伊予の大名から改易までとは? わかりやすく解説

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伊予の大名から改易まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 15:03 UTC 版)

小川祐忠」の記事における「伊予の大名から改易まで」の解説

文禄4年1595年)に福島正則尾張清洲城転封したのに伴い伊予国今治7万石与えられた。 慶長3年1598年)、朝鮮安骨浦に滞在中に客死した池田景雄秀雄)の後を受けて、その遺領伊予国越智郡2万石)から国分城国分山城府中城)を与えられ城主となった。『國領系圖によればこの年に祐忠は隠居して、祐滋(良氏)に家督を継がせた。 同年3月醍醐の花見においては三番茶屋を立て茶室内には狩野山楽長谷川宗仁当代一流絵師に馬、などを描いた襖絵を描かせた。太閤検地にも関わり7月24日西笑承兌から越前検地完了し総奉行長束正家以下の奉行衆上洛した事に関する書状「西笑和尚文案」を受け取っている。8月秀吉亡くなると、遺物として三原刀剣)を賜った慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、西軍与して北国守備あたった後、大谷吉継北陸勢と共に美濃路下って関ヶ原近く山中村に陣を布いた関ヶ原本戦では、脇坂安治朽木元綱赤座直保と共にすでに東軍内通しており、小早川秀秋寝返り呼応して寝返り家臣小川甚助郎党正信太兵衛)が平塚為広討ち取るなど武功上げた戦後佐和山城攻略戦にも参加した。 しかし、藤堂高虎約束されていた内応への賞賜はなく、通款明らかにしなかったことを逆に咎められて、身柄東軍として戦功のあった親族一柳直盛預けられ、その嘆願により死一等減じられたが、内応応じたにも関わらず改易とされた。改易の理由について、『野史』は本人資質欠如領内悪政上げ、祐忠・祐滋の親子共々石田三成昵懇であったことを徳川家康嫌ったためであったとも言う。また所領没収され理由として、祐忠がいつも弱き捨てて強きにつくということ諸人訴えたためであるからともいわれている(『当代記』)。 改易後は京に隠棲。『武徳安民記』に「近比病死ス」とあるが、最終的に慶長6年近江国高島郡没して同地には墓があったが、現存しない。代わりに浄立寺に石碑がある。また、旧領国である伊予国分寺にも祐忠のものと伝わる供養塔が残る。

※この「伊予の大名から改易まで」の解説は、「小川祐忠」の解説の一部です。
「伊予の大名から改易まで」を含む「小川祐忠」の記事については、「小川祐忠」の概要を参照ください。

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