賤ヶ岳の戦い
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賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市、旧:伊香郡木之本町)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。
注釈
出典
- ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
- ^ 高柳 2001.
- ^ 池上ほか 1995, p. 477.
- ^ 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(初出:『堺市博物館研究報告』32号(2013年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.473-476)。
- ^ 『尾張群書系図部集 下』(続群書類従完成会、1997)p.853
- ^ a b c 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.474)。
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』pp.474-476)。
- ^ 『一柳家記』(『続群書類従 第二十輯下』p.476)。
- ^ a b 神田 2002, p. 270.
賤ヶ岳の戦い
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詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照 柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。当初、両者は持久戦の構えを取っていたが、従兄弟で勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。 これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を大岩山で討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令しており、桑山は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答、賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。 しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗(『柴田退治記』)。この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきた(美濃大返し)、よって盛政は敵中に孤立してしまった。その後、前田利家らの部隊が撤退したため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。 結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした。
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賤ヶ岳の戦い
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1583年(天正11年)に、周辺は賤ヶ岳の戦いの合戦場となった。 詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照
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