厳島への監禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 07:55 UTC 版)
永禄10年(1567年)、隆元暗殺の嫌疑で、赤川元保と弟の赤川元久、養子の赤川又五郎が元就の命によって誅殺された。しかし、元保は隆元に対して誠春の饗応は断るべきと進言していたことが判明し、元就は元保らを誅殺したことを悔やんで、元保の兄・就秀の子である元之に元保の家を再興させた。 赤川元保の疑惑が晴れたことで、隆元暗殺の嫌疑は誠春のみに向けられることとなった。この事を憂えた誠春の子・元郷は、永禄11年(1568年)2月16日に元就に血判の起請文を提出し、もし誠春が自分と同様の忠臣でなければ親子の義絶も辞さないと誓ったため、元就は元郷は隆元の死に無関係であると認めたが、誠春は積極的に嫌疑を晴らすような行動はとらなかったため、元就は誠春誅殺の意思を固めた。 しかし、伊予国の形勢が切迫したため誠春の処分は保留し、誠春と弟の柚谷元家(湯谷久豊)も吉川元春と小早川隆景の伊予国遠征へ従軍させた。同年5月には伊予遠征が終わったため、元就は平佐就之と長井元為を使者として元春と隆景に遣わし、直ちに誠春と元家を誅殺するよう命じたものの、元春と隆景は凱旋の途中で従軍中の誠春と元家を誅殺すれば他の諸将の動揺を招き、直後に行われる北九州攻め(立花城の戦い)に悪影響が及ぶことを憂慮して元就に猶予を求めたため、誠春と元家は厳島の摂受坊へ監禁されることとなる。誠春と元家の監視は、伊予遠征時も厳島の守将を務めていた児玉元村と佐武美久が担当し、摂受坊の周囲に柵をめぐらせて厳重に警戒した。
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