たいこう‐けんち〔タイカフ‐〕【太×閤検地】
太閤検地
太閤検地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:25 UTC 版)
太閤検地は天正10年(1582年)に始まり、慶長3年(1598年)まで再検地を含めて全国で実施された。文禄2年(1593年)の年次の入っている『大日本六十六国並二島絵図』、文禄3年(1594年)の石高を記載している『当代記』、慶長3年(1598年)旧暦8月の年月の入っている『日本賦税』など、国高を記載する複数の史料が知られているが、その数字にほとんど差異はなく、ほぼ同一の史料からの引用と思われる。なお出羽国の石高は明らかに異常であるが、置賜郡などの上杉景勝の出羽国内領分が陸奥国の石高に加算されている可能性が指摘されている。
※この「太閤検地」の解説は、「石高」の解説の一部です。
「太閤検地」を含む「石高」の記事については、「石高」の概要を参照ください。
太閤検地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:09 UTC 版)
天正年間に豊臣秀吉の命により、全国で太閤検地が実施された結果は、美濃国は54万石、恵那郡は34,3102斗6升5合であった。太閤検正保書上帳による恵那郡の78ヶ村の石高については以下の通り。 太閤検地での石高 尾張藩領中津川村1,334石6斗3升6合 手金野(手賀野)村446石5斗4升 駒場村772石 落合村480石4斗1升 川上村180石 付知村284石8升 加子母村1,189石5升 千旦林村552石6斗2升 大井村512石6斗4升 正家村873石2斗7升 旗本茄子川馬場氏領と尾張藩の山村氏(木曽方)・干村氏(久々利方)領茄子川村1,367石6升 天領と苗木藩領下野村367石1斗 苗木藩領日比野村996石2斗1升 上地村95石9斗 瀬戸村133石 坂下村972石4斗3升 上野村255石 田瀬村295石 福岡村739石 鷹山(高山)村340石 蛭川村880石9斗9升 毛鹿母(毛呂窪)村362石5斗2升 以下の3村については、加茂郡の太閤検正保書上帳に記載されている。姫栗村439石4升 川合(河合)村217石 中之方(中野方)村554石4斗4升 岩村藩領岩村828石6斗7升 飯羽間村293石8斗 富田村1,613石 阿木村1,589石6斗4升 飯妻(飯沼)村459石8斗8升 東野村1,225石3斗9升 中野村531石4斗5合 永田村257石8斗9升 久須見村1,057石6升 竹折村304石5斗 藤村962石5斗5升 野井村492石9斗7升 佐々羅木(佐々良木)村641石9斗4升 椋実村52石7斗2升 上村649石5斗5升4合 下村226石9斗4升 漆原村114石4升 小田子村121石2斗7合 串原村1,028石2升6合 澤中村17石2斗6升 岩村藩領と尾張藩領馬場山田村1,656石4斗7合1升 旗本明知遠山氏領明知村684石1斗1升2合 上田村56石7斗6升6合 大栗村50石6斗 田良子村157石4升 吉良見村161石2斗8升 大船村103石2斗2升4合 小泉村101石2斗 柏尾村17石4斗6合 岩竹村26石6斗1升2合 安主村14石1斗6升8合 土助村34石3斗2升8合 才坂村32石4斗7升4合 阿妻村90石3斗5升 颪須淵村7石1斗 浅谷村104石3斗2升 一色村20石 野原村339石7斗 野志村214石7斗 小杉村51石6斗1升2合 落倉村24石3斗7升2合 馬木村30石2斗4升 馬坂村13石8斗6升 高波村136石1斗 嶺山(峰山)村32石1斗5升9合 杉平村75石6斗 門野村161石4斗8升 久保原村540石7斗 上手向村708石4斗 下手向村383石6斗 釜屋村456石5斗7升 田代村97石4斗1升2合 原村223石3斗 猿爪村240石1升4合 天領(当初は旗本小里氏領であったが廃絶になったため天領となる)水上村173石5斗7合4升 大川村176石4升
※この「太閤検地」の解説は、「恵那郡」の解説の一部です。
「太閤検地」を含む「恵那郡」の記事については、「恵那郡」の概要を参照ください。
太閤検地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:43 UTC 版)
石高制の確立に大きな影響を与えたのは、豊臣政権の太閤検地であるが、実は太閤検地にも時期によって大きく内容が分かれる。前期の太閤検地でも石高制に基づく検地方針は示されていたが、臣従したばかりの地方の有力大名に対して貫徹させるまでには至らなかった。全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年)、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮・軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。ただし、注意すべきは「大名の領知高を確認する」という点である。例えば、長宗我部氏の土佐一国9万8千石は実際の検地によるものではなく、同氏の動員可能兵力からの逆算と言われ、佐竹氏や島津氏などに対しては石田三成ら奉行が政治的必要(軍役負担などの観点)から石高を操作していたことが知られている。更に領内で米がほとんど獲れず、もっぱら貿易による利益に依存していた宗氏や松前氏は実際には無高もしくはそれに近いにも関わらず、利益から計算された形式上の表高が与えられていた。また、一部の地域では国人や農民による一揆を恐れて検地そのものを行われなかったと言われている。もっともそうした地域でも全国的な流れの中で石高表記への移行は受け入れざるを得ない状況になっていった。
※この「太閤検地」の解説は、「石高制」の解説の一部です。
「太閤検地」を含む「石高制」の記事については、「石高制」の概要を参照ください。
「太閤検地」の例文・使い方・用例・文例
太閤検地と同じ種類の言葉
- 太閤検地のページへのリンク