いよ【伊予】
伊豫
名字 | 読み方 |
伊豫 | いよ |
伊豫
姓 | 読み方 |
---|---|
伊豫 | いよ |
伊予
伊予
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:37 UTC 版)
「天正の陣」も参照 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万(2万5,000とも)に達した。輝元は備後三原に残り、6月下旬に三原及び安芸忠海の港を発し、同月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸した。続いて7月5日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦もしくは新間(新麻、新居浜)に上陸した。その最初の攻撃目標は宇摩を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である新居郡の金子元宅であった。元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった。元宅は自らは高尾城に在城し、高峠城に当時8歳の主君石川虎竹丸を置いて近藤長門守以下800余の兵で守らせ、金子城には弟の対馬守元春を配した。高尾城には土佐から派遣された長宗我部氏の援兵も籠城に加わった。 7月14日に中国勢は黒川広隆が守る丸山城(高尾城の出城)を攻略(丸山城の戦い)し、続いて15日から元宅と片岡光綱(長宗我部からの援軍)の籠る高尾城を包囲して17日には落城させた。中国勢は続いて新居郡の高峠城を攻め、高峠城兵は石川虎竹丸を土佐に逃がしたのち野々市原(現西条市)にて迎撃、全滅した。その結果、高峠・生子山・岡崎など新居郡の諸城はことごとく陥落し、金子氏の本拠地である金子山城を守っていた金子元春も敗走して同郡での抵抗は終息した(以上、いわゆる伊予に於ける天正の陣)。金子元宅の嫡男の毘沙寿丸は土佐へ落ち延びて長宗我部元親の庇護を受けた。中国勢はさらに東進して土佐勢の妻鳥氏が守る宇摩郡川之江の仏殿城を攻略中の25日に元親が降伏し、講和となった。この頃には南伊予の長宗我部勢も撤退した。 東予二郡の制圧後、中国勢は進路を西に転じ、周敷・桑村・越智・野間・風早郡を制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直の湯築城が攻囲され、隆景の薦めにより開城し通直は道後の町に蟄居した。隆景配下の桂元綱は喜多郡の諸将を攻め、帰順させた。西園寺公広・大野直昌は隆景の元に赴いて降伏し、大野直之・曾根宣高らは捕らえられ、伊予全域の制圧が完了した。
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伊予
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
豊臣政権は、大名統制策の一環として小早川隆景に伊予一国35万石を与えて独立した直臣大名として扱ったが、隆景は一旦毛利家に与えられた伊予一国をあらためて主家より拝領するというかたちを採り、毛利氏の一武将としての体裁を保った。河野通直の居城であった湯築城(愛媛県松山市道後町)に入城した隆景は、大津城(大洲市)に甥で養子の小早川秀包(毛利秀包)を配置するなど伊予の統治を開始し、新しい本拠地を整備して通直を道後に隠居させた。通直には、河野氏の旧家臣のほか西園寺公広や公広の家臣が臣下として配属された。なお、隆景の新しい本拠については、のちに松山城が築かれる松山市勝山の地とする説(川岡勉)と松山市三津の湊山城に比定する説(藤田達生)があり、さらに、その両者いずれにも難があると指摘する見解(内田九州男)もあって、所在地については定説がいまだ成立していない。 このほか、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊には中予和気郡に3万3,000石、村上水軍出身の来島通総には中予風早郡1万4,000石、また、通総の兄得居通幸にも3,000石が与えられた。
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伊予
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天正15年、九州攻めが完了すると小早川隆景は秀吉の命により伊予一国を返上し、かわりに筑前・筑後および肥前のうち1郡半があたえられ、筑前名島城(福岡市東区)に入部した。隆景の養子秀包は、筑後の一部をあたえられ、天正16年に久留米城(福岡県久留米市)に入った。河野家再興を宿願としていた河野道直は、隆景の転出にともない毛利輝元の孫にあたる妻の実家安芸国竹原(広島県竹原市)へ移り、そこで死去した。かつての伊予国人層が伊予を離れ、没落していったのは、この時期のことと推定される。また、河野通直の病死と西園寺公広の暗殺が相次いで起きていることや河野通直の死去の経緯に関する記述の不自然さ(江戸時代から「生害説」があった)から、豊臣政権が伊予の旧勢力を排除するために同国に影響力を持つ小早川氏を九州へ移封させるとともに、旧領主である通直や公広を殺害した可能性も指摘されている。 隆景の九州転出後は、福島正則が東与・中予地方を中心に11万3,200石があたえられ、太閤蔵入地9万石の代官として入部、南予には戸田勝隆が所領7万石、蔵入地10万石の代官として入部した。また、中予地方の一部は粟野秀用に与えられた。伊予における秀吉の直轄領は計19万石に達し、四国のなかでは突出している。このことは、四国・九州を扼する要地として伊予の地が重視されていたことを物語る。福島正則はのちに尾張国清洲城(愛知県清須市)へ移封され、後嗣のなかった戸田氏が改易されると、伊予には小川祐忠、加藤嘉明、藤堂高虎、池田秀氏が配置された(「補説」節内の表を参照)。なお、小早川隆景が検地を実施したかどうかは明らかではないが、正則と勝隆はともに検地を実施している。。
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伊予
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熟田津(にきたつ):道後温泉。熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな(『万葉集』、額田王)
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「伊予」の例文・使い方・用例・文例
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