滝川益重
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 生年不詳 |
| 死没 | 没年不詳 |
| 別名 | 益氏、詮益 通称:儀太夫 |
| 主君 | 滝川一益、豊臣秀吉 |
| 氏族 | 滝川氏 |
| 子 | 娘(楠木正盛室)、前田利益? |
滝川 益重(たきがわ ますしげ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。滝川一益の甥。通称は儀太夫[1]。名は益氏(ますうじ)、詮益(あきます/のります)とも[2][注釈 1]。
経歴
滝川一益の一族で、甥とされる[1][注釈 2]。生年は不詳[注釈 3]で、前半生に関する情報は乏しい。『祖父物語』では、益重は心が剛気で分別深く、鉄砲の名人であったという[17]。叔父一益が織田信長の下で立身し、北伊勢5郡を領して一軍を率いる重臣となると、一益に家老として仕えた[19]。
天正10年(1582年)、一益に従って甲州征伐に出陣し、新府城を逃亡した武田勝頼父子を田野で捕捉した滝川軍の先陣を篠岡平右衛門とともに務め、3月11日に一益の命令で勝頼を包囲し自害に至らしめた(『信長公記』)[20]。武田氏滅亡後の所領配分で一益には信濃国のうち二郡と上野一国を与えられ、益重は上野国内に領地を得た[1]。
上野国に入国した滝川一益は、益重を真田昌幸が明け渡した沼田城の城代とし、入城させた[21]。このとき、昌幸の次男信繁を人質として預かっている[22]。5月、益重は沼田城から越後国への侵攻をはかり、23日に上杉氏家臣の清水城主長尾伊賀守と樺沢城主栗林政頼が陣を張る三国峠に攻め登ったが、撃退されて猿ヶ京城に敗走した。25日の夜には栗林政頼が益重の籠る猿ヶ京城を攻撃したが、益重は浮き足立つ滝川軍を鎮めて籠城に徹し、小勢の上杉軍は城下を放火しただけで撤退した(『北国太平記』)[23]。
6月2日、本能寺の変で織田信長が横死した。『関八州古戦録』などの軍記物語では、9日に凶報を知らされた一益は家老の篠岡平右衛門、津田元親と甥の滝川益重を集めて方針を相談し、信長の死を公表したとされているが[24]、小泉城主富岡氏の照会に対して京都は平静であると取り繕った書状が残っており、事実ではないと考えられている[25]。また、『管窺武鑑』によると、益氏は沼田城を旧城将の真田昌幸に返還するように一益から指示を受けたが、武田氏以前に後北条氏の下で沼田城の城将だった藤田信吉が上杉景勝に通じ、5000人の兵で沼田城を攻めた。4000人の兵で沼田城を守る益重は、城内を熟知している信吉によって水曲輪の一つを乗っ取られる苦戦を強いられたが、6月13日に一益の援軍が到来し、信吉はその夜にひそかに離脱して越後国に逃れた。これにより14日に一益は沼田城を真田氏に引き渡したという[26]。18日から19日に上野国に侵攻してきた北条氏直を一益が迎撃した神流川の戦いに益重も参陣し[27]、敗れた一益に従って伊勢国に帰った[28][注釈 4]。
天正11年(1583年)1月、一益は織田信孝・柴田勝家に与して織田信雄・羽柴秀吉に対して挙兵し、信孝方から秀吉方に鞍替えしていた関盛信の亀山城と岡本良勝の峯城を奪取し、亀山城に佐治新介[注釈 5]、峯城に益重を配置した。これに対して秀吉は2月に伊勢に侵攻し、安楽峠を越えてきた秀吉の弟羽柴秀長は、12日に峠下にある峯城を包囲し、16日には城下に放火した[31][32]。秀吉は亀山城攻めに自ら参陣して猛攻を加え、3月3日に開城させたが[31]、峯城は頑強な抵抗を続け、『多聞院日記』によると4日には筒井順慶が率いる大和国の軍が峯城攻めで損害を受けている、8日には亀山城が開城した後も峯城は堅固でまもなく付け城の構築が始まるという情報が奈良にまで伝わっている[33]。峯城の包囲は織田信雄が引き継ぎ[31]、信雄は金堀(坑道)を本丸の土居の際まで掘り進めて兵糧攻めを行った(『黄薇古簡集』)[32] [34]。4月17日、益重は峯城を開城して退去した[35][注釈 6]。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅亡すると、長島城で抵抗を続けていた一益も降伏して失領したが、益重は秀吉に召し出されて領地を与えられた(『勢州軍記』『武家事紀』等)[36][37]。天正12年(1584年)の小牧の役の秀吉軍陣立書によると、益重は100人の兵を率いて伊東祐時、毛利秀頼、牧村利貞ら秀吉の馬廻と同陣している(「浅野家文書」)[38]。天正14年(1586年)、秀吉の妹朝日姫の徳川家康への輿入れに随行した秀吉家臣の1人として、浅野長政、富田一白、伊藤秀盛とともに名前が見える(『家忠日記』)[39][40]。
この間、天正12年(1584年)1月22日から天正13年(1585年)4月26日にかけて、津田宗及の茶会に4回、客として招かれている(『宗及茶湯日記』)[1][41][注釈 7]。
天正15年(1587年)、九州の役に前衛として350人の兵を率いて出陣した(『当代記』)[42]。以後の動向は不明[1][注釈 8]。
滝川氏から前田利家の兄利久の養子に入った前田慶次は、一説に滝川一益の甥「滝川儀太夫」の子とされる(『加賀藩史料』)[注釈 9]。また、『勢州軍記』によると、伊勢楠木氏最後の当主楠木正盛は「滝川義太夫」の婿である[46]。
脚注
注釈
- ^ 「益重」の名は『綿考輯録』『寛政重修諸家譜』に拠り[3][4]、『織田信長家臣人名辞典』『戦国人名事典』『戦国人名辞典』はいずれも「滝川益重」の名で立項されている[1][2][5]。「滝川益氏」は『関八州古戦録』に見え[6]、加賀藩の史料『本藩歴譜』で前田慶次の実父の名とされている[7]ことからもっぱら慶次に関する言及で用いられ[8][9]、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』など、慶次と関係する作品で採用される[10]。詮益の名は『戦国人名事典』のみに記載されている[2]が、かつては『烈祖成績』『勢陽五鈴遺響』『名将言行録』『真書太閤記』『絵本太閤記』など多くの流布した書物で用いられていた[11][12][13][14][15]。
- ^ 『勢州軍記』『関八州古戦録』等、益重と一益との続柄を示す史料の多くは益重を一益の甥とする[6][16]が、『烈祖成績』では弟[11]、『真書太閤記』に引く「江州滝川系図」では従兄弟[14]など異説もある。なお、益重(益氏)を前田慶次の父とする『本藩歴譜』では一益の従子(甥)とあるが[7]、慶次に関する記事や作品ではしばしば一益の従弟と書かれている[9][10]。
- ^ 『祖父物語』には天正11年(1583年)に51、2歳であったとあり、逆算すると天文2年(1533年)頃の生まれとなる[17]。他方、益重の子とされる前田慶次が、加賀藩の史料『考拠摘録』記載の没年から逆算すると天文2年生まれである(ただし同書では慶次は益重の子ではなく一益の弟とされる)[18]。
- ^ 松浦鎮信の『武功雑記』では「家老滝川儀太夫」が神流川の戦いで討ち死にしたとしており[29]、益重を戦死者に挙げる資料もある[27]。
- ^ 亀山城の城将を「滝川益氏」とするものもあるが[30]、史料上では亀山城は佐治新介が城将で、滝川儀太夫(益重・益氏)は峯城に入っている。ただし、佐治新介の名を益氏とする史料もある(『綿考輯録』『寛政重修諸家譜』)[3][4]。
- ^ 『祖父物語』では、秀吉は益重の武勇を惜しんで一益と交渉し、一益から開城を勧告させる使者を送らせたが、益重は一益の自筆の書状による命令でなければ城は明け渡せないと言って籠城を続けたので、一益の書状を取り寄せて開城させた。秀吉は益重に5万石で仕官を誘ったが、益重は一益が健在のうちはたとえ100万石を与えられるとしても仕える気はないと断ったため、黄金2000枚と感状を与えたという[17]。
- ^ すべての茶会において相伴の客は津田盛月と松下之綱であり、谷口克広は益重が両者と親しかったのであろうとする[1]。
- ^ 滝川益重は人名辞典で生没年不明とされているが[1][2][5]、益重の別名である滝川益氏は、108歳まで生きた長寿の戦国武将として医薬品製造会社のホームページなどに紹介されている[43]。出典は書かれておらず、歴史学者の渡邊大門は、益重は寛永12年(1635年)に109歳で亡くなったと紹介しつつ疑問が残るとする[44]。なお、インターネット百科事典「ウィキペディア」では、滝川益重と別人として立項された滝川益氏 の2006年8月26日 (土) 17:52(UTC)版に「1527年 - 1635年」の生没年が記入されていた。
- ^ 『加賀藩史料』に引く『桑華字苑』『本藩暦譜』『前田氏系譜』は慶次を一益の甥滝川儀太夫の子とするが、『考拠摘録』は滝川一益の弟、『三壷記』は一益の子、『重輯雑談』は滝川氏であるが続柄は不詳とするなど異説も載せる[45]。
出典
- ^ a b c d e f g h 谷口克広 1995, pp. 238–239.
- ^ a b c d 阿部猛 & 西村圭子 1987, p. 477.
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- ^ a b 『寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年、614頁。
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- ^ 『加賀藩史料』 第1編、石黒文吉、1929年、930-932頁。
- ^ 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』中央公論新社、2017年、234頁。
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参考文献
固有名詞の分類
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