滝川氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 18:05 UTC 版)
滝川氏(たきがわし、旧字体:瀧川氏)は、日本の氏族。家紋は丸に竪木瓜。近江国甲賀郡に興り、織田信長の重臣・滝川一益を出した。
一益の家系は『寛永諸家系図伝』[1]以来、河内高安庄司の後裔を称し本姓を紀氏とするが[2]、伴資兼の後裔で本姓伴氏の甲賀伴党に属するとする説も新井白石の『藩翰譜』[3]などで支持されている[4]。あるいは楠木氏、甲賀氏とする説もある[要出典]。
安土桃山時代から江戸時代にかけて大名・旗本として活動した滝川氏には、一益の家系の他に、一益より滝川の苗字を授与された滝川忠征の家系と滝川雄利の家系があり[1]、合わせて本項で扱う。
一益系(旗本・岡山藩士・鳥取藩士)
滝川氏 | |
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丸に竪木瓜
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本姓 | 称・紀氏 (伴氏説あり) |
家祖 | 滝川一勝? |
種別 | 武家 |
出身地 | 近江国甲賀郡 |
主な根拠地 | 伊勢国桑名城 上野国厩橋城 |
著名な人物 | 滝川一益 瀧川幸辰 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
『寛政重修諸家譜』の編纂時に一益の子孫が江戸幕府に提出した系図では、滝川氏は紀長谷雄の後裔を称する。長谷雄の4世の孫・雄致が河内国高安庄(大阪府八尾市)の荘官になって高安庄司を称し、その後裔貞勝が戦国時代に近江国甲賀郡の一宇野城(滋賀県甲賀市甲賀町櫟野)に移り住み、その子一勝(別系図の資清?)が滝城(滝川城)に移って滝川を称した。そして、一勝の子である一益に至って尾張国に移り、織田信長に仕えたとする[2]。
ただし、山科言継の日記『言継卿記』に、天文2年(1533年)に言継が飛鳥井雅綱に同道して尾張国勝幡城の織田信秀を訪問した際に、出迎えて蹴鞠に参加した織田家家臣に「滝川彦九郎勝景」の名が見える等、一益が織田信長の家臣として活動を始める前から尾張国で滝川氏の武士が根付いていた記録が見られる[5]。また、天文3年(1534年)生まれの織田信長の乳母養徳院の夫・池田恒利は、滝川貞勝の三男で池田氏に養子に入ったとする系図もある[6](この場合、恒利夫妻の子である池田恒興は一益の従兄弟ということになる)。
一益は、伊勢国の経略や甲州征伐に功績を上げて伊勢北部や上野国を領する重臣となるが、信長が天正10年(1582年)に本能寺の変で没した後は上野国を後北条氏に奪われ、羽柴秀吉と対立して北伊勢の所領も失って没落した[7]。
一益長男の一忠は父とともに秀吉に従って蟹江城合戦で敗れた後は仕官せず浪人として過ごした。一忠の子・滝川一積は従弟・一乗の名代を経て1000石の旗本に取り立てられたが、寛永9年(1632年)に妻の兄弟である真田信繁の娘を無断で養育して嫁がせたことを咎められて改易された。寛文3年(1663年)に一積の嫡子・一明が300俵で召し出され、子孫は旗本となった[2]。
一益次男の一時は徳川家康に仕えて2000石を与えられたが、慶長8年(1603年)に早世した。嫡男・一乗は幼年であったため名代に立てた従兄一積に1000石を譲り、加増分と合わせて1200石を領する旗本となった。子孫は一乗の長男・一俊(下総国葛飾郡・相馬郡900石)の系統と一乗の四男・一成(300石、のち300俵)の系統に分かれた[2]。
一益三男の辰政は織田信包や小早川秀秋などに仕えた後、姫路藩主・池田輝政に仕官し、子孫は池田家の転封により岡山藩の番頭格の重臣(2000石)となった[8]。滝川事件で知られる京都大学総長・瀧川幸辰は辰政の子孫である[9]。なお、岡山藩には一益が甲賀にいた頃の婚外子と伝えられる滝川万五郎(池田長吉の家老)の子孫も仕えている[10]。
一益四男の知ト斎の後裔を称する家として、鳥取藩士・滝川軍右衛門家[11]と、鳥取で医業に就く医家瀧川家がある[12]。
一益の従兄弟とも甥とも伝わる滝川益氏(あるいは滝川益重)の次子・慶次郎利益は前田利久の養子となり、前田氏に仕えた。後に出奔し上杉景勝に再仕官しているが、利益の子・正虎は加賀にとどまり、前田利常に仕えている[13]。
一益との続柄が不詳の一族に富山藩家老の滝川玄蕃家がある。家祖は一益の下に属した滝川一治で、一益の没落後に浅野幸長を経て前田利常に仕え、一治嫡男の一茂は利常の次男で10万石を分与されて富山藩を興した前田利次に附属され、代々家老を務めた[14]。
幕末の知行所
旧高旧領取調帳データベース[15]による。
滝川八之助
- 下総国 葛飾郡 木崎村 183石余
- 下総国 葛飾郡 谷津村 373石余
- 下総国 葛飾郡 五木村 314石余
- 下総国 相馬郡 泉村 115石余
忠征系(旗本・尾張藩士)
滝川氏 | |
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丸に竪木瓜
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本姓 | 称・紀氏 |
家祖 | 滝川忠征 |
種別 | 武家 |
出身地 | 尾張国中島郡稲島 |
主な根拠地 | 尾張国稲島城(滝川下屋敷) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
尾張国中島郡稲島(愛知県稲沢市)出身の木全忠澄の子忠征は、滝川一益に仕えて滝川の苗字を与えられ、以後代々の子孫は滝川を称した。
忠征は一益の没落後、豊臣秀吉に仕えて摂津国川辺郡、丹波国船井郡、近江国蒲生郡、美濃国加茂郡の4郡で2010石余りを与えられており、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に仕えてそのまま旗本となって、名古屋城築城の普請奉行を務めた後、家康の遺命により尾張藩の年寄(家老)に任命され、尾張国内で6000石を与えられて出生地の稲島に屋敷を構えた(稲島城)[16]。
尾張藩への転属後、忠征は外孫(娘と広島藩主浅野氏の家臣浅野忠正の間の子)直政を早世した長男法直の婿養子に迎えた上で秀吉から与えられた旧領2010石余りを譲って幕府直参の旗本に別家させた[17]。
他方、存命の四男時成と五男忠尚は父に従って尾張藩に仕え、忠征が与えられた稲島6000石を時成、隠居料1000石を忠尚が相続した[18]。
これにより、子孫は旗本と尾張藩士の2系統に分かれた。旗本系は加増も所領の分割もなく2010石余りの旗本1家が存続した[19]。幕末の当主滝川元以は京都町奉行など遠国奉行を歴任した[20]。
尾張藩重臣の滝川家は短命の当主が続いて名跡相続を繰り返し、所領を1300石まで減らして在所の稲島も返上した。江戸時代後期に小折生駒氏から養子入りした滝川忠暁が家祖忠征以来の年寄に登用され、4000石に加増されて稲島を再び在所とした[21]。1000石を領した分家も3代目が本家名跡を相続した際に断絶したが、忠暁の五男滝川忠貫が再興し、忠貫は幕末に年寄等の要職を歴任した[22]。
幕末の知行所
旧高旧領取調帳データベースによるが、摂津国に所在する所領のみ「滝川鍼太郎」名義となっている[15]。理由は不明。
滝川主殿
- 美濃国 加茂郡 則光村 254石余
- 美濃国 加茂郡 野原村 19石余
- 美濃国 加茂郡 加茂野村 7石余
- 美濃国 加茂郡 為岡村 193石余
- 美濃国 加茂郡 山本村 226石余
- 近江国 蒲生郡 蒲生堂村 486石余
- 丹波国 船井郡 東大戸村 251石余
- 丹波国 船井郡 東高屋村 97石余
滝川鍼太郎
- 摂津国 川辺郡 潮江村 574石余
雄利系(片野藩主・旗本)
滝川氏 | |
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丸に竪木瓜
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本姓 | 村上源氏北畠氏庶流 |
家祖 | 滝川雄利 |
種別 | 武家 |
出身地 | 伊勢国一志郡木造 |
主な根拠地 | 伊勢国神戸城 常陸国片野城 近江国浅井郡宮部 |
著名な人物 | 滝川雄利 滝川具挙 滝川具綏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
村上源氏北畠氏庶流木造氏の僧・主玄は、一益が木造氏を調略して織田方につけた際に一益に才能を見出され、滝川の苗字を与えられて滝川雄利と名乗った[23]。
雄利は織田信雄、豊臣秀吉に仕えて伊勢国神戸城2万石を領し、関ヶ原の戦いで西軍について失領するものの、徳川家康に召し出されて常陸国片野藩2万石の藩主となった。雄利の長男・正利は病弱で嗣子がなかったため、寛永2年(1625年)に所領の大半を返上して2000石の旗本となった。正利の死後、譜代大名土岐氏出身の滝川利貞が幕命で正利の娘を娶って名跡を継承し、夫妻の次男・利錦が加増されて4000石を与えられた[23]。片野から近江国内に所領を移されて浅井郡宮部(滋賀県長浜市)に陣屋を設け、子孫は4000石の旗本として存続した[24]。利錦の子孫には甲府勤番支配として甲府学問所徽典館の創建や甲斐国の地誌『甲斐国志』の編纂に関わった滝川利雍がいる[25]。
利錦の弟・具章は近江国滋賀郡・蒲生郡の2郡に1500石の所領を与えられ、家督は具章の次男・平利が1200石を相続し、具章の三男・邦房に300石を分知した。邦房の跡は養子の利行が継いだが、後に利行は平利の跡を継いだ具章の末子具英の養子となって300石の所領を返上したため、子孫は1200石の旗本1家が幕末まで存続した[26]。具章の子孫には鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いたとされる大目付の滝川具挙、戊辰戦争を通して活躍した滝川具綏がいる[27]。
雄利系は、江戸時代の初め頃は一益系と同じく紀氏を称していたが、のちに家祖の雄利の出自にちなんで村上源氏に改めた[23]。
幕末の知行所
旧高旧領取調帳データベースによる[15]。同データベースには近江国滋賀郡・蒲生郡で1200石の知行を領した分家の記載がないが、これは幕末の当主である滝川具挙が鳥羽・伏見の戦いの責任で処分された後、家督継承を許された次男規矩次郎(具和)は徳川宗家に従って静岡藩の藩士となり、旧幕時代の所領を失ったため[28]。
滝川斧太郎
- 近江国 蒲生郡 馬淵村 371石余
- 近江国 坂田郡 池下村 666石余
- 近江国 坂田郡 河崎村 83石余
- 近江国 坂田郡 南小足村 128石余
- 近江国 浅井郡 宮部村 2000石余
- 近江国 浅井郡 大井村 176石余
- 近江国 浅井郡 曾根村 500石余
- 近江国 浅井郡 十九村 95石余
系譜
一益系
忠征系
雄利系
脚注
- ^ a b 『寛永諸家系図伝』「紀姓」(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- ^ a b c d 『寛政重脩諸家譜』第4輯、國民圖書、1923年、442-447頁。
- ^ 『藩翰譜 : 12巻 巻七』吉川半七、1896年、44丁表。
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』第3巻、国民社、1943年、3362-3363頁。
- ^ 加藤国光『尾張群書系図部集』続群書類従刊行会、1997年、393頁。
- ^ 『岡山縣通史』下編、岡山縣、1930年、277頁。
- ^ 阿部猛、西村圭子編『戦国人名事典』、新人物往来社、1987年、476-477頁。
- ^ 岡山県歴史人物事典編纂委員会編『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年、596頁。
- ^ 伊藤孝夫『瀧川幸辰 汝の道を歩め』ミネルヴァ書房、2003年、1頁。
- ^ 倉地克直編『岡山藩家中諸士家譜五音寄』2、岡山大学文学部、1993年、57-59頁。
- ^ 鳥取県 編『鳥取藩史』第1巻 (世家・藩士列伝)、鳥取県立鳥取図書館、1969年、440-442頁。
- ^ 「瀧川系図」(東京大学史料編纂所所蔵)。
- ^ 阿部猛、西村圭子編『戦国人名事典』、新人物往来社、1987年、710-711頁。
- ^ 『越中資料集成』2、桂書房、1988年、31-33頁。
- ^ a b c “旧高旧領取調帳データベース”. 国立歴史民俗博物館. 2024年3月30日閲覧。
- ^ 稲沢市史編纂委員会編『郷土の人物誌』稲沢市教育委員会、1984年、74頁。
- ^ a b 『寛政重脩諸家譜』第4輯、國民圖書、1923年、447-448頁。
- ^ a b 『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会、1966年、120-124頁。
- ^ 美濃加茂市 編『美濃加茂市史』通史編、美濃加茂市、1980年、327-329頁。
- ^ 竹内理三 ほか編纂『角川日本姓氏歴史人物大辞典』26、角川書店、1997年、420頁。
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、1934年、141-142頁。
- ^ “新修名古屋市史資料 公開資料一覧” (pdf). 名古屋市市政資料館 (2019年3月). 2024年3月30日閲覧。
- ^ a b c 『寛政重脩諸家譜』第3輯、國民圖書、1923年、425-427頁。
- ^ 黒田惟信 編『東浅井郡志』巻3、滋賀県東浅井郡教育会、1927年、253-255頁。
- ^ 森潤三郞「瀧川南谷傳」『日本及日本人』382、政教社、1940年3月、57-61頁。
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第3輯、國民圖書、1923年、427-428頁。
- ^ 野澤日出夫「瀧川一益の末裔」『日本姓氏家系総覧』新人物往来社、1991年、258-261頁.
- ^ 野沢日出夫「子孫訪問 江戸幕府最後の大目付瀧川播磨守の裔 瀧川具也氏」『姓氏と家紋』近藤出版社、第61号、1991年3月、38-39頁。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』第3輯、国民図書、1923年、424-428頁。
- 『寛政重修諸家譜』第4輯、国民図書、1923年、442-449頁。
外部リンク
滝川氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)
一方の敗れた一益は6月27日の清洲会議に出席出来ず、織田家における一益の地位は急落した。翌天正11年(1583年)正月、一益は織田信孝、柴田勝家に与して羽柴秀吉と激突、秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も岐阜城を落とされ自害してしまう。残された一益は長島城で籠城し続け意地を見せたが、7月に降伏。これにより一益は所領を全て没収され、出家し入庵と号した。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが始まると、今度は秀吉方として織田信雄の家臣・九鬼嘉隆と前田長定を調略し、信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間にある蟹江城を攻略、徳川・織田の主力を相手に半月以上籠城するが遂には敗れ、伊勢に逃れた。しかしこの功により秀吉から1万5,000石を与えられ大名に返り咲いた(蟹江城合戦)。同時に、一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、佐竹義重や梶原政景と書状を交わしている。その内容は秀吉の北条征伐を予告するものであり、彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。天正14年(1586年)9月9日、滝川一益は病死した。
※この「滝川氏」の解説は、「神流川の戦い」の解説の一部です。
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