伊予の大名から改易まで
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文禄4年(1595年)に福島正則が尾張清洲城に転封したのに伴い、伊予国今治7万石を与えられた。 慶長3年(1598年)、朝鮮安骨浦に滞在中に客死した池田景雄(秀雄)の後を受けて、その遺領(伊予国越智郡2万石)から国分城(国分山城、府中城)を与えられ、城主となった。『國領系圖』によればこの年に祐忠は隠居して、祐滋(良氏)に家督を継がせた。 同年3月の醍醐の花見においては三番茶屋を立て、茶室内には狩野山楽や長谷川宗仁ら当代一流の絵師に馬、鷹などを描いた襖絵を描かせた。太閤検地にも関わり、7月24日に西笑承兌から越前の検地が完了し、総奉行の長束正家以下の奉行衆が上洛した事に関する書状「西笑和尚文案」を受け取っている。8月に秀吉が亡くなると、遺物として三原(刀剣)を賜った。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、西軍に与して、北国口守備にあたった後、大谷吉継ら北陸勢と共に美濃路を下って、関ヶ原近くの山中村に陣を布いた。関ヶ原本戦では、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保と共にすでに東軍に内通しており、小早川秀秋の寝返りに呼応して寝返り、家臣・小川甚助の郎党・樫井正信(太兵衛)が平塚為広を討ち取るなど武功を上げた。戦後、佐和山城攻略戦にも参加した。 しかし、藤堂高虎に約束されていた内応への賞賜はなく、通款を明らかにしなかったことを逆に咎められて、身柄は東軍として戦功のあった親族の一柳直盛に預けられ、その嘆願により死一等を減じられたが、内応に応じたにも関わらず改易とされた。改易の理由について、『野史』は本人の資質の欠如と領内悪政を上げ、祐忠・祐滋の親子が共々に石田三成と昵懇であったことを徳川家康が嫌ったためであったとも言う。また所領を没収された理由として、祐忠がいつも弱きを捨てて強きにつくということを諸人が訴えたためであるからともいわれている(『当代記』)。 改易後は京に隠棲。『武徳安民記』に「近比病死ス」とあるが、最終的には慶長6年に近江国高島郡で没して同地には墓があったが、現存しない。代わりに浄立寺に石碑がある。また、旧領国である伊予国分寺にも祐忠のものと伝わる供養塔が残る。
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