前田利常
前田利常
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/17 02:53 UTC 版)
前田 利常(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。
注釈
- ^ 利長は当初は父・利家の遺言もあり、同母弟の利政を後継者として考えていた(利政の通称「孫四郎」は元々利家・利長も用いていたもの)。だが、利政が関ヶ原の戦いの際に西軍についた(実際は妻子を人質に取られたことを知って出陣を躊躇したもので西軍に加担した訳ではない)として、利常を後継者に定めた。利長が関ヶ原の戦い直後に後継者の変更を決めたことは、利常を丹羽長重の人質にした時の起請文に利長が弟猿(利常)を孫四郎同前(利政と同じよう)にみて欲しいと明記していることからうかがえる[5]。
- ^ 大西泰正は慶長10年(1605年)4月に大野治長から前田家家臣・山下兵庫に充てた書状に利常の婚儀について触れた文言があるのを指摘し、利常と珠姫の婚儀を慶長10年(1605年)4月頃(通説より4年遅い)とする[6]。この説に従えば、利常が家康より松平の名字と源氏の本姓を与えられた時期と前後して婚儀を行ったことになる。また、大西はこの婚姻によって秀忠の娘(珠姫の姉)千姫の夫である豊臣秀頼とも義兄弟(相婿)になっている事実にも注目すべきであるとしている。
- ^ 再検地で一反を300歩に改め検地高122万石余を得たが、関東移封前の徳川家石高(慶長3年(1598年)の太閤検地)を超えるため却下された(「加賀藩文書」前田育徳会など)。同じ頃に山内家の24万石と毛利家の53万石も、東軍に功績あった福島家、および徳川姻戚で「家」の諱を持つ蜂須賀家との釣り合いから却下されている。
- ^ ただし修築に関しては同年夏の火災が理由で、実際は修築した箇所が以前より堅固になったことが問題とされた[11]。
出典
- ^ 『前田利常』 - コトバンク
- ^ a b c d e 歴史群像 2007, p. 349.
- ^ 若林 1986, p. 6.
- ^ 若林 1986, p. 7.
- ^ 見瀬和雄「関ヶ原合戦前後における前田利政の動静」『金沢学院大学紀要』12号、2014年。/所収:大西 2016
- ^ 大西 2016, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」.
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年6月、166頁。
- ^ a b c d e f g 歴史群像 2007, p. 350.
- ^ a b c d e 歴史群像 2007, p. 351.
- ^ 上市町誌編纂委員会 編『上市町誌』、1970年、359頁。
- ^ a b c 若林 1986, p. 5.
- ^ a b c d e f g h i 歴史群像 2007, p. 353.
- ^ 『ふるさと石川歴史館』、北國新聞社、2002年6月10日、530頁。
- ^ 若林 1986, p. 8.
- ^ 若林 1986, p. 12,35.
- ^ 歴史群像 2007, p. 352.
- ^ 歴史群像 2007, p. 354.
- ^ 若林 1986, p. 6-7.
前田利常
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:56 UTC 版)
前田利家の長男利長の才能を恐れた徳川家康は利長を隠居させ、自分の孫娘珠姫を嫁がせた利常に家督を譲らせた。しかし、珠姫の父徳川秀忠が危篤状態になった寛永8年 (1631年) 謀反の疑いありとして利常は江戸の藩屋敷に軟禁される。軟禁は3年間続き、不思議なことには結局許されたが、自分の置かれた危うい立場を肝に銘じた利常は、表面上は愚者を装いながら藩政の安定化を図ることになる。
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