渡辺長とは? わかりやすく解説

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渡辺長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/05 16:41 UTC 版)

 
渡辺長
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文3年(1534年[注釈 1]
死没 慶長17年2月24日[1]1612年3月26日
改名 虎法師[1]幼名)→長
別名 通称:小三郎[1]
戒名 前飛州太守五品天誉長栄大居士[2]
墓所 渡辺飛騨守墓所(山口県岩国市錦町広瀬
官位 左衛門大夫[1]石見守[1]従五位下[1]飛騨守[1]
主君 毛利元就隆元輝元秀就
萩藩(長州藩)
氏族 嵯峨源氏融流渡辺氏[1]
父母 父:渡辺通[1]、母:烏森[注釈 2]の娘[1]
正室:清誉妙安(光永元方の娘)[1][2]
[1]、宍戸元重[1]、小五郎[1]、四兵衛[1]、女(宍戸喜三郎室)[1]、女(和智元実室)[1]
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渡辺 長(わたなべ はじめ/まさる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で萩藩(長州藩)士。毛利十八将の一人。官位従五位下飛騨守

出自

渡辺氏源頼光の家臣・渡辺綱の後裔で、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。

生涯

父の死と家督相続

天文3年(1534年)、毛利氏の譜代家臣である渡辺通の嫡男として誕生[1]

天文11年(1542年)1月から天文12年(1543年)5月にかけて大内義隆による出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)に父・通が毛利元就に従って出雲国へ出陣していたが、出雲国からの撤退の途上、石見国邇摩郡の大江坂七曲(降露坂)において尼子軍の追撃により父・通が元就の身代わりとなって戦死すると家督を相続し、父と同様に元就に仕えた。

安芸国と備後国での武功

元服前ながら天文17年(1548年)に山名理興が拠る備後国神辺城攻め(神辺合戦)に従軍し、同年6月20日に神辺城の固屋口において槍働きで武功を挙げ、6月23日毛利隆元から感状を与えられた[3]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、11番目に「渡邊小三郎長」と署名している[注釈 3][4]。同年12月22日毛利隆元から安芸国高田郡の下麻原300貫の代官職を与えられる[5]

天文20年(1551年9月4日安芸国高屋頭崎城平賀隆保との合戦において、家臣の綿貫十郎兵衛尉と小者の助次郎が武功を挙げ、10月2日に毛利元就・隆元父子から感状を与えられる[6]

天文21年(1552年7月23日、備後国の志川滝山城における宮光音との合戦は毛利軍にも多数の死傷者を出す激戦であった[注釈 4]が、長が一番槍の武功を挙げ、7月28日に毛利元就・隆元父子から感状を与えられた[7][8]

天文22年(1553年)4月に備後旗返城の江田隆連が尼子方に寝返ったため、その対処のために備後に出陣した毛利元就は長期戦の構えで旗返城を包囲し、10月には攻め落とした[9]が、この戦いに長も従軍しており、敵の首級1つを挙げている[10]

厳島の戦いと防長経略

天文23年(1554年5月12日に毛利氏が大内氏から独立(防芸引分)すると、天文24年(1555年4月11日に大内方の野間隆実が守る安芸矢野城の支城である千手山城の尾頸丸攻めに従軍して武功を挙げたが、坂元祐と槍の先後を争って軍紀を乱したとして感状が与えられなかった[10][11]。これは元就が戦場においても軍紀を重んじた一例とされている[11]

天文24年(弘治元年、1555年10月1日厳島の戦いにおいては陶晴賢軍の兵の首級3つを挙げる武功を挙げた[10][12]。しかし、この時の毛利氏では恩賞として与える土地が不足していたためか感状を発給しない方針をとっており、長だけではなく厳島の戦いで武功を挙げた者の誰にも感状が与えられなかった[13]

厳島の戦い直後から始まる防長経略にも従軍し、同年(1555年)10月27日杉隆泰が守る鞍掛山城攻め(鞍掛合戦)において、自ら敵兵1人を討ち取った[10][14]。しかし、この時も厳島の戦いと同様に感状は与えられなかったという[10]

弘治2年(1556年4月20日、毛利隆元に従って山崎興盛江良賢宣らが守る須々万沼城攻撃に参加し、自ら槍で城将の伊香賀左衛門大夫を討ち取った[10][15][16]。しかし、翌4月21日に毛利軍は撤退したため、武功を挙げた長、南方某、三入某(熊谷氏か)、細迫玄蕃允らに感状は与えられなかったという[10]

弘治3年(1557年)3月の大内義長が籠もる且山城攻撃に際しては、大内氏大友氏との連絡遮断のため、赤川元保市川経好らと共に赤間関の守りを固めた[17]4月3日に大内義長を自刃させて大内氏を滅ぼし、防長経略が完了した後の同年10月13日に毛利隆元から安芸国の山里と久嶋の内の30貫と、津田の内の20貫の合計50貫文の地を与えられた[18]。同年12月2日に毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、71番目に「渡邊小三郎」と署名している[19]

門司城の戦い

永禄2年(1559年)2月、神村下野守が福屋隆兼の次男・福屋次郎や牛尾久清の兵と共に籠城していた石見松山城攻めでは元就に従い、自ら敵兵の首級1つを挙げ、長の家臣らも首級3つを挙げている[10][20]

永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いにも従軍しており、11月5日に撤退する大友軍を井上春忠らと共に追撃した際に先駆けとして敵1人を討ち取り、中間の源五郎も首級1つを得る武功を挙げている[21][22][23]11月17日に毛利隆元から賞賛の書状を送られ[24]12月13日には周防国佐波郡防府において毛利隆元から毛利元就・隆元父子が連署した感状を送られている[22]。また、翌永禄5年(1562年1月26日に毛利隆元が長に宛てた書状で長の「任官」について触れられており、宛名も「左太」となっているため、永禄4年(1561年)12月13日から永禄5年(1562年)1月26日までに「左衛門大夫」の官途名を与えられたことが分かる[22][23]

立花城の戦いと大内輝弘の乱

永禄12年(1569年)の立花城の戦いに長は嫡男の元と共に従軍していたが、同年10月10日に大友氏の客将であった大内輝弘が周防国吉敷郡秋穂浦に上陸し、10月12日山口に乱入して大内輝弘の乱が勃発[25]。大内輝弘による山口占領の急報が長府に在陣する元就のもとに届くと、元就は立花城で大友軍と戦っていた吉川元春小早川隆景に軍を撤退を命じると共に、長や桂元忠らを山口救援の先遣隊として派遣した[26]10月17日には山口の高嶺城麓である後河原において大内輝弘の軍と交戦し、長の嫡男である元をはじめとして、山県元重、蔵田就貞、入江就昌らが活躍して勝利を収めた[27]10月22日に元就は長に書状を送って元の武功を賞賛すると共に、嫡男の武功に長もさぞや機嫌が良いだろうと述べている[28]

天正3年(1575年10月14日伯耆国の国人である南条氏の家臣15名[注釈 5]が連名で、南条宗勝の後を継いだ南条元続に対して変わらぬ引き立てを毛利氏と吉川元春に求めると共に、南条氏家臣団が毛利氏や南条元続に対して背かないことを誓う血判起請文を長と吉川氏家臣の二宮右京進に提出した[29][30][31]

四国平定と九州平定

天正11年(1583年)、毛利氏と織田氏との領境決定のために、羽柴秀吉蜂須賀正勝黒田孝高を備前国岡山に派遣し、一方の毛利氏では、毛利輝元が長と児玉元良を、吉川元春児玉春種を、そして小早川隆景は井上春忠を岡山に派遣して共同で交渉に当たらせている[32]

天正12年(1584年)5月、長宗我部元親に攻められた河野氏への援軍としての伊予出兵に従軍した三男の小五郎が伊予恵良城における合戦で戦死した[33]。同年5月24日河野通直は長に書状を送って、小五郎の河野氏に対する働きについて今後も忘却せず、輝元にも小五郎の忠義を伝えると述べると共に太刀一振と一腰を長に贈っている[33]。また、同年7月4日には毛利輝元も長に対して小五郎の戦死を悼む書状を送っている[34]

天正13年(1585年9月30日、毛利輝元から周防国玖珂郡三瀬川村[注釈 6]を与えられた[35]

天正14年(1586年)の九州平定にも従軍し、8月21日豊臣秀吉が吉川元春、小早川隆景、吉川元長に宛てた書状には、委細は安国寺恵瓊黒田孝高、渡辺長に申し含めている旨が記されている[36]。また、高橋元種が籠城する香春岳城攻めの最中の12月12日に豊臣秀吉から黒田孝高を通じて朱印状を送られ、香春岳城の城中の者は一人も逃さず、下々に至るまで討ち果たすように命じられる[37]

上洛

天正16年(1588年)には輝元に従って上洛し、同年7月26日豊臣秀吉から豊臣姓従五位下飛騨守の官位を賜った[注釈 7][38][39]

同年9月5日豊臣秀長の招きにより、毛利輝元が小早川隆景や吉川広家らを従えて大和郡山城を訪れると、安国寺恵瓊細川藤孝、黒田孝高、大谷吉継も同席した盛大な饗宴が開かれ、毛利氏重臣の福原元俊口羽春良、長、小早川氏重臣の井上春忠、吉川氏重臣の今田経高も末席の縁側に陪席を許された[40]

文禄2年(1593年3月3日、三分一孫作に「長」の偏諱を与えている[41]

晩年

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防国長門国の2ヶ国へ減封されると長も周防国に移り住み、周防国玖珂郡山代庄広瀬村の2468石2斗余、玖珂郡湯野村208石4斗余、長門国厚東郡高泊村246石7斗余の合計2923石4斗余の地を与えられ、広瀬村にある朝霞城を居城とした。

慶長17年(1612年2月24日に死去[1]。享年79[1]。嫡男の元が跡を継ぎ、同年8月16日には元が知行する周防国玖珂郡河山村の1353石余、玖珂郡広瀬村の648石4斗余に父・長の旧領が加わり、合わせて4924石9斗余の地が与えられることとなる[42]

系譜

  • 父:渡辺通(?-1543)
  • 母:烏森の娘(?-?)
  • 正室:清誉妙安(?-1615) - 光永元方の娘。元和元年12月29日1616年2月16日)没[2]。法名は「清誉妙安大姉」[2]
    • 長男:渡辺元(1552-1618)
    • 次男:宍戸元重(?-?) - 初名は「渡辺秋」[1]
    • 三男:渡辺小五郎(?-1584)
    • 四男:渡辺四兵衛(?-?) - 文禄・慶長の役に従軍して戦死[1]
    • 長女:宍戸喜三郎室(?-?) - 宍戸喜三郎の死後に赤川元信室となる[1]
    • 次女:和智元実室(?-?)

脚注

注釈

  1. ^ 慶長17年(1612年)2月に79歳で没したとされる為、生年は逆算して天文3年(1534年)と推定される[1]
  2. ^ 山内氏の乳母。夫は備後国の岡氏。
  3. ^ この起請文においても記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊志道元保坂広昌(元貞)門田元久、秋広就正、和智元俊、福原就房、桂元忠桂就延兼重元宣渡辺長赤川就秀国司元相、粟屋元真、粟屋元親粟屋元秀赤川元秀、飯田元泰、粟屋元宗、井上元在(元光)赤川元保光永元方、長屋千太郎、福原元正、志道元親桂元親坂保良(元祐)志道元信志道通良(口羽通良)桂元澄敷名元範、南方元次、内藤元種、秋山元継、三田元親、井原元造
  4. ^ 志川滝山城攻めにおける毛利軍の死傷者数については以下の通り。毛利元就の本軍は戦死者7人と負傷者156人、吉川元春の軍は負傷者19人、阿曽沼広秀の軍は負傷者18人、湯浅元宗の軍は戦死者1人と負傷者5人、坂元祐の軍は負傷者11人、長井春保の軍は負傷者19人、市川経好の軍は負傷者11人[7]
  5. ^ この時の血判起請文に名を連ねた南条氏家臣は、南条信正山田重直、一条清綱、津村基信、南条清綱、鳥羽久友、中村八郎左衛門、橋本景正、油木清次、山田久清、豊嶋隆、春日定信、泉養軒長清、小鴨左京、遠江守某の15名[29]
  6. ^ 現在の山口県岩国市周東町三瀬川
  7. ^ 口宣案上卿大納言日野輝資、奉者は蔵人頭左近衛権中将中山慶親[38][39]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 204.
  2. ^ a b c d 桑原邦彦 1991, p. 23.
  3. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第1号、渡邊虎法師との宛て、(毛利)隆元感状。
  4. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  5. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第29号、天文19年(1550年)12月22日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元書状。
  6. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第2号、天文20年(1551年)10月2日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署感状。
  7. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 154.
  8. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第3号、天文21年(1552年)7月28日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署感状。
  9. ^ 山本浩樹 2007, pp. 74–75.
  10. ^ a b c d e f g h 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第17号、年不詳6月19日付け、渡邊長自筆覚書。
  11. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 203.
  12. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 223.
  13. ^ 秋山伸隆 2014, p. 83.
  14. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 228.
  15. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 235.
  16. ^ 近藤清石 1974, p. 319.
  17. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 252.
  18. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第30号、弘治3年(1557年)10月13日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
  19. ^ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付け、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  20. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 350.
  21. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 526.
  22. ^ a b c 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第5号、永禄4年(1561年)12月13日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状。
  23. ^ a b 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第6号、永禄5年(1562年)1月26日付け、左太(渡邊左衛門太夫長)宛て、備隆元(毛利備中守隆元)書状。
  24. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第4号、永禄4年(1561年)比定11月17日付け、渡邊小三郎(長)殿宛て、(毛利)隆元書状。
  25. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 576.
  26. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 577.
  27. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 577–578.
  28. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第7号、永禄12年(1569年)比定10月22日付け、渡邊左衛門大夫(長)殿宛て、(毛利)元就書状。
  29. ^ a b 『吉川家文書』第614号、天正3年(1575年)10月14日付け、渡辺左衛門大夫(長)殿・二宮右京進殿宛て、南条九郎左衛門尉信正・山田出雲守重直・一条市介清綱・津村新兵衛尉基信・南条彦二郎清綱・鳥羽安藝守久友・中村八郎左衛門■■・橋本大藏大輔景正・油木木工助清次・山田久介久清・豊嶋宗介隆・春日彌兵衛尉定信・泉養軒長清・小鴨左京■■基・■■遠江守■綱連署起請文。
  30. ^ 鳥取県史 第2巻 中世 1973, p. 429.
  31. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 151.
  32. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 298.
  33. ^ a b 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第9号、天正12年(1584年)比定5月24日付け、渡邊石見守(長)殿宛て、(河野)通直書状。
  34. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第8号、天正12年(1584年)比定7月4日付け、渡石(渡邊石見守長)宛て、(毛利)輝元書状。
  35. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第32号、天正13年(1585年)9月30日付け、渡邊石見守(長)殿宛て、(毛利)輝元宛行状。
  36. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第13号、天正14年(1586年)比定8月21日付け、吉川駿河守(元春)との・小早川左衛門佐(隆景)との・吉川治部少輔(元長)との宛て、豊臣秀吉書状。
  37. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第11号、天正14年(1586年)比定12月12日付け、渡邊石見守(長)との宛て、豊臣秀吉朱印状。
  38. ^ a b 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第37号、天正16年(1588年)7月26日付け、口宣案。
  39. ^ a b 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第38号、天正16年(1588年)7月26日付け、口宣案。
  40. ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 403.
  41. ^ 『閥閲録』巻165「山代裁判 三分一惣三郎」第17号、文禄2年(1593年)3月3日付け、三分一孫作殿宛て、渡邊長一字書出状。
  42. ^ 『閥閲録』巻28「渡邊太郎左衛門」第34号、慶長17年(1612年)8月16日付け、渡邊土佐守(元)との宛て、毛利輝元・毛利秀就連署状。

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