いつくしま‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【厳島の戦い】
厳島の戦い
厳島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/10 14:49 UTC 版)
天文20年(1551年)に、陶隆房(のちの晴賢)が義隆に対して謀反を起こして甥の大内義長を擁立した(大寧寺の変)。隆包は謀反には反対論を通したが[要出典]、反乱後に陶晴賢(隆房から改名)と共に義長に属したことから、同調していたとされる。なお、この頃の槌山城は菅田宣真が守っており、隆包の城ではなかった。 天文22年(1553年)4月、陶家臣の毛利房宏と共に筑前国に出陣し、陶晴賢に対して反抗的であった原田隆種の高祖城(糸島市)を攻めた。 天文23年(1554年) に生じた三本松城の戦いにも従軍。三本松城(津和野城)の支城である賀年城を攻めた時には、近くにある茶臼山(八幡山)に陣を張ったと伝わる。 大内・陶と毛利の関係が決裂した後、天文24年(1555年)3月に、毛利との内通が疑われた江良房栄を晴賢の命によって岩国で殺害する(晴賢は隆包の内通も疑い、身の潔白証明のために殺害させたともされる)[要出典]。厳島の戦い直前の9月には、晴賢が厳島に全軍を移そうとしていることに反対し、陸路による安芸侵攻を主張。元就の謀略であると義長に直訴したり晴賢の妻を通したりするなどして[要出典]再三諫言したが、三浦房清ら諸将の声に乗せられて血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。ついに隆包は、実弟の方明を岩国に残して、嫡子の隆助と共に厳島に渡海したが、村上水軍が毛利方に付いたのを見て、大内軍の敗戦を覚悟したと伝わる。 隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は総崩れとなった。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、塔の岡(厳島神社のすぐ北にある丘陵)付近で自ら盾となって総大将の晴賢を逃がした。潰走する大内軍の中で、弘中父子とその手勢500はさらに抵抗を続けるも、吉川元春らの攻撃を受けて大聖院付近から民家に火を放って逃亡する。やがて晴賢は自刃したが、弘中隊は100名足らずで天険の駒ヶ林(標高約509メートル)の竜ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮戦の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
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