとして表から除いている。
系図
脚注
参考文献
- 三上景文著・正宗敦夫校訂『地下家伝』 自治新報社、1968年。
- 大村由己「任官之事」 塙保己一『続群書類従』第20輯下 続群書類従完成会、1979年。
- 下橋敬長述・羽倉敬尚注『幕末の朝廷』 平凡社〈東洋文庫〉、1979年。
- 人見彰彦「足守木下家文書」山陽新聞社編『ねねと木下家文書』 山陽新聞社、1982年。
- 下村效「天正文禄慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」『栃木史学』7号、國學院大學栃木短期大學史学会、1993年/所収:『中世の法と経済』 続群書類従完成会、1998年。
- 下村效「豊臣氏官位制度の成立と発展-公家成・諸大夫成・豊臣授姓-」『日本史研究』337号、1994年/所収:『中世の法と経済』 続群書類従完成会、1998年。
- 米田雄介「徳川家康・秀忠の叙位任官文書について」『栃木史学』8号、國學院大學栃木短期大學史学会、1994年。
- 山口和夫 著「統一政権の成立と朝廷の近世化」、山本博文 編『新しい近世史1 国家と秩序』新人物往来社、1996年。
- 黒田基樹「慶長期大名の氏姓と官位」『日本史研究』414号、日本史研究会、1997年。
- 笠谷和比古『関が原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年。
- 池享『戦国・織豊期の武家と天皇』校倉書房、2003年。
豊臣(羽柴)家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:58 UTC 版)
豊臣秀吉(羽柴秀吉→豊臣秀吉) 声 - 江原正士 / 陶山章央 / 野宮一範 織田家家臣。口が達者な剽軽な小男。足軽から織田家の重臣として出世し、主君・信長からも目をかけられているが、野心家として利休と組んで謀反を企てる。物語前半では本能寺の変の真の黒幕として暗躍し、信長亡き後は天下統一を果たす。数寄の価値を理解し、織部にも初期から目をかけていたが、そのセンスは当初より詫びからズレており、後に利休との軋轢にまで発展する。特に側近・三成の思惑なども重なり、数寄を巡っての利休との対立は織部を翻弄する。また、天下人として強い孤独感を覚え、やがては唯一の理解者であった信長を殺してしまったことを強く後悔するようになる。当初の肌色は普通であったが信長殺しの決意後は色黒になっており、その後、利休の死後にもとに戻っている。 作中序盤では人好きのする愛嬌ある顔の下で天下を取る野心を持ち、利休や秀長と組んでの謀反を企てる。そのために、明智光秀に信長に対する謀反を決意させ、さらには計略を盤石なものとするため、本能寺の変において密かに寺に潜入し、自ら信長を討つ。その後は史実の通り、光秀や柴田勝家を討って織田家を手中に収めるが、一方で弥助から信長殺しの主犯であることを織部に知られてしまう。しかし、織部を欲深きもの同士として自由にさせ、官位を授けるなど重用していく。 天下人となってからは箔をつけるため信長をなぞるように華を重んずるようになり、わびを貫く利休とは距離が生じ始める。服装も派手好みで奇抜なファッションを愛用し、お歯黒にして付け髭を付けるようになる。また、織田の血を引く茶々を手篭めにし、自分のものとする。三成の思惑もあって利休との関係は完全に破綻するも、心の底では信長殺しの共犯として彼に依存していた。そのため、利休の処刑には最後まで否定的であったものの、結局は利休の方が死を選んだため、精神の均衡を失い、ますます真相を知る織部との仲を深めていく。晩年は唐入りの難航や信長殺しの後悔などでさらに憔悴していくも、最期は織部が企画した「瓜畑遊び」で笑みを取り戻し、おねの膝枕で安らかに永眠する。 好きな色:ゴールド。 豊臣秀長(羽柴秀長→豊臣秀長) 声 - 石丸博也 秀吉の異父弟。常に兄の影のように付き従い、その覇業を補佐する。兄からは、他の重臣たちにも明かされない陰謀を打ち明けられることが多いなど、絶対の信頼を置かれている。また兄よりも、利休のわびの美学への理解も深い。やや病弱であり、作中の時間経過とともにやつれていく。大和郡山城にて黒田如水の「毒の一言」にて憤死した。 好きな色:シルバー。 石田三成 声 - 関俊彦 秀吉の側近。眉毛のないのっぺりとした顔立ちで、ほとんど無感情な人物。正確さや格式に拘り、人望は無きに等しいが、その忠誠心と能力を秀吉から高く評価される。物語前半は数寄の権威が豊臣の権威を上回ることを嫌って宗二、続いて利休を死に追いやるなど、織部ら数寄者の敵役として登場する。秀吉の死後は豊臣の世を受け継ぐことを己が使命として邁進するも、人望の無さや、数寄が理解できないことに悩むなど、人間味を見せるようになっていく。最終的に数寄を理解し、最後に残した金継ぎの茶入は織部に高く評価され、師匠の敵とは言え、亡くなったことを惜しませる。 天下人となった秀吉の側近として登場し、数字に細かく、融通がきかない性格など、史実通り武断派の武将にも嫌われる。茶の湯の知識はあるが、数寄はまったく理解できないと公言し、万事が理屈や礼式作法に拘るため面白みがないと評される。先術の通り、豊臣の権威を至上とせんがために、数寄の権威を貶めようとして、最終的には利休を死に追いやる。北野大茶湯では不敬として織部の庵を破壊するなど、織部とも対立していたが、一方で忍城攻めでの失敗を救われた件から不器用ながらも織部に配慮しており、利休死後に織部が筆頭茶頭になったのも三成の推薦があったことが後に明かされる。 秀吉の死後は豊臣の権威を守ろうとするも自身の人望の無さや、仲間を集めるために数寄の知識が必要と理屈では理解しても、どうしても数寄を理解することができず、思い悩む。織部に教えを請い、大谷吉継を仲間に引き入れる茶席では前田利家のせいで計画が狂うも、切羽詰まって茶を頭から被るという暴挙にでる(結果として吉継を笑わせ西軍に引き込むことに成功する)。関ヶ原の戦いは史実通り敗北するが、その逃亡生活の中で北野大茶湯での出来事を思い出して大笑いし、数寄の理解に至る。その後、捕縛され、処刑直前には「柿は痰の毒」と言って周囲を笑わせ満足な中で死のうとしたが、処刑直前に宗二の息子が現れ、宗二の死を後悔しながら処刑される。 捕縛直前に、茶入をタイル状に砕いて金継ぎしたものを織部に渡すよう依頼しており、これが織部を非常にひょうげさせる。また、「柿は痰の毒」は、徳川の治世を織部の数寄が凌駕することを示唆する内容とも取れ、必死さに宿る笑いなど、利休が光秀の死を後に後悔したのと同等の感傷を織部に与える。 好きな色:特になし。 豊臣秀頼 秀吉の嫡男。政治的には母・淀殿や大野兄弟に牛耳られているものの、巨漢かつ器の大きな人間に成長し、それゆえに家康に恐れられた。幼少期から織部の薫陶を受けているため数寄に理解がある。 淀殿(茶々→淀殿) 声 - 小笠原亜里沙 信長の姪。母お市の死後、天下人となった秀吉の側室となる。派手好みのじゃじゃ馬で、地味にしていることが我慢ならない。秀吉のお手付きになってからは豹柄の打掛を纏い、唐人風に髪を結うなど派手さに磨きがかかった。秀吉死後は「織田の世」復活を狙う野心家として描かれ、家康からも危険視されている。 好きな色:バイオレット。 高台院(おね→北政所→高台院) 声 - 柚木涼香 秀吉の正室。純朴な人柄で貧しいころの気持ちを忘れず、夫が天下人となってからも下働きをし、動きやすく地味で汚れてもよい衣服を好む。飾らない物の言い方をしおおらかな性格だが、洞察力は高く規律に厳しいところがある。その豊かな母性に家康から恋心を抱かれている。 好きな色:スカイブルー。 大政所 声 - 森ひろ子 秀吉、秀長、朝日(声 - 棟方真梨子)の母。顔は秀吉にそっくりで、秀吉が唯一頭の上がらない存在。利休に惚れており、利休を筆頭茶頭から降ろそうとする秀吉に対して釘を差した。 加藤清正 声 - 具志堅用高 秀吉子飼いの武将。大の虎好きで何でも虎に例えたがる。戦場では同輩の正則と共に猛将として知られる一方で城作りにも才を見せ、特に石垣の反りを虎の背伸びに擬えて重視する。元は「力がある者が欲しいものを得る」を信条としていたが、唐入りでは実際に野生の虎と戦って初の敗北を味わい、政や数奇の必要性を悟るようになる。 関ヶ原の戦い以後は、豊臣恩顧の有力大名で、政略にも通じる武将として、織部の豊徳合体に協力する。そのために未遂の切腹までして家康と秀頼の会見を組んだものの、長安の思惑と正則の軽率な行動によって家康の暗殺を謀っていると誤解されてしまい、最期は柳生利厳に暗殺される。 モデルは具志堅用高。容姿以外にも「ちょっちゅね」などの独特の口調やシャドウボクシングをする姿が描写され、アニメ版では声を具志堅本人が努めた。 好きな色:イエロー。 福島正則 声 - 坪井智浩 秀吉子飼いの武将。戦場では同輩の清正と共に猛将として知られるが、酒癖が悪く、酒にまつわるトラブルが多い。母里太兵衛との呑み取り騒動の一件で織部の取りなしを受け、以降誼を築く。当初は忠興を坊っちゃんと呼び軽んじていたが、七将襲撃事件以降は同じ酒好きという面もあり懇意の仲となる。基本的には思慮が浅く、面倒事を引き起こす。 関ヶ原の戦い以後は、豊臣恩顧の有力大名として、織部の豊徳合体に協力する。ところが兵を率いて大坂に入るなど短慮が多く、結果的に家康の猜疑心を引き立て清正の死の遠因となる。結局、家康から疑われたまま大坂の陣に入ると江戸留守居を命じられ、遠ざけられてしまう。しかし、太閤の縁者を匿うという意を込めた酒徳利を織部に贈り、結果として豊臣の血を残すことに貢献する。 前田利家 声 - 飛田展男 織田政権時からの秀吉の同輩で豊臣政権の重鎮。老獪とも朴訥とも言える態度の老爺で、基本的に同じ言葉を繰り返していい加減な相槌を打ち、自分の考えを明かさない性格。それゆえ周りを苛立たせることが多いが、その適当さはある種の人徳にもなっており、大谷吉継との茶会では彼の業病ゆえの顔の膿が入った茶をまったく意に介さず飲んで吉継を感心させる。また、余興の場では激しい踊りを見せ、一同の笑いを取ることに成功している。 小田原の役に際して、伊達政宗と秀吉の取次役として作中に初登場する。上記の通りの要領を得ない態度・反応で政宗を苛立たせる。秀吉の死後の政局の混乱の中では、大谷吉継と彼を味方に引き入れたい三成が参加した茶会に客として登場する。その中で、本来は吉継が飲んだ茶を周りが断る中で三成が飲んで歓心を得るはずであったが、上記の通り、逆に利家自身が気にせず飲んでしまい、計画を悪気無く台無しにしてしまう。最終的には史実通り、七将襲撃事件の当日に病死するが、石田・徳川のどちらに付くべきか尋ねる息子・利長に対してすら、どっちつかずの返答をして苛つかせ、最期まで風見鶏な態度を貫く。 黒田如水(黒田孝高→黒田如水) 声 - 藤城裕士、篠原大作(BSプレミアム版第11話のみ) 秀吉の軍師。頭巾を被り杖を使用。利休に本能寺の変の真相のあらましを聞かされてからは己の下克上を狙うようになり、秀長を「毒の一言」によって死に追いやり、豊臣政権の転覆を図る。利休切腹や関ヶ原の戦いを利用して天下を狙うが尽く失敗してしまう。 数寄への理解はあるが、あくまでも天下を制するための道具・手段としか見ていない。 小西行長 明・朝鮮との交渉を任されている。高山右近曰く、本性は商人であるとのこと。唐入りに際して、明の沈惟敬と共に南蛮と組んで「商いの独立大国」を目指したが、関ヶ原の敗北によって南蛮に見捨てられてしまい、徳川軍に投降し斬首される。 島左近 声 - 玄田哲章 利休切腹の際に三成を補佐し、その手腕を買われ三成の家臣になる。元々は秀長の家臣であり、主の死後、身の処し方に悩んでいた所を召し抱えられたため、三成に絶対の忠誠を誓っている。関ヶ原の戦いにて東軍の銃弾を受けて戦死した。 石田正澄 三成の兄。「瓜畑あそび」の瓜を栽培するなど、弟の影で裏方仕事をこなす実直な人間。 関ヶ原の戦いにおいては、どうしても数寄を解せず苦悩する弟の代わりに数寄を引き受け、数寄大名たちの気をひいて味方に付けるという大きな裏方仕事を引き受ける。関ヶ原の敗北により、佐和山城で自害した。 大谷吉継 越前敦賀の大名。悪瘡の病を患っており、上杉討伐の時点で視力を失っている。 当初は徳川派だったが三成の身体を張った茶席に一笑を受け、「笑って死ねる」という理由で石田派に転向し西軍の調略面を担当する。関ヶ原では裏切った小早川軍の兵を道連れに爆死した。 大野治長 淀殿の乳兄弟。三成死後の豊臣家の重臣。徳川家に対抗するため織田左門や真田好白など牢人衆を呼び集める。「豊徳合体」を目指す且元らを追い出し、徳川家との戦を引き起こす。 織部から「ひょうげ」の薫陶を受けるが、秀吉の「華」に傾倒し、家康を「野暮」と見なしている。また、「織田の世」復活を目指す信雄に対しても「枯れ木瓜」と突き放している。 片桐且元 秀吉死後の豊臣家を支える重臣。織部と共に「豊徳合体」を目指すが、家康との関係悪化を止めることは出来ず、大野ら強硬派に大坂城を追い出される。数寄の根っこを理解する甥の貞昌に「織部百ヶ条」を授けると約束し、研鑽を促した。
※この「豊臣(羽柴)家」の解説は、「へうげもの」の解説の一部です。
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豊臣(羽柴、木下)家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
権兵衛が所属する武家。半農の者も多く織田家臣時代には「泥ネズミの如き部隊」と揶揄されていた。金ヶ崎撤退戦などの武働き、長比城調略などの政略と次第に功を挙げ、小谷城攻略の恩賞に北近江三郡を与えられ、第一部終盤で大名となった。 第二部では本拠地を長浜城に置き、明智隊と功を競い、ついには西国方面軍に抜擢。一軍団で大国・毛利家と互角以上に渡り合うなど信長ですら望外の成長を見せるが、第三部の本能寺の変に際しては毛利家との電撃和睦からの中国大返しを敢行、山崎の戦い勝利の立役者となった。信長の死後は織田傘下の諸将を取り込み、最大の政敵であった柴田家との戦いを制してついに織田家中で唯一無二の筆頭宿老としてすべての実権を牛耳ることになった。また天下人として力を誇示するため日ノ本最大の商い地・大坂を本拠地として大坂城の普請を始め、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の官位が織田信雄を上回った事を以て簒奪を完遂した。 第四部からは毛利・上杉家をも事実上の傘下に組み入れ、名実共に天下人の勢力となり天下統一戦を開始、その間に秀吉が関白に任官、軍事力、朝廷、堺商人をも統べるなど位人臣を極める。 豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし) 声 - 藤原啓治(パチンコ) 通称は籐吉郎、後に筑前守、第四部からは内府大臣を経て関白太政大臣。当初は木下姓を名乗っていたが、比叡山焼き討ち後に羽柴と改姓し、四国征伐後から本姓を豊臣と称す。信長には「ハゲネズミ」と呼ばれ、他の多くの作品で一般的な「サル」と呼ばれることはほとんどない。多指症で右手の親指が二本あるが、「天正記」以降はそのように描写されている絵柄はない。極度の好色であり、また煙管中毒でもある。がしかし、竹中重治病没後はキセルをもった姿を見せていない。権兵衛の上司に当たる。笑いのシーンでは前歯が二本になったりヒゲが生えたりと、正に「ネズミ」そのものになる。 後に光秀が評すように“下よりつけ入り、やがて取り込む”人心掌握の天才「人たらし」で、下層から這い上がって出自故に都鄙貴賤の機微にも敏感。だらしのない人物ながら慕う者が周囲に絶えず、寄騎として羽柴隊に加わろうとする武将もいる。百姓出身で若い頃は諸国を放浪していた経験から様々なことに知恵が回り、その万能で丈夫なほどの仕事ぶりから「木綿籐吉」と称される。 当初は智略に優れるも槍働きにはことごとく消極的な人物であったが、権兵衛に感化されて「金ヶ崎の退き口」を機に戦でもその働きを認められるようになっていく。第二部からは信長の求める「新しき戦」を模索する中で長篠の戦いの功と手取川の戦いでの失態を乗り越え、信長に西国方面司令に任ぜられる。盟友・半兵衛を失いつつも、集めた優秀な人材を駆使し難所・播州を平定させ、一方面軍ながら大国・毛利家と互角以上に戦うなどその才能を本格的に開花させ、ついには信長にも銭を知る者と認められる。 第三部では信長の唐入りについては反対の立場を取るが強行する場合は従うとしていた。光秀の謀反により本能寺にて信長が自刃した事実を受け入れられなかったが、光秀を討ち、天下に名を轟かせる為に、毛利との電撃和睦からの中国大返しを敢行して終生のライバルであった光秀と山崎にて決戦に臨み、辛くも勝利を収めた。戦後の清洲会議では筆頭家老である勝家の手前、四苦八苦したが本領・長浜と引き換えに光秀の旧領・山城国や丹波国を確保した。暫くは織田兄弟の器量の無さ、宿老による合議がなければ何一つ決められない現状に業を煮やしていたが、“下克上の精神”を体現するため、ついに織田家簒奪に乗り出し天下人への階段を駆け上がっていく。堀秀政ら若手衆の抜擢、盟友・利家の調略などで勝家を破るも、専横を阻止せんと立ちはだかった信雄・家康との小牧・長久手の戦いでは池田・森の両将を失い徳川軍に戦術的には敗れたが、苦戦と見るや堺の豪商らに“惣無事構想”を説いて多額の援助を引き出して十万の軍勢を維持して圧倒的な資金力の差を見せつけ、権兵衛の情報から信雄・徳川間の火種を発見するや信雄と電撃的に和睦して家康に戦略的に勝利した。下層の出自故に「決して驕っちゃあなんねぇ」と自身を戒めているが、天下人としての威圧感を醸し出し始め、信雄からは「父・信長を見るが如き」と評されるなど、天下人の業を背負っていく。 第四部では内大臣に昇官、毛利・上杉家をも同盟国として惣無事構想による天下統一戦として西国平定に乗り出す。圧倒的兵力差により瞬く間に紀州を平定すると、次の四国征伐では信長が四国平定目前に横死したことから仮病を称し、弟の秀長を総大将として派遣するに留まる。その間に朝廷の人事抗争から“棚ボタ”的に関白に推挙され、聡明さとガサツさ、巧みな人心掌握により朝廷をも支配下とし、形骸化していた関白職を“武家関白制”に作り替える。四国征伐後に徳川家と和睦の密約を取り付けたことで九州に蔵入地を獲得するために九州征伐を計画、島津家を合戦に誘引するため、猪武者である権兵衛を九州に送り込んだが、秀吉本軍の九州入りが遅れたこともあって権兵衛率いる四国連合軍は独断で開戦した「戸次川の戦い」で大敗した報を受け、激怒して改易処分とする。しかし目標であった島津家の誘引には成功したことから局地戦での権兵衛の失敗はもはや些事であり、権兵衛の今後についても放任したが、秀長の諫言を受け、千利休を通じて権兵衛の動向を探らせる。その後、茶々を側室として寵愛、すこぶる機嫌が良かったこともあり、温情として権兵衛には堪忍料一万石を与える。 権兵衛の改易以後は立場の違いからほとんど面会することは叶わなくなっているが、長浜以前からの貴重な生き残りである権兵衛と面会すると、つい昔の調子で話しかけてしまう。 作者は「日本一空気の読める人物、笑いのセンスがあった人物」としている。第一部3巻寸評:史上最も淫蕩にして、最も難解な男 第二部9巻寸評:史上無比の勝負師にして最も機微を知る男 おね 名は寧々、寧子とも。秀吉の正室。杉原氏の出身。酒好きで白昼から顔を赤らめることも多く、幼女のような振る舞いと底抜けに明るい性格を見せ、当初覇気に乏しかった秀吉の尻を叩いていた。秀吉の浮気性にもしきりに警戒している。とはいえ出張の多い秀吉の代わりに羽柴家の内政を盛り切りしており、酔っていても理性と聡明さは失わない。本能寺では長浜城から無事に脱出し、山崎の戦いの後に再会した秀吉の浮気を断罪するなど相変わらず尻に敷いている。その後、(秀吉の関白任官に伴い、従三位に叙せられ)「北政所」と呼ばれるようになり、秀吉の側室や諸大名の妻子、家内の女中の監督の役割を担っている。 茶々(ちゃちゃ) お市と長政の長女。その姿はかつてのお市と瓜二つでその美貌は周囲の男子を無意識に魅惑するほど。政や姫としての嗜みには疎い反面、武芸に打ち込んでいる。父・長政を自害に追い込んだのは小谷城を攻略した羽柴隊であったことから、お市同様に羽柴(豊臣)秀吉のことは快く思っていなかった。 清洲会議後、家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、一時は羽柴家(秀勝)に嫁ぐことが決定したが婚姻前に両家が決裂したため、反故となった。北ノ庄城落城の際に死を決意したお市と「何れの人間が美しきものであったか」競うことを約束し、妹達を引き連れ城から退去するがその時にはお市のような妖艶な雰囲気を醸し出していた。 秀吉が天下人として地位を確固たるものとすると満を持して、秀吉の援助を乞う(実際は秀吉に近づくため)。妹達の婚儀を斡旋してもらう代償として自身は秀吉のものとなることを誓うなど秀吉に取り入って歓心を得ることに成功し、秀吉の側室に迎え入れられて家中では「淀の丸」と呼ばれる。その後も側室の末席からのし上がるため、か弱いフリをしたり、色仕掛け、時には秀吉を叩く(当初は激怒した秀吉も、亡き信長を思い出して感傷に浸り、結果的に歓心を高めた)など巧みに秀吉の心を誘惑し、寵姫の地位を手に入れる。 大野氏(おおのし) 茶々の乳母にして侍女。「のし上がる為に首を懸けるも厭わぬ」との茶々の決意に応え、様々な秀吉懐柔策を茶々に吹き込む。 竜子(たつこ) 秀吉の側室のひとり。茶々がうらやむほど端麗な容姿を持つ。従妹(竜子の母は浅井長政の姉)である茶々には好意的に接する。茶々とは対照的に、閨では秀吉に加虐性欲のはけ口にされている。 豊臣秀長(とよとみの ひでなが) 通称は小一郎、第四部からは権大納言。第四部では大和郡山城主で大和宰相の通称で呼ばれる。秀吉の異父弟。当初は木下姓を名乗っていたが、兄に合わせて改姓していった。秀吉の忠実な腹心として行動し、権兵衛にも温かく接するなど温和な性格の持ち主。信長には「細目」と呼ばれ、伊勢長島の門徒兵からは「細目のしゃくれあご」と呼ばれていた。 物語開始時から秀吉に付き従っており、第二部では思いがけず伊勢長島包囲戦に先陣に抜擢されると、将としても活躍するようになる。以後は羽柴家の副将として西国方面軍にも従軍しており、正勝や高虎などと軍事、外交両面で秀吉を支える。四国征伐の際は出陣を取りやめた秀吉の名代として四国征伐軍の総大将を務め、官兵衛の献策を重用して長宗我部家との合戦を優位に進め、長宗我部家を和睦降伏させた。長年の戦友でもあった正勝が死去した際には秀吉に注進能う者が一人減ったとその死を惜しみ、その後の「戸次川の戦い」で改易処分となった権兵衛を家族同然に心配するも、放任する秀吉に対して「半兵衛殿も小六殿も亡き今―諫言能うは我のみなのですぞ…」と諫言した。九州征伐では豊臣本軍の先陣として上陸、日向方面より侵攻を開始して「根白坂の戦い」では事前の秀吉との協議通りに「長篠の戦い」同様に包囲殲滅作戦をとり、大勝の立役者となった。 九州征伐後に大納言に昇叙、豊臣政権の序列二番手となり、秀吉からも「ワシが最も処世術を教え、最も信のおける小一郎じゃ。万一、我が身に不慮の儀あっても彼奴さえあらば万民憂うことなかろう」と最大級の賛辞を送っていたが、その頃から病がちとなり、家臣の吉川平介による着服事件も発覚、この一件で年頭の挨拶は拒否され、断絶には至らなかったが後日、淀殿に苛烈な秀吉への注進も難しくなってきた心中を吐露した。それから徐々に体調は悪化していき、小田原征伐にも参陣出来ずに後日、秀吉から見舞われた際には、唐入りの際の日本の統治を委任されるも、自身の死期が近いことを語り、秀吉に長生きするよう言い残した。権兵衛の小諸入封直前の天正19年1月、遺言状として秀吉に最大の懸念を書き残そうとした矢先に昏倒し、養嗣子の秀保と娘・おみやに「出世は無用。夫婦息災に」と言い残して、薨去した。その報を聞いた秀吉は、「自分のせいで使える男にしてしまった」と気づき、茶々の信長譲りの折檻を受けなければ落ち着けないほどに狼狽し、慟哭した。後日、訃報を聞いた権兵衛も秀長の冥福を祈った。 秀長の薨去は、豊臣家にとって受難の年の始まりであり、その後、利休の切腹(母・大政所も秀長不在を悔やんでいる)、鶴松の夭折が続くこととなり、秀吉の孤独を深めていくことになる。 豊臣秀次(とよとみの ひでつぐ) 通称は孫七郎、第四部からは権中納言。秀吉の甥(姉の息子)にあたるが、三好笑岩の養嗣子になった経歴から当初は三好姓を名乗っており、後に復姓して羽柴信吉を名乗った。叔父と違って喜怒哀楽に欠けた無表情な青年。秀吉が天下人となるとその後継者候補の筆頭の立場になる。 数少ない秀吉の一族衆ということで周囲から将来を嘱望されており、長久手の戦いでは実績を積む為、叔父から総大将に抜擢された。しかし内心では天下人の跡継ぎという大任に重圧を感じているらしく、大将への抜擢も失敗すればむしろ「鼎の軽重を問われるだろう」と呟いていた。懸念通り、長久手の戦いでは家康にまだ若輩の身であることを見抜かれて榊原隊の奇襲を受け、自らの軍馬を失って敗走するという大敗を喫した。親類衆であることから厳罰は免れた(断髪を命じられたのみで済んだ)が、器に欠けていると落胆された。その後、羽柴姓に復姓し、四国征伐では叔父・秀長の副将として阿波方面軍を率いる。小田原征伐では東海道軍の総大将として”北条家西方の拠点”であった山中城を包囲、「徳川殿に敗れし日から学んだ戦術眼を示す時」と自ら陣頭に立って猛攻の後、わずか半日で落城させた。その心中は秀吉の嫡男・鶴松の誕生から来る焦りであり、秀吉も内心で「イチかバチかの攻勢など天下人の合戦ではない」と苦言を呈した。 木下辰之助(きのした たつのすけ) 通称は金吾、後の小早川秀秋。秀吉の正室、お寧の甥にあたり、秀吉の養子となった。 まだ六歳ながら聡明で秀吉も「神童」とその成長を喜んで後継者候補にも名が入るほどであるが、秀吉の生母、大政所は”六歳の金吾より三歳の秀吉の方が遥かに賢かった”と秀吉を諫めた。 羽柴秀勝(はしば ひでかつ) 通称は於次丸、丹波少将とも。秀吉の養子だが元の出自は信長の四男。風貌は実父の信長や兄達に似ず爽やかな美青年。家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、一時は従妹に当たる茶々との婚姻が決まるも後に両家の決裂により反故となった。茶々とは一度、互いの正体を知らずに出会っており一目惚れしていたほどだが、羽柴家と毛利家の和睦のため、毛利輝元の養女と婚姻した。その後は、病気がちで秀吉の後継者からは外されつつあったが、四国征伐後の1585年末に病死した。 竹中重治(たけなか しげはる) 声 - 小野大輔(戦国大戦) / 中村悠一(パチンコ) 通称は半兵衛。権兵衛と同じ美濃出身の元斎藤家家臣で、当主・斎藤龍興の軍師を務めていた天才的軍略家。左右の瞳の色が違うオッドアイ。酒色に溺れる龍興に失望して僅か16人の兵で稲葉山城を奪うが、自らの理想を実現できずに城を手放して隠棲する。 一見して線の細い美青年だが、物言いは遠慮がなく皮肉屋の部分がある。世を斜に構えて見ている厭世的な人物で、俗世について「武士も農民も汚い」と人間自体を毛嫌いしている(秀吉曰く「引き篭もり」)。しかし正反対の気質を持つ秀吉との出会いで徐々に心を開き始め、金ヶ崎撤退戦を成し遂げた秀吉に感化されて遂に俗世へと戻る。以降は秀吉の軍師として様々な政略・軍略を授け、他に織田家中でも信長に信任されたり、余暇は織田家中の将たちに軍略を教えたりしている。雑賀攻めの中で吐血し、その後次第に体調が悪化していく。 播磨攻めで自身同様孤高の天才である小寺官兵衛と出会い、周囲を寄せ付けない官兵衛にかつての自分を見て絆を育む。官兵衛の謀反が疑われた際には信長の命により処刑される予定であった官兵衛の嫡男・松寿丸をわが身を省みず密かに匿い、その事を権兵衛にのみ明かす。湯山街道攻めの最中に病を押して前線の秀吉の下へと赴き、「人が再び好きになれた事」への感謝の言を述べるが、直後に病没する。 『戦国大戦』Ver2.0にてSS竹中半兵衛としてカード化された。第一部6巻寸評:史上最も端麗にして、最も薄命な男 第二部11巻寸評:史上最も聡慧にして最も深遠な男 蜂須賀正勝(はちすか まさかつ) 通称は小六。秀吉の友人。当初は大酒飲みの巨漢で常に酩酊しており、山賊を髣髴とさせる衣装を纏っていた(秀吉の家臣となってからは酩酊している様子はない)。語尾に「〜ガス」がつく。金ヶ崎撤退戦から帰還した秀吉に感じ入り、以降は秀吉配下の将として転戦する。所属こそ寄騎衆だが配下になる前から秀吉とは友人であった為、重臣の一人として扱われており羽柴家では秀長や官兵衛と主に外交面で活躍しており、備中高松城攻めの際には官兵衛と共に毛利家との和睦交渉を成功させた。四国征伐の際には官兵衛と宇喜多秀家を補佐して、讃岐方面軍の軍監を務める。戦後、秀吉から恩賞として阿波の大名とされるが、大名職は嫡男・家政に譲り、自身は半ば隠居状態として引き続き秀吉の近侍を務めることを要望する。しかしこれは正勝の保身であることを秀吉は見抜き、寂寥を覚えていた。その後、1586年に死去、秀吉は苦楽を共にした織田家臣時代を思い出し、秀長は秀吉に注進能う者が一人減ったとその死を惜しんだ。その後、正勝が担当していた四国の取次役は権兵衛が担うことになる。 第三部からは嫡男・家政も羽柴軍の武将として戦列に加わっている。 神子田正治(みこだ まさはる) 通称は半左衛門尉。秀吉譜代の家臣の一人で黄母衣衆に所属する。竹中半兵衛にその才を認められており、後に半兵衛の寄騎となる。今馬良と称されており白眉殿と呼ばれている。知恵の回らない権兵衛の事は余りよく思っていなかったが、共に戦う内に打ち解けた。中国攻めの最中に5000石に加増される。しかし、小牧・長久手の戦いにおいて敵前逃亡の責を問われ改易、高野山に配流となった。その後、九州征伐の陣中にあった秀吉の元を訪れて寛恕を乞うたが、折り悪く、部下の失態で秀吉が苛立っていた時であり、怒りを蒙って即座に斬首されて後日、京にて晒し首となった。 尾藤知宣(びとう とものぶ) 通称は甚右衛門。秀吉譜代の家臣で黄母衣衆の一人で、後に竹中半兵衛の寄騎となる。同じ黄母呂衆の神子田と同じく権兵衛の事をあまり良く思っていなかったが手取川の戦いで権兵衛に助けられて以来、打ち解けた。泳ぐことが苦手。中国攻めの最中に5000石に加増される。小牧・長久手の戦いでは、物覚えが良く、早馬ということを見込まれ、戦の鍵となる池田恒興の調略という大任を命じられる。恒興調略の功により出世しており、紀州征伐の熊野侵攻の際は軍監として権兵衛・高虎を統率して湯川党と交戦したが、想定を超える敵の大軍に加え、過酷な山中戦を強いられたことで精神的に追い詰められたが、奮闘する権兵衛に感化される形で持ち直し、権兵衛・高虎と共に生還した。その後の四国征伐でも権兵衛と共に讃岐方面軍に配されている。戸次川の戦いの失態で改易処分となった権兵衛の後任の軍監に就任したが、根白坂の戦いでの大勝後、権兵衛の二の舞を避けるために慎重策をとって敗走する島津軍を追撃する好機を逃したことが秀吉の怒りを買い、改易処分となり、人々は「進んだ仙石ご改易、進まぬ尾藤もご改易」と歌った。小田原後、天下人として行軍する秀吉の前に不用意に進み出てしまい、勘気を蒙り斬首と処される。神子田同様、「絶対話しかけてはいけない時」に話しかけ命を失う結果となった。後に秀吉は権兵衛に対し「やりすぎた。殺しまでする気はなかった」と吐露している。 宮部継潤(みやべ けいじゅん) 通称は善祥坊。浅井旧臣で秀吉配下の寄騎衆の一人。秀吉の西国方面軍にも従軍しており、鳥取城攻めで中核を担う。事前に秀吉から落城後の鳥取城主の地位を約定されており、鳥取城の生命線であった支城の雁金城を落城させる。 黒田孝高(くろだ よしたか) 声 - 浜田賢二(戦国大戦) 通称は官兵衛。権兵衛からは苗字と通称を略した「黒官」と呼ばれる。当初は小寺姓を名乗っており、羽柴家中では苗字と通称を略して「小官殿」と呼ばれていたが、有岡城救出後に黒田と改姓した。播磨小寺家の家臣だったが、半兵衛の体調悪化により播州攻めの際に軍師となった。半兵衛に匹敵する軍略の才を持ち、優れた手腕を見せる。播州人の反体制的な鉄血と、近江人の親体制的な冷血を併せ持ち、表面的には皮肉屋ながら内面に熱い想いを抱いている。元は近江からの浪人であるため小寺家中ではあまりよく思われておらず、羽柴陣営でも播州人の反骨精神を警戒され、信頼も得ることが出来ず苦慮する。友となった半兵衛に説かれ半兵衛超えを目指すが荒木村重に説得に向かった先で禁獄される。 牢獄では再三にわたって織田家からの離反を説かれるが、直向に半兵衛を越える事のみを考えて拒絶した。その死を伝え聞いた際には戦わずして天下一の軍師となったと嘯くが、半兵衛への慕いを持ち続ける決意をする。有岡城落城に伴い救出され、正式に羽柴軍軍師に迎え入れられ、以降は難所・鳥取城、備中高松城攻略の策を考案、中国大返しに際しては姫路城を中継地点に提供し、城にあった資産を全て分配している。山崎の戦い後は、秀吉の新本拠地となる山崎城の普請や外交などに奔走していたが長宗我部軍の進攻を受け、淡路の仮代官となっている仙石隊へ派遣される。仙石隊と共に四国で長宗我部軍の対応を練っていたが羽柴家と柴田家の対立が鮮明になると再び中央へ召還された。以後は毛利家との和睦交渉を担当していたが、その鬼謀から秀吉には最終手段と評され、中枢からは遠ざけられつつあったが、平定に手間取る紀州征伐の際に召還され、羽柴家の“汚れ役”を引き受ける決意を伝え、太田城の総攻めや湯川直春の謀殺などを献策する。その後の「四国征伐」では正勝と共に軍監として大将の宇喜多秀家を補佐して権兵衛ら先方衆から情報を引き出し、元親の策を未然に封じた。「九州征伐」では毛利勢らの軍監として参加。「小田原合戦」ではヤマイヌの計を案じるが堀秀政の病状悪化で中止となる。 外見のモデルは、ケヴィン・スペイシー、ベニチオ・デル・トロ。 『戦国大戦』Ver2.0にて、SS黒田官兵衛としてカード化された。第二部10巻寸評:史上最も堅忍にして最も直向な男。 石田三成(いしだ みつなり) 通称は佐吉、後に治部少輔。苗字と通称を略して「石佐」とも呼ばれていた。最初は茶坊主として仕えるが、やがて美貌と人並み外れた算術の才をもって秀吉の寵愛を得、子飼いの文官として重用される。常に笑みを絶やさない柔和な人物だが、理屈や道理に合わぬ事を極端に嫌う合理主義者で冷酷とも思える行動や発言も躊躇わない。頭巾姿に石田家の九曜紋の描かれた羽織を鎧の上に身につけており、考え事をする時には頭を掻く癖を持つ。茶坊主時代は過剰に丁寧な言葉遣いで意見を主張するため、却って反感を買っていた。本編の進行に先立ち、関ヶ原の戦いでの姿が滋賀県彦根市の展覧会で展示された。 安土城前での信長による演説場面で初登場し、手取川の戦い直前の軍議でも登場している(どちらも台詞はあるが顔は隠れ気味)が、正式に登場したのは播磨での検地時となる。播州平定後、若年にして官兵衛の補佐役として庶務方に加わる抜擢を受けるが、反対に出し抜かれた形になる黄母衣衆(神子田、尾藤)の反感を買ってしまう。経験不足を論おうとした神子田と尾藤を「古き戦など知らない方が良い」と返し、更には武功の時代が終った事を理詰めで説いて両者を論破するも、理屈よりも感情の動く権兵衛には問答無用で殴り飛ばされた。その後、理屈だけでは人は動かない事を上役の官兵衛に諭され、権兵衛とも和解の道を選んだ(以来、権兵衛のことは「猪武者殿」と呼んでいる)。 秀吉が天下人の道を歩むにつれて近習として頭角を現し、惣無事令を豪商達に提案する際にも同席を許されるなど秀吉の国作りに大きな関わりを持ちつつある。若手家臣の筆頭として、また羽柴家の内政を取り仕切る浅野長吉ら奉行衆の一人として、今や権兵衛の様な古参家臣ですら三成の取次なしに秀吉の指示を仰げない程とされている。豊臣家が大坂を本拠地としてからは堺代官も務めており、「戸次川の戦い」の失態で権兵衛が改易となった際は周囲が子飼い故に寛大な処分と訝しがる中で「天下人の目は些事は見ておられないということであろう」と秀吉の心情を察した。「聚楽第落首事件」でも秀吉の命で嫌疑者の検断に当たり、いずれ怨嗟を買うことを予期していた。小田原城陥落時、未だ真田父子とともに忍城に釘付けになっており戦後処理には未参加。戦後秀吉からは「戦では頼りない」と評されている。第二部14巻寸評:史上最も才穎にして最も果敢なる男 増田長盛(ました ながもり) 通称は仁右衛門、後に右衛門少尉。豊臣家の家臣。豊臣家の文官で奉行衆の一人で大抵、三成と共に行動している。三成のように権兵衛とは直接の面識がないことから、猪武者である権兵衛には腰が引けている。「聚楽第落首事件」でも三成と共に嫌疑者の検断に当たり、「汚れ役」であることを自覚していた。 大谷吉継(おおたに よしつぐ) 通称は紀之介、後に刑部少輔。 豊臣家の家臣。豊臣家の文官で奉行衆の一人。 長束正家(なつか まさいえ) 通称は利兵衛。丹羽家臣で後に豊臣家臣。豊臣家の文官で奉行衆の一人。奉行衆の中ではまだ年少のため色事に疎く、動揺すると「ななな…」と吃音になってしまう。 丹羽家臣時代は、三成に匹敵する高い算術能力から神童と呼ばれるほど有名で、清須会議でも秀吉が名を挙げるほどの人材。当主であった長秀の死後、秀吉は丹羽家の広大な所領を削減するために濡れ衣の嫌疑をかけたが、奉行頭であった正家は帳簿を証拠として提出して嫌疑の釈明に奔走した。その手腕は益々、秀吉を感服させることになり、嫌疑により所領を没収したうえで更に正家ら有力家臣を引き抜き、「長束がいれば唐入りすら能う」と絶賛した。その後は、豊臣家の奉行衆の一人となって三成らと行動を共にし、秀長家臣の吉川平介による不正を突き止めた。 浅野長吉(あさの ながよし) 通称は弥兵衛。豊臣家の奉行頭でおねの義兄にあたるため、秀吉の親類衆として扱われている。三成・長盛・吉継らと共に豊臣家の奉行一切を取り仕切っている。一方で秀吉が天下人としての風格、威圧感を纏い始めにつれ、恐怖するようにもなり、秀吉の勘気を恐れて奉行頭として権兵衛の「戸次川の戦い」での失態を報告するのを躊躇していたほど。 堀秀政(ほり ひでまさ) 声 - 神谷浩史(鬼武者Soul) 通称は久太郎、後に左衛門督。信長の最も寵愛深い小姓。介者剣法の使い手でもある。己の才を表すことのみを望みとしている。権兵衛が最初に信長に謁見した際に、権兵衛の胆力を試すために一騎討ちをして敗北。以後は権兵衛の悪友となり、金ヶ崎撤退戦では自ら進んで殿軍を務める木下隊に合流して死地から生還する。信長の馬廻り衆として着実に出世を重ね一部隊を率いる将となり、前線・事務方問わず「名人久太郎」の名に違わぬ活躍を見せる。 『一統記』では、中国出陣を決意した信長に先行して羽柴軍と合流していた為、本能寺の変に接する事はなかった。その後、信長死去の報を受けると涙を流しつつも信長を少しでも近づく事を誓い、光秀討伐の為に金ヶ崎以来となる羽柴軍の旗下に入った。山崎の戦いでは先鋒の斎藤利三隊を敗走させる戦巧者ぶりを見せ、戦後の清洲会議では信長の側近であったことからも安土城に近い、佐和山城主に任ぜられた。以後も旧知の秀吉の配下に納まり「羽柴」姓を賜ったこともあり、羽柴軍若手衆の筆頭格となった。小牧・長久手の戦いでは総大将の三好信吉の敗走という窮地に陥りながらも冷静な指揮で勝勢に乗る徳川軍の先遣隊を撃破、一矢を報いてからの退却であったことから戦後は処分を免れている。小田原合戦には病を押して早川口方面に陣するも、ヤマイヌの計実行直前に病状が悪化し策は中止となる。権兵衛の虎口攻めでは対岸から堀監物の鉄砲隊で援護した。病状は快復せず、そのまま陣中で病没。 『鬼武者Soul』に武将として登場している。 前田利家(まえだ としいえ) 通称は又左衛門。羽柴家とは家ぐるみの交流があり互いに「藤吉どん」「又左どん」と呼び合う仲。物語冒頭にて成政と母衣衆の赤母衣衆筆頭に登用され、長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その後は、柴田勝家の寄騎として北陸方面侵攻中。 第三部で険悪になる羽柴・柴田両家の調停役として秀吉の元を訪れる。その際に秀吉から勝家の世とならば佐久間のような武辺者が重用されるが、政で天下を統べる自分の世には利家のような実直な人間が必要と逆に調略を受ける。賤ヶ岳の戦いでは、若くもなく老いてもない中間の自分はなんとしてでも勝たねばならない、と覚悟を決め退却した。戦後は加賀二郡を加増され、加賀・能登の二カ国を治める大名となっている。 藤堂高虎(とうどう たかとら) 通称は与右衛門、幼名は与吉。当初は浅井家臣・阿閉貞征に仕えており、浅井軍の中でも数々の軍功を挙げた武将。没落した家名再興を志しており上昇志向が強い。権兵衛以上の巨躯を誇り知恵も回るが、当初は尊大で小難しい性格をしており、人当たりが良くなかった。権兵衛からは「虎吉」と呼ばれ、羽柴軍の足軽にはその巨躯から「熊」に喩えられる。 貞征に従う形で織田家に寝返り、羽柴秀吉の小谷城攻略戦に参加する。当初は同僚となった権兵衛や才蔵と対立していたが、死闘をくぐり抜けていく内に互いに認め合う戦友となる。第一部終了時には己の不足を悟り諸国を巡り見聞を広め才覚を磨かんとする。第二部では、播磨攻めの最中に羽柴秀長の麾下として羽柴軍に復帰、尊大な性格は鳴りを潜め、己の不足を学ばんとする冷静沈着な将に成長しており、再び権兵衛と功を競う間柄となった。紀州征伐の熊野侵攻の際は、権兵衛・尾藤と共に湯川党との過酷な山中戦を強いられるが、二人を見捨てずに踏みとどまり、冷静な指揮で湯川党の背後を衝いている。第一部14巻寸評:戦国史上最も強かにして、最も有能な男 福島正則(ふくしま まさのり) 通称は市松。秀吉の子飼いの少年。作品冒頭から登場しており、秀吉からは息子同然に可愛がられている。権兵衛とも子供時代から面識があり、「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。目が細く無口だが手先が器用で、第二部からは清正に比べて恰幅の良い体格にもなっており、権兵衛からは「饅頭食いすぎじゃ」とからかわれている。武勇に長けているらしく、柴田家に比べて「武人が少ない」とされる羽柴家にあって清正と共に賤ヶ岳の七本槍として喧伝されている。 加藤清正(かとう きよまさ) 通称は虎之助。秀吉の子飼いの少年。元服を前にして、正則らとともに特別に英才教育を施される事になる。正則同様、権兵衛を「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。羽柴家の将来を担う存在として賤ヶ岳の七本槍と称されているが、同じ子飼いながら急速な立身を果たす佐吉については権兵衛に尋ねられた時は何ともいえない表情を見せていた。 小西行長(こにし ゆきなが) 通称は弥九郎。羽柴家の家臣。商家出身という生い立ちから商い武士と呼ばれており、舟奉行として四国遠征軍の準備や大坂城普請の船舶の差配などを担当しており、紀州征伐では水軍を率いて参陣している。 畿内の海を中心に活動していることから淡路の権兵衛への連絡役も務めている関係で権兵衛とも交流がある(紀州征伐の際には権兵衛が借銭している)。 秀吉の統一後のヴィジョンをただ二人聞かされている者の一人で、大名復帰が決まった権兵衛を祝いにはきたものの、プレッシャーからとてもそんな雰囲気にはならなかった。 外見のモデルは、岩崎弥太郎。 宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 備前の戦国大名。父・直家が秀吉の中国攻めの際に恭順していたことからそのまま羽柴傘下の戦国大名となっており、秀吉の養女との婚約も内定していることから一門衆の扱いを受けている。梟雄と呼ばれた父・直家には似つかない、誠実な人の良さがある。 元服したばかりだが、一門衆の一人として四国征伐の讃岐方面軍の総大将に抜擢され、官兵衛からは「人が良すぎる面もあるが、誠実で優秀」と評されるも、秀家本人は優秀な人材揃いの羽柴家臣団に委縮している胸中を権兵衛に打ち明けている。四国征伐の際、讃岐・植田城で元親の本隊に包囲殲滅される危険に陥った時は、自身の出世よりも羽柴軍の勝利を優先し、官兵衛の献策に従い、讃岐より逃走、そのまま秀長・信吉率いる阿波方面軍への合流という英断を下した。「小田原合戦」では秀吉からの命令では無いとしてヤマイヌの計には参加しなかった。 古田重然(ふるた しげなり) 一般には古田織部として知られる。茶人として、また造園で高名な、名うての数寄者。改易中に連歌会に出席した権兵衛の世話を焼いた、文人肌の武将。官位は従五位下。 武将だてらに連歌会に顔を出す権兵衛に興味を持ち、公界の現状を伝えると共に、権兵衛の娘を息子の嫁に、と申し出る。 後に小諸宛行いに異を唱えに上奏に来た権兵衛を、御伽衆の一人として取り次いでいるほか、扉絵では茶の湯の指南をしている。数寄者の矜持が強く、千利休の影響拡大とともににわか茶人が増えることに苛立っている。 外見のモデルは、サルバドール・ダリ。 前田玄以(まえだ げんい) 通称は民部卿法印。豊臣家臣で秀吉の側近。豊臣政権では京都所司代に就いており、朝廷や奉行衆の取次役として秀吉に近侍している。
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豊臣(羽柴)家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:08 UTC 版)
「天地人 (NHK大河ドラマ)」の記事における「豊臣(羽柴)家」の解説
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) (木下藤吉郎 → 羽柴秀吉 → 豊臣秀吉) 演:笹野高史 当初は織田信長の家臣で、初名は木下藤吉郎(きのした とうきちろう)。後に羽柴(はしば)秀吉(官職は筑前守)と名乗る。信長からは「猿」とあだ名される。明るい口振りで人心を得る術を心得ており人を持ち上げるのが上手いが、一方では冷酷な策士としての顔も持つ。また「趣味」と公言するほどの女好きだが、妻のおねには頭が上がらない。己の出自が低く、子飼の家臣が少ないことから金品や官位で人心を集めようとする癖がある。 本能寺の変後、明智光秀を討ち取り、信長の嫡孫・三法師を跡継ぎと推し、その後見として織田家中で発言力を増す。そして柴田勝家を討ち、関白に就任する。上杉を従わせるため自ら越後に赴き、落水の会見で景勝に上洛を促す。景勝が上洛すると、上杉家を「東国の守護神」と称して持ち上げる一方で、兼続の引き抜きを画策するが失敗する。上杉家を頼りにし、兼続を「天下の器」と評して気に入っているが、無口で利では動かない景勝を苦手としている。 その後、小田原攻めで北条を滅ぼして天下統一を果たすが、愛息・鶴松の死をきっかけに家督を甥の秀次に譲り太閤となった。しかし、これを境に朝鮮出兵や伏見城の築城、さらに次子・拾の誕生で邪魔になった秀次の一族を処刑するなど常軌を逸した行動をとるようになってゆく。やがて病に倒れ、三成に豊臣の天下を守るよう遺言して亡くなった。 高台院(こうだいいん) (北政所 → 高台院) 演:富司純子 秀吉の正室。名は「おね」。 秀吉の側室の茶々(淀)を快く思っていなかった。それに付け込んだ家康が接近する。秀吉の没後高台院と号する。家康との関係を緊迫化させていく淀に諫言をするも、かつて自らがとってきた態度が裏目に出て、一蹴されてしまう。 淀(よど) (茶々 → 淀) 演:深田恭子 秀吉の側室。北近江小谷城主浅井長政と織田信長の妹・市の長女。元の名は茶々(ちゃちゃ)。天真爛漫で思ったことをすぐ口にする性格が北政所に嫌われている。 秀吉との間に鶴松を授かり、北政所に並ぶ権勢を得る。鶴松が亡くなり悲しみに沈む自分を励ましてくれた菊姫とは、「信長の姪、信玄の娘」という過去の因縁を超えた友情で結ばれる。その後、拾(秀頼)を生み次期当主の母として豊臣家の家政を仕切る。秀吉の死後は台頭する家康を牽制するも、その挑発にのって大坂の陣を引き起こす。最期は豊臣家の誇りとともに、秀頼とともに自害して果てた。 豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ) 演:眞島秀和 秀吉の甥で養子。豊臣家の家督を継ぎ関白に就任。しかし秀吉に実子・拾が生まれると次第に疎まれるようになる。その後、謀反の疑いで高野山に追放された後に自害する。また妻子に至るまで全員斬首された。 鶴松(つるまつ) 演:池澤功貢 秀吉の嫡子。秀吉待望の嫡男であったが、わずか三歳で亡くなった。 小早川秀秋(こばやかわ ひであき) (豊臣秀俊 → 小早川秀俊 → 小早川秀秋) 演:上地雄輔 北政所の甥で、秀吉の養子。気弱な性格で兼続と景勝を頼りにしている。当初は秀次と並んで秀吉の有力な後継者と見られていたが、実子・拾(秀頼)が生まれたことから秀吉に疎まれ、小早川家に養子に出される。 関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属していたが、三成を信用しきれなかったことに加えて、家康軍による鉄砲の威嚇で東軍に寝返り、戦の勝敗を決することになる。戦後は家康の豊臣家に対する処理に不満を持ち、三成を裏切ったことを後悔する。兼続に三成の遺言を伝え、裏切りの罪滅ぼしとして病身を押して上杉家存続に尽力し、上杉家の行く末を案じながら短い生涯を終える。 豊臣秀頼(とよとみ ひでより) (拾 → 豊臣秀頼) 演:中村倫也(幼少時代1:伊藤悠翔 幼少時代2:小林海人 少年時代:吉岡澪皇) 鶴松に次いで生まれた秀吉の子。幼名は拾(ひろい)。秀吉の死後、豊臣家の当主となる。家康の孫娘・千姫を迎えて徳川家との融和を図っていたが、大坂の陣で豊臣家とともに滅びた。 千姫(せんひめ) 演:川島海荷(少女時代:田辺桃子) 秀忠の娘。祖父である家康の命で秀頼の元に嫁ぐ。秀頼との仲は非常に良かったが、家康が起こした大坂の陣によって豊臣家は滅亡してしまう。その際に豊臣家に殉じようとするも淀や秀頼に諭され、兼続や真田幸村の活躍によって生き延びた。その後、父や祖父の元に戻るが、豊臣家を滅ぼした家康を一生許さないと言い放ち、家康に衝撃を与えた。
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