人物・逸話とは? わかりやすく解説

人物・逸話

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くろば・U」の記事における「人物・逸話」の解説

幼稚園の頃、職員室PCジャック自分の名前を入力したらしい。小学二年生時にHyperCard触れプログラミング目覚める中学一年生時にResEdit用いてフリーゲームドット絵差し替える中学生の頃よりドット絵作成し始める。高校一年生PSO遊び始める。大学一年生時に初め漫画を描くも、アナログ(での執筆)に向いていないと感じる。趣味DanceDanceRevolutionSOUND VOLTEX主な使用ペイントツールComicStudioAdobe Photoshop影響を受けた作家として玄鉄絢タカハシマコ武田日向、なもり、介錯美水かがみ、すか、ヒライユキオ、春畑睦月挙げる

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アル=アーディル」の記事における「人物・逸話」の解説

第三回エジプト遠征の際、父アイユーブ遠征に使う財布借り行ったところ、アイユーブは「エジプト一財産手に入れたら、これを金で一杯にして私に返してくれよ」と冗談めかして言った一年半の後、アイユーブエジプト到着してこの財布のことを訪ねたので、アーディルエジプト質の悪い貨幣詰めその上に良質の金貨かぶせて下の質の悪い貨幣見えないようにて渡したアイユーブはこれを見て「お前はエジプト人からどうやって悪貨相手つかませる学んだのか」と言ったという。これはアーディル自身好んだ一種の冗談ようである。 兄サラーフッディーンは、アーディルを特に信用しており、彼との相談なしに何ら重要な決定をすることはなかったと言われる前述のようにリチャード1世との外交交渉担当していたが、もとより戦場でリチャード1世駿馬を贈るなど個人的に親交深く交渉中に更に気に入られリチャードの妹ジョーンを妻に娶るように提案された。サラーフッディーン同意示したが、結局はジョーン本人激怒反対で実現しなかった。 大食らいで、焼いたまるまる一頭たいらげることができたという。 狡知長けエジプトの平和を守った一方マクリーズィーによれば即位後はかなり豪勢な生活をしていたようで禁欲的評される兄とは逆の評価得ている。

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慕容曄」の記事における「人物・逸話」の解説

359年2月慕容儁群臣蒲池集めて宴を催した慕容儁が涙を流して群臣慕容曄の評について問うと、司徒長史李績が「太子慕容曄)は大徳八つありました至孝は天より授かり性質道理適っていました。これが一つ聡敏かつ慧悟であり、機思は流れるようでした。これが二つ沈毅決断早く、その理に暗いものはありませんでした。これが三つ諛言を嫌い、直言好んでいました。これが四つ学問賢人愛し目下の者に問うことを恥じることはありませんでした。これが五つその姿古の英雄より勝り才芸時代超越していました。これが六つ襟を正して謙虚に師の教え尊んでいました。これが七つ。財を惜しまず施し好み民衆苦しみ寄り添っていました。これが太子八つ大徳です」と評した慕容儁はこれを聞き慕容曄存命であれば死んでも憂う事はなかったと嘆いた

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初風諄」の記事における「人物・逸話」の解説

宝塚時代親友一人に初風緑のおばである・美濃ゆたか(男役)がいた。緑の芸名は諄にあやかり命名したのだという。 親類元プロ野球選手元プロ野球監督野球解説者田淵幸一がいる。

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宇文顕和」の記事における「人物・逸話」の解説

孝武帝諸侯王時代に顕和と旧交があったため、即位後もたいへん厚遇した。顕和の居宅手狭だったため、役所引き払って、そこをかれのための寝室として賜った高歓北魏朝廷専権ふるっていたため、孝武帝はつねに不安におびえていた。孝武帝が「天下乱れているが、どうしたらよいだろうか」と訊ねると、顕和は「現在の方策は、善き者を選んで頼るよりほかありません」と答えた。詩をそらんじて「かの美人かな、西方の人かな」と言った孝武帝は「わたしの考え同じだと言って入関計画定めた孝武帝は顕和の母が老年係累も多いので、計画参加させようとした。しかし顕和は「現在の情勢では忠と孝をともに立てることはできません秘密がもれれば身を失う計画であるのに、私情さしはさむことができましょうかといって拒絶した孝武帝顔色変えて「卿はわが王陵である」といった。 宇文泰は顕和が弓射を得意とすることを聞いていたので、溱おもむいたときに傍の小鳥射させると、顕和は見事射当ててみせた。宇文泰笑って「わたしは卿が上手であることを知ったぞ」といった。

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張子信」の記事における「人物・逸話」の解説

子信は清らかで安定した性格であり、趣味として文学渉猟した。若くして医術で名を知られ白鹿山に隠れ住んだ。都の鄴に遊んで魏収崔季舒らの礼遇を受け、かれらによる「子信に贈答する詩」数篇があった。大寧年間尚薬典御として召された武平初年太中大夫として召し出されたが、おりふし山に帰ることを許され、鄴に常住しなかった。 子信は占卜を得意とした。武衛の奚永洛が子信と対座したとき、が庭の鳴いていたことから、子信はこれを叩き落とした。子信は「言は良くない兆しです。もし薄暮のころに西南からの風がやってきて、この巡り、堂の角をはらうようなことがあれば、口舌による事変あります今夜もし人が呼ぶことがあっても、決し行っていけません勅命であってもといって断りなさい」といった。子信が去った後、その言葉のような風が吹いた。この夜、琅邪王高儼が5回使者派遣して勅命といって奚永洛を召し出そうとした。奚永洛は行こうとしたが、その妻がこれを押しとどめて、落馬して腰を折ったと言い訳して行かせなかった。このとき朝廷駆けつけた者は粛清禍難遭った北斉滅びると、子信は死去した

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田中丸善威」の記事における「人物・逸話」の解説

玉屋創業家である田中丸家の一族である。 高校時代部員70率いラグビー部キャプテンポジション右ウイング学生時代100m10秒9。 1992年大学在学時、樋口宗孝レイジー, ラウドネス, スライ)と出逢う1994年樋口スライ結成とともに師事、同バンドのベーシスト寺沢功一の傍でローディーとして学ぶ。1997年樋口ソロアルバムFree World”を発表。そのアルバム制作プリプロ~※ガイドミュージシャンとして)に参加。同アルバムではビリー・シーンをはじめ、ジェフ・ピルソン、T.M.スティーブンススタンリー・クラーク等が参加他にもスティーヴ・ヴァイスティーヴィー・サラステリー・ボジオドン・ドッケンロニー・ジェイムス・ディオタイ・テイバーマイケル・トンプソン等もこのアルバム参加している。 1998年春に樋口推薦もあり柏原崇柏原収史兄弟とともにバンド"ノーウェア"を結成1998年9月9日フォーライフ・レコード(現フォーライフミュージックエンタテイメント)よりファーストシングル"アナザーワールド"でメジャーデビューライヴ活動国内では渋谷CLUB QUATTRO下北沢シェルター 他。1999年8月14日当時台湾でも柏原崇人気絶大でノーウェア単独公演に約30,000人を動員。『No'Where(柏原崇) 台北市立體育場 演唱會』 2001年初頭ラウドネス高崎晃レーベルHEMP RECORDSより加藤剛志(Ds.)等と結成したミクスチャーバンド"アイオライト"でミニアルバムをリリース高崎晃ソロプロジェクト"JI-ZO"メンバーとしても活動した2001年秋、クラウド・ナインリーダーSHU(Gt.)よりバンドへの誘いを受け、幾度セッションライヴ経て2002年初頭正式メンバーとして参加クラウド・ナインでのリリースは、フルアルバム2枚徳間ジャパン・コミュニケーションズミニアルバム3枚ポリスター)等、ライヴDVD2他、バンドコンピレーションアルバム等にも参加している。PV7本。2005年発表したアルバム疾風迅雷ではミキサー&プロデュースとして元マシーン・ヘッド、元ソウルフライのギタリストローガン・メイダーを起用。翌2006年9月発表された疾風迅雷外伝おいても同氏起用2007年10月21日ライヴ最後に渡米目的の為バンド離脱後任ベーシストとして第一期メンバーでもある沢田泰司(元X, 元ラウドネス, D.T.R)が復帰2007年12月18年ぶりとなるラウドネスボーカリスト二井原実ソロライヴのメンバーとして東名阪ツアーRock'n Roll GYPSY TOUR 07』に参加2008年1月28日シャムシェイドボーカリスト栄喜SADSギタリストK-A-Zとのユニットデトロックス渋谷C.C.Lemonホールでの公演参加2008年3月4日よりロサンゼルス在住同年8月ハリウッド人気のバンドLOVECHILDラブチャイルド)に加入2009年10月30日カリフォルニア州オレンジ・カウンティコーンヘッドライナー迎えて行われた"Halos N’ Horns Fest."にLOVECHILD出演2010年5月、エレクトロニック・ポップメタル・バンド Otto's Daughter(オットーズ・ドウター)に加入した1ヶ月脱退2010年11月30日無期限音楽活動停止。 ※ガイドミュージシャンとは、リズム録りの際に一堂にミュージシャン集合できない時に仮で演奏をするミュージシャンのことを言う。そのミュージシャン演奏で、曲の雰囲気捉えるため とても重要になってくる。

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伊佐二久」の記事における「人物・逸話」の解説

熊本大学には乗馬クラブ有り代々麻酔科教員がその部長務めていた。伊佐もまた教職時代同部長を務めている。 2002年発刊され著作ウソのようホントの話 : 追想昭和初期史から現代医療事情まで』には、参議院議員務めた医師大浜方栄による推薦文掲載されている。 クライン孝子とはヴオイガート立子を介して多年亘り親交があるという。 2017年発刊された『麻酔科医が解決した殺人事件』は伊佐医療体験を基とした小説で、95才にして初めての推理小説作家となった

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謝挙」の記事における「人物・逸話」の解説

謝挙幼くして学問好み清談をよくし、兄の謝覧名声等しくした。 14歳のとき、謝挙沈約五言詩を贈って沈約賞賛受けた当時の人は「王氏には養(王筠)と炬(王泰)がおり、謝氏には覧と挙がいる」と語った江淹謝覧謝挙兄弟会って、「いわゆる『二龍を長塗に馭する』というものだ」といった。 謝挙東宮記録管掌して、昭明太子蕭統信任された。 秘書監任昉新安郡太守として出向するにあたって謝挙の別れを「詎念耋嗟人、方深老夫託」と詩に詠んだ謝挙林園の宴に参加したとき、武帝謝覧謝挙のことを訊ねると、謝覧は「弟の識芸は私を上回っていますが、ただ飲酒だけは私に及ばないようです」と答えたので、武帝大喜びした。 謝挙3回にわたって吏部尚書の任についたのは前代未聞のことであった謝挙若くして博識で、とくに老荘仏教解釈長けていた。 謝挙晋陵郡にいたとき、義僧とともに経論講義し隠士何胤虎丘山からやってきた国子博士盧広謝挙見識感服した

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彭越 (前秦)」の記事における「人物・逸話」の解説

前秦の閻負・殊が前涼使者として赴いたとき、前涼涼州張瓘は彼らへ前秦人材について問うたその際に驍勇権略長け攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍新興苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越安遠将軍倶難建武将軍徐成である」として、彭越の名も挙げられている。

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苻飛」の記事における「人物・逸話」の解説

前秦の閻負・殊が前涼使者として赴いたとき、前涼涼州張瓘は彼らへ前秦人材について問うたその際に驍勇権略長け攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍新興苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越安遠将軍倶難建武将軍徐成である」として、苻飛の名も挙げられている。

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新見正興」の記事における「人物・逸話」の解説

領地現在の横浜市戸塚区品濃町千葉上総にあったつぶらな瞳美男子だったので「陰間侍」ともあだ名されていた。 第6代駐日アメリカ合衆国大使のローランド・モリスが1920年大正9年)に帰国する際、新見の墓に詣で植樹している。この枯れてしまったが、石碑が現在でも残っている万延元年遣米使節乗せたポーハタン号士官だったジョンストン中尉新見のことを「寡黙だが温和慈愛の相があり極めて親しみやすい人」「平和な気質親切な心の持ち主」「非常に上品で万国共通の上社会特徴偲ばせる」と日記書き残した

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減敬」の記事における「人物・逸話」の解説

『三河物語』によると、徳川家康嫡男信康正妻徳姫実父織田信長十二箇条の文を送っているが、『三河後風土記』によればその中築山殿家康正妻信康の母)が甲州浪人医師減敬密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って信康甲州方に味方するとした旨の条がある。その他の条も合わせ、この十二箇条内容により、信長家康築山殿信康殺害命じたとされる。だが、『三河後風土記』には偽書説があり、近年では築山殿殺害信康切腹信長の命ではなく家康信康対立原因とする説も出されている。

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梶正道」の記事における「人物・逸話」の解説

寛政重修諸家譜によれば長篠の戦いの際、武田勢自軍の旗を捨てて敗走したが、徳川方の兵は武田勢の旗を拾って武田方の兵を嘲笑した。これに対して武田兵は「無用の旧物であるから捨てたのだ」と応じ新たなを掲げ見せた。これに対して正道進み出て、「山県昌景馬場信春甲斐老将たちの首もわが方にあるが、これも無用の旧物なのか」と笑い武田兵をやりこめた。のちにこのやり取り聞いた家康正道称賛した御感あり)という。 根岸鎮衛『耳嚢』巻之五金平辞世の事」によれば梶正道金平)は「死にともな あら死にともな 死ともな 御恩成し君を思へば」という辞世詠んだという。根岸鎮衛他人から聞いた話を書き留めたものであるが、豪傑として知られた豪気武骨」の人物忠臣心情辞世とし、他人評価気にせず詠んだ歌として興味示している『名将言行録』巻之五十四本多忠勝)では、これに似た歌「死にともな あら死にともな 去りとては 君の情の今は恨めし」を、本多忠勝殉死した大谷三平にさらに殉死した三平下僕辞世として掲げている。 これに似た歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩君を思えば」が、本多忠勝辞世として流布している。

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湯浅常山」の記事における「人物・逸話」の解説

常山品位方正で身を忘れて岡山藩のために尽くした人格者だった。しかし身分関係なく憚ることなく人の非を直言したため、讒言により遂に官を追われて門を閉じ、客にもほとんど会わず著作専念したという。 常山の著で有名な常山紀談』は戦国時代忠臣勇者事跡逸話描いたものであるが、彼はこの著において「武士全てにおいて武を尊び卑しくも武士たる者は文治排して武事廃するな」と述べている。 常山兵法明るく武芸長じており、老いても常に日に1度と刀を振るうことを欠かさなかった。 常山1つ善言聞き1つ善行を見るごとに必ず感極まって泣いた。そしてその見聞きした善行善言決し忘れなかった。 常山幕府代官であった野口直方親しく野口常山先生慕っていた。その野口備中倉敷から江戸転任することになったとき、藩侯常山野口送っていくよう命じた常山息子の子と共に野口送ったが、あるとき「私は君を君命送ることできないか息子連れて来たんだ」と言った野口が「何を言われます? 先生はこうして私を送ってくれているではありませんか」と返すと「私はあくまで君命で君を送っているんだ。私事息子頼んだんだよ」と答えたこのように常山はどんなときでも公私混同しなかったという。 父が死去したとき、非常に嘆き喪服下衣作って3年脱ごうとしなかった。毎朝、その墓に行って拝し慟哭した。母のときも同じで忌日には必ず生前好んだものを供物として儀礼言葉述べ号泣した井上蘭台と酒を酌み交わし文学論じていたとき、「我が藩で文章よくするのは湯元祥だけだ。なのにその名が天下に顕われないのは残念なことだ」と述べた常山はいつもきびきびとして素早い行動をし、人の意見をよく聞いて帰ってからその意見を常に書き記したという。 松崎観海太宰春台弟子だったが、あるとき常山作った詩文見てこの人大器だ。その才も詩くらいで終わるものではないから、詩にうちこむのはこれくらいでやめておいた方がいい」と述べ、春台も「お主言うとおり最もだ」と述べたという。 母親と『枕草子』について話を交わしたのが文学の道を志すきっかけだったという。

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土倉一貞」の記事における「人物・逸話」の解説

佐伯ではコンニャク製造盛んで、その販売商標土倉家家紋折れ松葉」の使用許可した

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袁紹」の記事における「人物・逸話」の解説

袁紹は『三国演義始め多くの三国志創作では名門の出自によって出世した優柔不断な暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像記録されている。 袁紹母親婢女であり、凡才であれば、もともと名が史書記録されるような立場にはなかった。 「容貌端正」「姿貌威容あり」「姿弘雅」とあり、秀麗な容姿であった。しかし、「体長婦人」とも記されており、小柄な人物であったことが分かる後漢末当時四つの州を支配した袁紹は最も強盛であるとされた。劉廙上奏の中で孫権劉備実績袁紹事業比較にならないと言っている。 おっとりとして上品で喜怒哀楽感情表さなかったと言われる魏郡軍勢謀叛起こし黒山于毒結んで鄴城を攻めたという一報入った時、その場にいた席上の客達は動揺し中には泣き叫ぶ者もいたが、袁紹顔色を変える事もなく泰然自若としていた。 公孫瓚配下騎兵二千余り突如来襲してきた時には田豊避難させようとしたが、袁紹は兜を地面叩きつけて大丈夫たる者は突き進んで戦死するものだ」と言った。 漢末期王公の間で雅であるとされた幅巾という幅の広い絹の頭巾被っていた。 帰郷の際、人物評価名声の高い許劭目を気にして、車一台だけで帰った敵対している立場から郭嘉が「袁紹人民蛮人に恩を施していたから袁紹息子たち生きていられるのです」と発言し荀攸が「袁紹寛大さ厚情によって人々気持ち把握していました」と発言しており、袁紹の死を民百姓嘆き悲しん事から、仁政執り行った事が分かる

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永井尚志」の記事における「人物・逸話」の解説

幼い頃から利発で読書好きであったため師について経史学び独学蘭学修めた泰西事情に通じていたという。その学才伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家養子として迎えた長崎海軍伝習所では、勝麟太郎矢田堀鴻木下利義、榎本釜次郎肥田浜五郎、他数十人を教えた戊辰戦争幕府軍敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉関わったにもかかわらず毛利敬親捕縛しさらし者にすることを主張し交渉まとめた征討総督徳川慶勝らの面目潰し参謀西郷隆盛矛盾指摘され論破されるという失態犯しているというところからみて政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物見ることもできる。しかし、このような観点表層的であり、永井行動長州藩過激派解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである言い換える役人らしく幕府強硬派への釈明から薩摩意見容れるポーズ見せたというのが実相である。 戊辰戦争では、息子養子)・岩之丞と共に品川脱出し函館五稜郭立て籠もり、共に戦った養子である永井岩之丞長女夏子内務官僚平岡定太郎嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家三島由紀夫である。つまり尚志三島の養高祖父にあたる尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会開かれ昭和45年1970年時には270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会出席したこともあったという。 孫の永井亨(経済学博士)は祖父尚志について、「監察となって長崎出張しましたときオランダ人雇い入れ長崎海軍伝習所つくったであります。(中略長崎奉行意見が合わないのを独断オランダ人からいろいろの技術材料入れて長崎の飽ノ浦という所造船所作った。これがいまの三菱造船所前身であります。(中略そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行外国奉行などいたしまして後に京都参り京都若年寄格にまでなりまして、守護職松平容保会津藩主)の下ではたらき近藤勇土方歳三下の新撰組面々にも人気があったと伝えられています」と語っている。また、尚志晩年については、「向島岩瀬肥後守という、若くして死にました偉い人物おりましたその人の別荘に入り、その親友岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四七月一日七十六歳で死んでおります私は数え年十四の年でしじゅう遊び参っておりましたのでよく覚えております」と語っている。 孫の大屋敦元住本社理事日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍創設者であったゆえをもって烏帽子直垂といったいでたち写真が、元の海軍記念館飾られていたことを記憶している。(中略そういう波乱富んだ一生送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている勝海舟なども詩友として祖父兄事していたため、私の昔の家に、海舟たくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。 三島由紀夫映画人斬り』(監督五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人林房雄宛の書簡1969年6月13日付)の中で、「明後日大殺陣撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している田中新兵衛姉小路公知暗殺嫌疑捕縛され時の京都町奉行は、永井尚志であったという。

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石勒」の記事における「人物・逸話」の解説

漢人士大夫登用して律令官制整えた。『趙書』などの史書編纂させたといわれる仏教崇拝し仏図澄信奉したことでも知られる石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物読ませ聞くのを好み様々に評論することがあった、酈食其六国の後を立つるを勧め、印を刻み将に之を授けんとせるを聞くに、大い驚き曰く此の法は當に失せんとす。云何ぞ遂にして天下を得る有らんや?」。張良諫む至らば、迺ち曰く「頼いに此れ有るのみ」と。 また、過去群雄について、「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信彭越先陣を競うだろう。光武会ったなら、互いに中原の鹿追い天下争い雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月明るく輝くように物事を行うべきであって曹孟徳司馬仲達父子のように、孤児献帝)や寡婦明元皇后郭氏)を欺きのように媚びて天下を取るような真似絶対にできない」と評した若い頃流浪したこともあり従子石虎除くと親族がほとんどいなかったため、「異姓不要」の風潮が強い当時において他姓養子複数迎えて一族強化図ろうとした(直接の関連性はないが、500年後五代十国時代仮子に近い)。更に勃海石璞石苞曾孫)を同姓のよしみで宗室待遇与えている。

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土井利勝」の記事における「人物・逸話」の解説

土井利勝同じく江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さ重んじた評される秀忠家督家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人不安な様子見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名財政逼迫しているのにさらに将軍隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念秀忠伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠納得し翌年秀忠隠居取りやめとなった将軍・家光が増上寺参拝向かおうとしていた時、白壁欠損していることに気づいた家光松平信綱修繕命令したが、修繕困難であった。そこで信綱は、他のの戸を外し壊れた部分一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかし過ぎず無理であれば無理である率直に言上すべきであると信綱を叱責した。 利勝は、最上義俊最上騒動改易されて浪人となった際、義光以来重臣鮭延秀綱身柄預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家14人に公平に与えて自らは無禄客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し余生過ごした。その14名は土井家では中級家士に取立てられ大半の家は幕末まで続くことになるが、延の没後、その恩顧報いるべく古河鮭延寺建立して供養努めた幕府実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合幕藩関係で事前根回し指南を行う取次の老中となって、その藩の指導行った

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オットー・シュニーヴィント」の記事における「人物・逸話」の解説

秀才型の有能な人物だと評価されている。 対英戦に備えた海軍拡張政策Z計画」ではヘルムート・ハイエ中将、ヴェルナー・フックス少将戦艦では英国には勝てないので、その通商破壊目的とした潜水艇Uボート主力とした艦隊構築すべきだ、との急進的な意見他の提督と同様戦艦中心とした艦隊建造支持している。 堅実な性格部下失態口汚く罵る事は無かったと言うニュルンベルク継続裁判無罪になった彼だが、これは戦前アドルフ・ヒトラー隔意抱きヒトラー非難する主旨の発言などをした事から、反逆罪軍法会議呼び出され死刑判決受けた事が、連合国から好印象与えたと思われるワルキューレ作戦に関わっていたとも言われているが、ヒトラー暗殺計画捕まった海軍軍人ヴィルヘルム・カナリスのみだった。

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深緑夏代」の記事における「人物・逸話」の解説

日本のシャンソン界の大御所中の大御所であり、宝塚歌劇団最長老OG日本最高齢歌手ひとりであった。 宝塚カルチャースクール教えた生徒の数はゆうに一万人を超えるといわれている。 シャンソン教室には、後の月トップスター古城都通っていた。(古城談) 1960年当時立教大学学生だったなかにし礼才能を見抜きシャンソン訳詞依頼なかにし作詞家生活の第一歩作ったなかにし自身は深緑からたくさんのことを教わったことを語っている。その当時回想しなかにしは「あの頃無かったら作詞家として自分は無い」「あの時は沢山アルバイト代を頂いて…一番裕福な時期でした」と語っている。深緑亡くなるまで親交続き葬儀では弔辞述べた

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斎藤利綱」の記事における「人物・逸話」の解説

連歌優れ作品が『新撰菟玖波集』に収められている。三条西実隆日記実隆公記によれば古今和歌集』『愚問賢注』の写本奥書染筆請うたり、十首歌を詠ずるなど文武両道の武将であった故実にも通じ、『家中竹馬記』の作者であり、『土岐家聞書』の作者であるとも。

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大岡忠光」の記事における「人物・逸話」の解説

将軍言葉意のままに伝えることができたにもかかわらず決し奢ることや幕政口を挟むようなこともなかったという。遠縁同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。 当時の忠光を知る逸話として、当時オランダ商館長をしていたイサーク・ティチングが、忠光のことを著書将軍列伝の中で次のように書いている。 「家重大岡出雲守という真実のを持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人過失咎めなかった。あらゆる点で大岡上にあげた吉宗お気に入りの3人家来吉宗御側御用取次であった加納久通小笠原胤次渋谷和泉3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後大岡について次のような歌ができたのである。『大方は出雲のほかにかみはなし』その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出感謝を捧げるのだ』ともいっている。」 — イサーク・ティチング将軍列伝幕府要人に対して忌憚なき庶民生の声が知ることの出来川柳では「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と世間謳われた松平定信のように幕政などへの批判少なくないが、この句から忠光が民衆好意持たれていたことが非常に良くわかる。また、この句の作者の忠光に対して尊敬感謝思い読み手にも伝わってくる家重春日園へ遊び行った際、忠光は所用で側にいなかった。このため家臣家重何を言っているのか聞き分けることができず、急使出して忠光に伝えた人を介してのことにもかかわらず、忠光は家重言葉解し、「御上家重)は寒いから上が欲しいのだ」と答えた。それを聞いた家臣が忠光の言う通り上着家重差し出すと、家重喜んだという(『続三王外記』)。 宝暦6年1756年)に岩槻藩となった忠光は、その4年後死去した。しかしその4年間オランダから伝わった木綿種を領内試植したり、砂糖種の蒔付け植樹奨励し産業発展尽くしたまた、家中領内70歳以上老人がいれば、全てに金を与えて人心収攬した。さらに忠光は家臣内海十郎に対して「民を治める道は重要で精一杯取り計らい百姓難儀しないよう治めよ」と下命したという(『得祥院様御行状誌』)。

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堀親義」の記事における「人物・逸話」の解説

ケチ大名と言われた。どの大名でもよほどの理由がない限り古くなった自らの衣服家臣などに下げ与えるのが当たり前であったが、親義は家臣下げ与えることを決してせず、飯田土蔵には古着屋と思われるほどの親義の古着があったという。 嘉永元年1848年)に父・親寚が死去する寸前、親寚は愛妾の春との間に生まれたに対して鎧と太刀遺品として与えた。しかし父が死去すると、親義はその遺品強引に奪い取る暴挙行ない、春は親義を恨みながら自殺したという。 表 話 編 歴 堀氏信濃飯田藩11藩主 (1846年 - 1868年)小笠原家小笠原秀政1601-1613 信濃松本藩転封 1613年から1617年まで幕府領 脇坂家脇坂安元1617-1654 脇坂安政1654-1672 播磨龍野藩転封 堀家堀親昌1672-1673 堀親貞1673-1685 堀親常1686-1697 堀親賢1697-1715 堀親庸1715-1728 堀親蔵1728-1746 堀親長1746-1779 堀親忠1779-1784 堀親民1784-1796 堀親寚1796-1846 堀親義1846-1868 堀親広1868-1871 廃藩置県

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郝晷」の記事における「人物・逸話」の解説

370年12月王猛諸将属官とともに宴を開いた王猛は「人心同じではない梁琛長安前燕美化し楽嵩桓温強盛ぶりを述べ郝晷前燕疲弊ぶりを説くほどだ」と述べた参軍馮誕が「その三人は今、我が国の臣でありますが、誰の意見先に取られますか?」と問うた王猛は「郝晷僅かな兆候を知ることができるので、彼を先に取るだろう」と答えた馮誕は「明公 (王猛) は丁公賞して季布誅するのですな」と述べた王猛大笑した。

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アル=アジーズ」の記事における「人物・逸話」の解説

マクリーズィーアジーズを以下のように評している。「アル=アジーズカイロにおいてかなり苦しい状況にあり、財源不足していた。しかしながら彼はその民衆に対する公正なふるまい寛大さ、それに親しみやすさから彼らに愛されていたのであるイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによればアジーズサラーフッディーンが最も贔屓にした息子であり、1179年アジーズ兄弟たち、および従兄弟たち(叔父アーディル息子たち)の割礼が行われた際は7000頭の羊が屠られ、大量の菓子振る舞われた。

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金森長近」の記事における「人物・逸話」の解説

永禄2年1559年)に信長初め上洛た際に長近は80名の随行者1人であったこの時斎藤義龍からの指示信長暗殺しよう美濃衆刺客らが後をつけてきたが、丹羽という尾張からの使者道中これを看破し蜂屋頼隆と長近に通報した。美濃衆刺客達面識があった長近は挨拶称して彼等宿所訪れ、事が露見している旨宣告したという。 長近は蹴鞠茶の湯の才にも秀でており、秀吉伏見在城の時は伏見城下の自宅書院茶亭造りしばしば秀吉招いた茶の湯宗匠千利休弟子として茶会招かれたり、宗匠古田織部とも親交があった。家康秀忠父子からは「気相の人」と言われ信任されていた。慶長10年1605年)には家康父子が長近の伏見邸を訪れ風流楽しんでいる。 秀吉千利休切腹命じた時、嫡男である千道安飛騨高山隠棲させ、匿ったとされるその時に照蓮寺明了や金森重近(後の金森宗和)が、千道安からの手ほどきを受けたという。 晩年秀吉が、有馬温泉にて湯治行なった際、12(13)歳上の長近が秀吉を背負って入湯したことが有馬温泉記』に見られる関ヶ原の戦いの後、徳川家康岐阜城天守閣登った長近は、家康から戦功賞賛され、信長以来思い出話をしている。この時論功行賞固辞した長近に、家康与えたのが、美濃の上有知1万8000石と河内国金田(かなた=堺市金岡町3000であった。長近亡き後息子金森長光没した時に上有知藩領地没収金田は、妻の久昌院寛永2年1625年)に亡くなるまで、彼女の知行地として残された

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槇村正直」の記事における「人物・逸話」の解説

明治4年1871年10月開かれた第1回京都博覧会に際し春季博覧会余興として祇園芸妓舞妓の舞を公開させたのが都をどり始まりとされている明治5年1872年)、「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆諸行事を禁止した離任後の明治16年1883年)に解除)。 明治9年1876年)、府令をもって撃剣稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」とし、剣術禁止した

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山岡重長」の記事における「人物・逸話」の解説

伊達世臣家譜によれば朝鮮出兵の際、進軍途上で馬に乗って逃げ十二三歳の娘を発見した重長は、これを生け捕りにした。娘は愛姫侍女となり、慶長元年1596年)に愛姫勧めで妻を亡くしていた重長の後妻になったという。 宮城郡手樽統括していたころ、東北本線松島駅後方高台に、休憩所兼ねた念仏庵を造ったその後利府円城寺より僧侶招聘して帰命院を創設した創設当時高城町並みは海だったこともあり松島絶景望める名刹として訪れる者が絶えなかったという。

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若狭和朋」の記事における「人物・逸話」の解説

つかこうへいとは幼馴染みでで、小学中学高校とも同窓であり、学年若狭が上だった。 元NHK会長籾井勝人とは、高校・大学同級生学寮でも同室だった。 経済産業省職員赴いていたドイツフランクフルトにて、研修修学していた。 友人一人にドイツ人フリッツ氏がおり、通産省時代フランクフルト滞在した以来友人であり、歳は一歳下であるが、学歳は遥に先輩であるという。 ドイツ在住期に日本残した妻が23歳若さ亡くなる。研修修学終え帰国する岐阜県在住教師になったのは深い理由があり、「・・・、大寺雲水一員になっていた。」との記載がある。 関市長の亀山一二によると、正眼寺おかしな坊主いると聞き訪ねてみる。近縁者を亡くした悲しみから通産省の職を放棄して帰国し、寺の雲水として暮らしている若狭和朋に対して亀山は「悲しい気持ちはわかるけども、どうだ、心機一転高校先生にならんか。」と諭し立ち直り切っ掛け与えた岐阜県下の公立高校社会科教師として、38年教鞭執った県立加茂農林高校など職業高校教師辞令受けた教師時代では、高校野球監督部長務めた。有力校ではない各高校野球指導行った16年間に夏の公式戦では1勝しかしたことがない弱いチームを勝つチーム変革させる。 生徒指導部部長15年務め続けた生徒たち善導することは大変な苦労要ったことだが、15年間は岐阜県下では、めずらし記録だという。

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高力清長」の記事における「人物・逸話」の解説

三河三奉行称される際に清長温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、康景は寛厚にして思慮深いそれぞれ評され、「仏高力鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られているこのように清長正直者知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石与えられた際、預け地1万石も与えられた預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長預け地年貢1度自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役軍船建造担当し余った建造費である金20家康返上しようとした際も、その正直さ感激した家康そのまま褒美として与えている。 豊臣秀吉清長陪臣ながら寵愛して重用した秀吉岩槻立ち寄った際、その饗応秀吉感心し庭前萩の花詠んだ和歌清長与えた

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于栗磾」の記事における「人物・逸話」の解説

左右どちらからでも騎射ができ、武芸は人に過ぐる称された。 後燕との戦い勝利した後、祝勝の宴が催された。拓跋珪は酒を置いて「卿は我の黥布彭越である」と称え金帛下賜した。 拓跋珪は白登山において、熊が数頭の子引き連れているのを見た拓跋珪振り返って、あの熊らを素手で倒せるかと于栗磾尋ねた于栗磾は「天地において、人は最も貴いものです。もしも素手で挑んで勝てねば、壮士無駄に失うだけではありません御前まで追い立ててもらえれば坐したまま、これを制してみせましょう」と答えた于栗磾は熊らを尽く捕え、これを見た拓跋珪謝った。 黒矟を好んで用い于栗磾トレードマーク的な存在となっていた。劉裕于栗磾見て、これを興味深く思い彼へ書面題名を『黒矟公麾下』とした。宋書において、于栗磾は『黒矟公』と記されている。 若年から晩年に至るまで軍事携わり事に臨んで善く決断し向かうところ敵無しであった目下の者にも謙虚に接し刑罰みだりに加えることはなかった。拓跋燾于栗磾の死を悼み、たいへんに惜しんだ後年、唐の詩人杜牧作品『東兵長句十韻』において、黒矟将軍の名で登場している。

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伊達晴宗」の記事における「人物・逸話」の解説

晴宗が正室久保姫娶った経緯については、当初久保姫は父・岩城重隆意向結城晴綱嫁ぐことになっていたが、久保姫美貌知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢率いて輿入れ行列襲撃し久保姫連れ去り強引に正室にしたとされている。晴宗と久保姫夫婦仲良く長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され天文の乱に際して援助を受けている。久保姫は晴宗没後出家し宝積寺建立して亡き夫供養した。その後は、孫の政宗頼って宮城郡根白石移住し同地文禄3年1594年)に74歳没した黒嶋敏は、稙宗は6人の側室を持って対外進出積極的で奥州諸家との婚姻養子縁組積極的であったに対し、晴宗の側室存在確認できず有力な一族家臣との婚姻進めて家中統制に留意しているところから天文の乱に至る背景として宗と晴宗の性格の違いにもあったのではないか、と推測する同時に黒嶋は晴宗の子女の縁組でも蘆名氏佐竹氏との婚姻留守氏国分氏石川氏への養子縁組も輝宗期の成立で、稙宗と輝宗の政策共通性指摘して、稙宗と輝宗の外交政策における思考近さと晴宗と違い指摘している。 江戸時代伊達騒動経て元禄期に入った仙台藩では藩史編纂が盛んとなり、『伊達正統世次考』・『伊達治家記録』などが編纂された。その中で天文の乱で父と争い、子と争って元亀の変一因作った晴宗は「暗君」、それを支えた中野宗時桑折景長は「姦臣扱いされるようになるその背景として、藩祖伊達政宗の父である輝宗が顕彰対象になったに対してその輝宗と争った晴宗が否定的にみられたこと、2度にわたる御家騒動きっかけ作った晴宗が同様に大規模な御家騒動発展した伊達騒動引き起こした伊達綱宗政宗の孫)と同じように否定的に扱われたことにあった。更に「姦臣」とされた中野宗時桑折景長の子孫が元禄仙台藩にはいなかった(桑折氏宗家宇和島藩仕え仙台藩残った分家は景長の曾孫にあたる原田宗輔伊達騒動における逆臣とされた影響で断絶追い込まれていた)ことなどが挙げられる中野宗時桑折景長が「姦臣」と位置づけられた結果天文の乱は晴宗が彼らに唆されたとされ、元亀の変中野専横結果とする説明が可能となり、仙台藩伊達氏)の歴史観として確立されることになる。

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ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「人物・逸話」の解説

社交的な性格であり、食通評論家として知られた愛馬ハーミット種馬収入年間15,000ポンド)に助けられていたが、収入を超える浪費続けた挙句不動産邸宅手放すこととなった自分と同じく太っていた自由党政治家とどちらがよりダイエットできるかを競い18ストーン(114.3kg)から16ストーン(101.6kg)の減量成功した

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毛利隆元」の記事における「人物・逸話」の解説

現存している文書によると、隆元温厚で篤実性格の持ち主で、絵画仏典書写などを愛す教養豊かな人物であったとされているその一方で、父の元就のように超然とした態度取れない自分卑下したり、有能な弟達に対して劣等感抱き苦悩していた形跡数多く見つかっている。 隆元教養豊かで穏和な仁将として名高かったが、その反面武将として気概機転に欠け部分があり、文芸遊興費やす時間長かったことから、それを心配した元就や広良から再三にわたって訓戒されることとなったまた、元就からは書状で、「能や芸や慰め何もかも要らず。ただ武略計略調略肝要に候。謀多きは勝ち、少なき負け候と申す」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と度々叱責されている。 元就隠居表明には狼狽し、「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸(輝元)に家督譲って隠居する」(『毛利家文書』、第660号「弘治3年8月15日 毛利隆元自筆書状」)と自棄的に嘆いたことがある。また平素から書状の中などで「自分生来無才無器量である」(『毛利家文書』、第761号「天文23年3月12日 毛利隆元自筆書状」)と自嘲的記している場面が多いなど、極めて自己卑下の強い人物であったことが窺える元就書簡の中で隆元を「優柔不断で武将として資質欠けている」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と評しており、隆元への実権移譲が行われなかった理由は、彼自身性格面の問題とされる元就の手の中でその他の点として、正直すぎることや、親孝行信心には優れるが、武略計略調略などの面ではさらに努力必要である旨が指摘されている。 偉大過ぎる父の元就存在は、隆元人格形成に最も大きな影響もたらした隆元もそれを自覚していた節があり、書状の中で名将下に不遇な子が生まれる」(『毛利家文書』、第762号「毛利隆元自筆書状」)と自嘲気味に記している。また同時に、父の偉業自分失墜させてしまうことを病的なまでに恐れており、隆元厳島神社寄せた願文には「ただただ父上武運長久無病息災を願う。そのためには自分の身命をも捧げてもよい」と記されている。 内政財務能力長けていたと言われる彼の死後毛利家収入が2,000貫≒4,000石ほど減少した)。また政治面でも、元就直属重臣たちと隆元直属官吏たちとの間で意見対立生じたことなどから、自分独自の派閥組織できるだけ能力を持っていた。隆元死後、彼がいかに縁の下の力持ちとして毛利家のために尽力していたかを知った元春と隆景は敬服し自家優先しがちだった彼らも隆元死後より一層毛利家のために尽くようになった三本の矢逸話影響もあって、現在では良好だった伝わ三兄弟隆元元春・隆景)の仲だが、実際は所領分割三家それぞれの運営さらには三兄弟性格の相違など、様々な問題抱えており、決し良好ではなかった。事実隆元は父の元就に向けて近頃元春と隆景の両弟は吉田郡山に来て長期滞在せず、それぞれの家のことばかりに固執し相談事があっても私ではなく父上相手にする。これは二人が私を見下して除け者にしているようで、非常に腹が立つ」といった意味合い書状送っている。この書状によって、元就三兄弟不仲ぶりを痛感し、『三子教訓状』の発行毛利両川体制構築思い立ったとされる隆元正室尾崎局深く愛したとされ、生涯側室持たなかった。戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙書いた」という律儀一文から始ま手紙残っている。なおこの時尾崎局の父・内藤興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例重宝「縹糸胸紅白胴丸」(毛利博物館)を贈られており、娘婿である隆元に対する興盛期待のほどが窺える大内義隆陶隆房討たれ大寧寺の変を受けて、義隆を討った晴賢を「虎狼之心」と罵り、「いずれ陶軍は必ず毛利にも攻めてくる。受身になるより力のある時に戦うべきである(賢ヨリ仕カケラレ候テ、請太刀ニテ取相候ハンヨリ、只今此方力ノ候時破リ度候)」と語り、陶との交戦強く主張した防長経略後は自らが大内氏栄光受け継ごうともしてたようで大内氏旧領統治するだけでなく、同家勘合貿易用いていた勘合割符)を山口入手し大陸との交易再開させるために、隆元主導商業取引進めていたことが明らかになっている 実戦指揮としての功績有名なものは豊前松山城近郊における豊後大友氏との交戦がある。この時、父の元就・弟の元春らは尼子氏交戦中であり、この方面内政・軍事両面とも隆元担当していた。松山城戦いで大友軍が隆元指揮毛利軍撃退されたことにより、戦線膠着後の毛利大友間の講和繋がる。他に有名なものとして、防長経略の際の須々万沼城攻略戦がある。この時元就から城攻め任されるが、大友多大な損害を出して敗退した須々万沼城は弟・隆景も攻略失敗した堅城であり、最終的に元就が自ら兵を指揮して攻略したまた、他に天文21年1552年)に安芸国西条槌山城攻め落としている。 年不ではあるが、天文17年1548年)から永禄2年1559年)の間に秋月種実兄弟契約結んでいる(『毛利家文書』、第310号「年不6月8日毛利隆元自筆書状案」)。

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毛利元就」の記事における「人物・逸話」の解説

朝倉宗滴による評価 越前朝倉氏名将朝倉宗滴自身の著作朝倉宗滴話記続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂)…此等の事」と書いており、政務家臣掌握術において今川義元武田信玄と共に高く評している。 天下競望せず 尼子氏の滅亡後、中国地方覇者となった元就だったが、自身は天下競望せず」と語り自分の代での勢力拡大これ以上望まない意志明らかにしていた(とはいえ大内氏支配圏だった北九州進出にはこだわり晩年まで大友氏激し抗争続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり三男・隆景を通じて元の短慮諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家浸透していったという。 三本の矢 死ぬ間際元就が、3人息子隆元元春・隆景)を枕元呼び寄せて教訓教えたという逸話がある。元就最初に1本の矢を息子たち渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた息子たち誰も3本の矢束を折ることができなかったことから1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟結束強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元早世しているなど史実とは食い違う点も多く弘治3年1557年)に元就書いた直筆書状三子教訓状』に由来する創作とされる。 「三子教訓状」も参照 家臣周辺国人への気遣い元就はいつも餅と酒を用意し地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており家来旬の花や自家製野菜魚やなどを土産元就所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらか上機嫌で振舞った家来持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』) 後世遺された数多くの手元就筆まめな人物であり、数多く自筆の手紙が残っている明和4年1767年)に毛利家編纂された毛利氏訓戒集には手紙などに残された元就小言30近く羅列されているまた、前述の三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容繰り返し記される吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本元就の手紙を「苦労人であった為かもしれない説教となっている」と評したこのような手紙について元就自身は思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨の釈明をしているが、実際には誤字脱字多くなく、手紙意図伝わるように読み手意識した文章になっていることから複数回下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている。 酒でのウサ晴らし戒め下戸で通す 元就嫡男隆元に、酒は分わきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒心得説いている。孫の輝元が元服済ませた際には、輝元の実母尾崎の局に小冷汁一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果説いたのである

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最上義光」の記事における「人物・逸話」の解説

長らくよしみつ」「よしてる」等が名前の読みとしていたが、彼が実妹保春院宛てた書状において自らの名を平仮名で「よしあきと書いていたことから少なくとも郷土において、これが正し呼び名であることが判明した早くから集団戦術火器着目しており、酒田港経由上方より大量の銃器火薬入手し、また堺から鉄砲鍛冶招聘していた。天正2年1574年)の伊達上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢最上勢の射撃苦しめられた。 白鳥長久の娘(日吉姫)を嫡男義康の妻に迎える為として、蔵増天童市)から谷地河北町)へ至る「向去りむかさり)道」を蔵増親景(大膳亮)に命じて造らせる一方、その縁談破談となり白鳥長久山形城誘い出し暗殺すると、向去り道を一気攻め上谷地城落城させた。 伊達輝宗嫁いだ実妹保春院とは殊更関係深く後世に残る文通多数あり、特に大崎合戦慶長出羽合戦においては保春院実家である最上家慮って伊達家との仲を取り持つように動いた書状複数存在する対して、その甥である伊達政宗とは一回り下の世代にあたる人物ありながら因縁深く縁戚としての文通少なくないながら敵対者として挑発的なやり取り複数見られ惣無事令の後も特に政宗第三者に義光を評する時などは皮肉めいた物言い書状が多い。 晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず自筆書状記していた。 義光には当時描かれ肖像画伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。

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左卜全」の記事における「人物・逸話」の解説

映画では「根っから変人」と思わせる自然体演技人気を博すが、その芸は日々の勉強裏打ちされたものであり、「私の芸はぶっ倒れそうになりながら絞り出たものであり、自分自身、芸の世界入ってからというもの毎日が死以上の苦しみであった」と後に回想していた。 実生活おいても芸能界一・二を争うほどの変人として知られ薬草摘んで楽屋干していて、「五種野草煎じた不老長寿の霊薬」が入っているという水筒を首から提げ、いつも撮影所持ち込んで飲んでいた。 「脚が悪いから」と言って撮影所内では松葉杖をついて歩いていたが、土屋嘉男によると、バスに乗り遅れまいと二人で走った時には松葉杖小脇抱え土屋追い越してしまい土屋追いつけなかったという。 撮影所にはいつも妻の糸が同伴していた。糸は新興宗教教祖でもあり、信者は左だけだった。よく撮影合間には手を合わせてお祈りをし、すべてのギャラ教祖である妻に供えていたが、土屋によるとときどき欠伸をしていたという。 なお、撮影所では常によれよれのモンペ姿で、同僚とも離れて過ごし周囲干渉しなかったので忘れられることが多かったが、土屋にだけはよく話しかけてきたという。土屋はちょう郷里土蔵をとり壊す予定だったが、これを聞いた卜全から「住まいにするから土蔵売ってくれ」と懇願されたという。 自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分で操作して運動していた。それからゆっくりとお祈りし、水筒提げて出かけるため撮影中止になったこともあった。 役者になる前は浅草オペラオペラ歌手務めていた。「ムーランルージュ時代、「薔薇座」を主宰していた千秋実呼ばれて舞台出たが、段取り無視してシリアスな芝居ぶち壊し以来卜全は千秋から恨み買っていた。 服装基本的に着たきりで滅多に服を新調しなかったため、いつも身なりボロボロ浮浪者のようであったまた、突拍子も無い服装で出歩く事も多かったと言いムーランでの同僚だった明日待子晴れた日に長靴履き雨合羽着た上に雨傘を持って劇場撮影所出勤してきた卜全を見て驚き理由聴いたところ「夢で神様からお告げあったから」と答えた事に唖然とした語っている。 このような奇行飄々とした個性的な性格から芸能界随一変人として有名だったが、私生活でも独自の生活スタイル貫いた変わり者であったと言い芸能界何十年も在籍していながらプライベートで芸能人友人一人もいなかったと言うまた、41歳時に患った突発性脱疽原因で脚が不自由になり身体障害者手帳を持っていたが、卜全は障害者手帳を持って外出する事はほとんど無く、さらに性格普段から奇行原因で世間から「身体障害者装っている」と思われる事も多かったと言う激痛耐えながら仕事をする夫の事を何も知らず世間勝手に左卜全身体障害者振りをしている」と噂している事に深く傷ついて怒り抑えられなかった糸に対して卜全は全く動じず逆に何を怒っているんだ?逆だよ。そう言う噂があるからオレが助かっているんだよ。役者に病気があるなんて知られ同情なんかされたらそれこそ致命的だ」と糸に笑いながら話したと言う結婚きっかけは、舞台立っていた左のひどく汚い姿と、ふと見せた汚れなき笑顔に、糸が気高く高貴なものを感じたからだったが、卜全と糸との夫婦仲は大変良好で、卜全が外出する時は必ず妻が付き添っていた。卜全は自身の誕生日夫婦銀座出かけるのが恒例で、毎年とても楽しみにしていたと言う撮影の際も必ず妻が付き添っており、特に黒澤監督映画の撮影では卜全が重用されて『七人の侍』で何度も全力疾走したり、『生きる』で何十回もNG出して録り直ししたため、糸が左脚マッサージした応急処置をするなど卜全を献身的にサポートしていたと言う。卜全も糸の事を大切に思っており、外出時は何かトラブルがあった時に糸を守れるよう、常に小刀などの護身用武器を懐に入れていたと言われている。糸は卜全逝去後1977年評伝奇人でけっこう 夫・左卜全』(文化出版局装画題字繫久彌)を著している。 夫婦墓所は卜全の出生地に近い埼玉県所沢市堀之内比良の丘、金仙寺近くにある三ヶ島墓苑にある。 生前東京都世田谷区若林在住していた。自宅は卜全が亡くなった後も糸が1996年亡くなるまで暮らしていたため存在していたが、糸が亡くなり老朽化重なったため取り壊され現存しない。ただし、その際に自宅にあった門は墓所三ヶ島墓苑移設され、跡地には「左卜全偲ぶ会の手により「常道の芸では 先がしれてる されば 逆 遠き苦難の みちを求めん」と記された碑と解説板が立てられている。

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豊臣秀次」の記事における「人物・逸話」の解説

凡庸無能な武将として見られることがあるが、秀次の主たる失敗はわずか16歳時の小牧・長久手の戦い敗戦一度だけであり、その後紀伊四国攻め小田原征伐での山中城攻め奥州仕置などでは武功上げ政務においては山内一豊堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。これらが群臣支えられ結果だとしても、同様の境遇になった2代将軍徳川秀忠将軍職就任以前比して遜色はない。凡庸はともかくとして、少なくとも無能を示す史料論拠皆無である。秀次が本格的に統治行った近江八幡では、町割など行政活動積極的に行って発展させており、近江八幡では未だに尊敬されていることを考慮すると、相応の力量はあり、文武両道の人物であったようである古典収集励み、これを保護した小田原征伐後、奥州赴いた次は中尊寺大蔵経接収してこれを持ち帰ったこのほかにも足利学校や金文庫所収書籍持ち帰っている。また、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』『類聚三代格』『実了記』『百練抄』などを朝廷献じている。 秀次は古筆愛し多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。天正16年以前に『源氏物語』書写させて所持していた。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記が現存する一方在野学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問穢れる」と相手にしなかったといわれている。ただし藤原惺窩の父・細川為純秀吉によって見殺しされているため、秀吉養子である秀次をあえて酷評した可能性否定できない養父三好康長茶人として有名で連歌にも秀でていた。秀次は養子入ってからこれらを習い茶道連歌嗜む教養人であった15歳の頃から著名な歌人の集ま連歌会に名を連ね亭主務めたことがあった。上記の古典収集文芸秀でていたという公家日記や、その他の史料の上からも文化的素養を持つ人物として秀次像を十分に再評価できるため、太田牛一著書以後広まった極端に粗暴な人物というイメージ間違いであると小和田哲男などは反論している。この反論の中で太田牛一以前には暴虐な振る舞いを示すような史料がなく、著書影響で世間の秀次に対す見方変わったこと強調される一般に次は千利休弟子だったといわれており、神屋宗湛津田宗及利休らと茶会同席していた。また秀吉より(利休流台子点前秘伝受けた台子七人衆1人に秀次も数えられている。 秀吉をまねて秀次も能楽を自ら演じようになったが、彼は公家禅僧らに命じて最初の謡曲注釈書である『謡抄』を編纂させ、後世文芸大きな影響与えた秀次事件のとき、秀吉古参家臣である前野長康さらには木村重茲渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪主張し、『五宗記』によれば石田三成も秀次を弁護している。また、家臣小姓からは殉死者も多く出しており、別に徳のない人物ではなく家来から見放されたようなことはなかった。 キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者叔父秀吉)とはまった異なって万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲保ち野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記しているルイス・フロイス日本史』など)。また、次にキリシタンではなかったかという説がある。 秀吉同じく男色嫌っていた。 武術については、師匠である疋田景兼より剣術槍術学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術学んだといい、切腹の際の介錯できるだけ腕前があったという。刀剣の鑑定を行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術学んでいた。剣術試合見世物として楽しみ、聚楽第兵法者真剣で試合を催すことがあった。秀次所用伝わる「朱漆矢筈紺糸素懸具足」が、サントリー美術館所蔵されている。 大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱授けている。偏諱受けた思しき武将には田中吉次織田長次増田盛次らがいるが、秀次の偏諱他の武将異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態取っている。これは「秀」の字が、秀吉偏諱よるものあるため、それを憚ったものと思われる。 秀次は一胴七度」という村正所有していた。『今村押形』の第2巻13丁裏は「前関白次公ヨリ武藤長門守拜領之」と金象嵌銘のある村正作の打刀押形載せている。『甫庵太閤記』にも、秀吉遺物として堀内阿波守、赤松上総守加賀弥八郎3名村正与えられるなど、複数村正作の刀剣登場する試し斬りについて、小林千草仮説では、秀次は秀吉多数所持していた名刀の鑑定を任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬り行っていたのではないか、といわれている。

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栃乃和歌清隆」の記事における「人物・逸話」の解説

唇が厚いことから兄弟子舛田山に「Qちゃん」とあだ名された。その舛田山とは春日野部屋継承の際に不仲となってしまっている。 武蔵丸とは相性悪く23対戦して一度も勝てなかった。また、千代の富士にも、やはり一度も勝てなかった(14全敗)。だが、曙や若貴といった、後の横綱からは比較多くの星を挙げている(曙には7勝12敗、貴乃花には9勝22敗)。 四股名をつける際に師匠栃錦)は自分の四股名出身地和歌山から「和歌」を考えたこれでは栃若時代」と同じ音でまずいのではないか悩んでいた。それを知って助けたのは当時事業部長として理事長であった栃錦補佐役でもあった他ならぬ若乃花当時二子山親方)で「だったらワシ四股名から乃をやるよ」という助言栃乃和歌となった現役力士喫煙者珍しくなかった当時としても角界随一愛煙家であった36歳まで幕内維持し続けた本人は「喫煙相撲成績関係ない。」と考えていたそうであり、稽古鍛えた体は喫煙弊害をまるで感じさせなかった。 締め込みの色は若い時分には青色1990年5月から一時的に銀鼠締め込みもつけたが、力士人生中盤からは一貫して紫色締め込みをつけた。

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阿部正弘」の記事における「人物・逸話」の解説

幕末維新歴史詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人表現使っている。『国民史』では歴史登場人物肉声としての様々な手紙を仮名読み変換しているため、正弘肉声現代読者直接読むことができる構成から出発している。 『国民史』に所収書簡からは、攘夷論正弘が国政を担当する立場から、極論暴論繰り返攘夷派抑えるために、本心隠して意図的に協調路線選択した点がうかがえている。教育研究機関設置するなど実利的洋学導入しながらも、自らは蘭方医治療最後まで拒んだとされ、祖法鎖国体制破った点も心に傷として残っていたとされる若すぎる死因に関して肝臓癌による病死外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政参加させることに不満を抱いた譜代大名溜間詰)による暗殺説まである外様などの雄藩、非門閥開明幕吏幕政参加させる姿勢は、譜代などからは弱気政治姿勢見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎日本の歴史16 開国攘夷』、中公文庫)。 西洋学問理解示し勝海舟紹介正弘邸宅呼ばれた杉純道が、ドイツ版世界地理書を用い詳しく説明した正弘は「我が国は狭いな」と感銘しのため原書を何でも買ってやろうと約束した正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見述べることがほとんど無かったある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上失策となる。だから人言うこと良く聞いて善き用い悪しき捨てよう心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。 正弘肥満体であり、長時間正座苦痛だった。しかし、相手話を聞くときは常に長時間正座をしていた。正弘退出後、茶坊主正弘座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。

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上杉憲政」の記事における「人物・逸話」の解説

甲陽軍鑑』では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。また北条氏康何度も戦い一度も勝てなかったが、これは北条軽輩見下して配下任せて自身は出陣しなかったためだと批判されている。 天文11年1542年)に常陸国鹿島神宮納めた願文には北条氏討滅を誓う文言記されている。 天文20年1551年3月には氏康の上侵攻遭い平井城落ち憲政関東放棄し領国から常陸佐竹氏の許に向い佐竹義昭関東管領職と上杉氏家名継承してもらう代わりに保護求めたが、これを拒否されたという(『佐竹氏物語』)。しかしこれは佐竹氏側の所伝しか見えず、また平井落城年が研究結果による年代矛盾している。なお類似の話として、上杉氏側の史料研究によって、その100年近く前の関東管領である上杉憲実佐竹義人の子実定養子迎えて関東管領職と上杉氏家名継承させようとして家中反対受けたことは確認されている。

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慕容垂」の記事における「人物・逸話」の解説

身の丈七尺七寸(約177cm)、手の長さは膝を過ぎるほどあったという。 王猛慕容垂排除苻堅進言した理由は「慕容垂聡明で龍や猛獣飼いならすことはできず、いつかは自立する」と見越していたためとされる苻堅取り合わなかったが、淝水の戦い後王猛懸念現実となり、慕容垂前秦から自立していった。ただし慕容垂自身は苻堅恩義感じていたとされ、苻堅生存している間は群臣から称帝を勧められても常に拒否したという(実際、淝水の敗戦逃げ苻堅自軍収容した際も殺さなかった。また弟の慕容徳暗殺進言してきた時も拒否したという)。

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赤松満祐」の記事における「人物・逸話」の解説

満祐はその背丈低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症軟骨無形成症身長が120cm程)だった可能性もある。またそのコンプレックスゆえに、足利義持足利義教2代に渡って将軍反抗したではないかとの説もある。 江戸時代身分制度固まった封建制の下で、満祐は「逆臣伝」(『野史』)で扱われている。また満祐こそが「真の下克上時代」を切り開いた人物という評価もある。 満祐は性格傲岸不遜横柄で気性激しかったという。これには多くの逸話もある。 満祐は弟の中で乱暴者知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍義持から切腹命令出ても弟をかばったとされており、このため義持義教2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家を厚遇したという。 東寺の傍を通ったとき、壁越し見た一本が特に枝振り美しかったので使い送ってこの所望した。勿論、満祐はそのため代金出しているが、社寺成長した松の木私邸に移すなど当時常識では考えられぬことで、東寺では衆議開いて協議した赤松家幕府重職あること考慮してやむなく譲ったという(『東寺文書』)。 強力な独裁者足利義教突如失っただけでなく、義教遺児いずれも幼少だったことから大混乱した幕府では当面の間赤松討伐どころでは無くなった。かたや満祐は幕府からの討伐軍派遣されるまで2ヶ月もの間、播磨など領有3カ国保持し時間的余裕があったにも関わらず上洛して倒幕しようとすらしなかった。これは義教没後には、生前家督問題介入されていた諸大名家で再び内紛起こり、こちらが擁立した足利直冬の孫の御教書に応じて幕府謀反する大名が多いと満祐が過信していたためという。しかも、その目算確実にするような諸大名家への積極的な工作ら行わず、書写山東坂本にあった定願寺日夜酒宴猿楽芸能尽くして遊び呆けていたという(『赤松盛衰記』)。おかげで幕府軍追討準備整え機会を与えただけでなく、惣領家庶流家で分裂し赤松一門すら結束させられなかった。そのため幕府軍衝突して半月勝負がついたのも、悪評高い将軍殺害したのだから自分に同情して味方してくれる者もいると満祐が安易に考えていたためという。

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桓石民」の記事における「人物・逸話」の解説

若い頃から、才覚の高さで名を知られていた。 桓氏は長年荊州刺史地位にあり、桓石民才望兼ね備えていたため、荊州人々は彼を仰ぐように尊崇した。

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伊達重村」の記事における「人物・逸話」の解説

13藩主伊達慶邦随筆やくたいによれば仙台七夕かつては他所同じく7月7日行われていたが、忠山公伊達宗村)の代に「御さは(障)り」があってからこれ一日繰り上げて6日行なうようになったという。宗村末娘・珋姫が宝暦12年1762年7月7日亡くなっており(享年8)、「御さはり」とはこのことを指すと見られるが、この年は既に重村治世であり、重村妹の死悼んでこのように日取り改めたものと思われる穀田屋十三郎題材にした2016年の映画殿、利息でござる!」では、仙台出身フィギュアスケート選手羽生結弦重村演じた

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チャーリー浜」の記事における「人物・逸話」の解説

自分の弟子以外の芸人「師匠」呼ばれることを非常に嫌い、呼ばれると「師匠言うな、馬鹿野郎!」などと激怒するそのためチャーリー」、「チャーリーさん」と呼ばれている。間寛平からは、「浜兄さん」と呼ばれている。 祇園花月楽屋片隅自分のスペースを持っており、そこからドアまでの動線荷物を置くと室伏広治ばりの大声張り上げて天井ぶち当たるぐらい投げる。また、楽屋出入口大量に並べられている靴で足の踏み場がないときは、靴を蹴散らすとのこと祇園花月空き時間は皆出払ってしまうた楽屋一人でいることが多い。 京都有名な老舗パン屋志津屋」で、カルネというフランスパン間にハムとスライスオニオンを挟んだパン幾つか買って、それを新喜劇後輩達に与えているがなぜか一部漫才芸人ブラックマヨネーズ千鳥大悟ダイアンなど)には与えないすっちー曰く、「自分本物認めた芸人しかもらえない」。また、千鳥ノブカルネを「おい、そこのほら、漫才と言って渡され大悟は「お前にはやらん!」と言われもらうことができなかった。しかし、これはボケであり声のボリュームボケ聞こえないだけであるという。 兄がいる。兄が若手座員瀧見信行に似ているという。 競馬趣味である。シャンプーハットてつじが競馬予想当てないことを怒っている清水けんじによると、楽屋パンツ姿になりながら「ワシ今日ズボン穿いてきたんかな」と言いながらとうろついていたことがある

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中村勘三郎 (17代目)」の記事における「人物・逸話」の解説

母方の祖父江戸歌舞伎の祖とされる中村勘三郎好んでおり、祖父聖司少年十七代目)に「お前は中村勘三郎継ぎなさい」と言っていたという。 息子の哲明(のちの五代目勘九郎十八代目勘三郎)は、十七代目を「怖い親父だった」と述懐している。たとえば少年時代39度の高熱倒れて家で寝ていたが、その状態で舞台密かに見に行ったことを知った父が激怒し寝ているところに氷水ぶっかけられたうえ、家からつまみ出されたことがあるという。 二人の孫の雅行(のちの二代目勘太郎六代目勘九郎)と隆行(のちの二代目之助)の初舞台門出二人桃太郎』では、二人の母方の祖父七代中村芝翫とともに爺と婆を演じたが(なお庄屋の夫婦十三片岡仁左衛門中村歌右衛門、雉、松本幸四郎(のちの二代目白鸚)、娘婿澤村藤十郎中村福助(のちの梅玉)、巫女義兄尾上梅幸であった)、息子と孫2人祖父2人との5人の口上の席上孫たちは私をじじんちゃまと呼びますが、成駒屋さん(=芝翫)のことをパパ呼びます。それが気に入りません。わたしとあんた爺同士なのに」と発言し客席笑わせた息子の哲明がまだ五代目勘九郎襲名したての幼少期に父である十七代目藤山寛美舞台見たが、そのとき十七代目は「よく見ておけ、この男は必ず舞台で天下を取るぞ」と言いその実力を見抜いていたという。当時寛美人気スターではあったものの、二代目渋谷天外陰にあって後年喜劇王的な位置にはまだ達していなかった。この縁で勘三郎一家寛美一家の親交が現在も続いている。 妻の久枝帝国ホテルレストラン入ったときのこと、久枝前菜スープタートル海亀)を選んだが、十七代目は「タートルって、セーターみたいだね。亀のことおまえさん食べるの?やだね」と言ってメインディッシュ決め段階久枝は「熊?兎??あら雉もいいわ」と言い出したため、十七代目は「何だいだ亀だ兎だ熊だ、って、お前さんそんなに悪食だとは知らなかったよ、ぼくは帰る!!」と激怒して久枝残したまま何も食べず帰ってしまったという。 東京神楽坂和菓子店福屋堅焼きせんべい大好物で、自分用に「もっと焦がして焼いて」と店側に注文していたほどであった福屋がその十七代目仕様焦げ堅焼きせんべい店頭置いたところ、購入希望する客が現れたことから福屋ではこのせんべいを『勘三郎せんべい』として正式に商品化して販売することとなったという。 梨園きっての麻雀きとして知られ取材のために車で移動していた間も同行スタッフ車内で卓を囲んでいたほどであった息子である五代目勘九郎当時)はそんな父だからと葬儀の晩は霊前雀卓を囲もうということになり、十七代目親しかった森光子片岡孝夫当時)・十二代市川團十郎3人誘った。いざ始めようとした時に十七代目遺影倒れて卓のそばまで落ちてきた。途端に雀卓囲んだ4人は「(十七代目は)自分もやりたがってるんだろうね」と故人偲ぶことしきりだったという。 大腸がんの手術をして人工肛門使用していたが、そうした影響微塵も感じさせない精力的な舞台晩年まで務めあげた。 往時歌舞伎劇場役者が入る大風呂があったが、十七代目持病のために入れなかったため、楽屋風呂桶入れさせて一人それに浸かっていた。なお、十七代目亡き現在では風呂楽屋備え付けとなっているものが主流となっている。 『髪結新三にまつわる芸談一つ吉右衛門の兄が、『加賀鳶』で私の道玄松蔵、『吉様参』で私の吉三に弁秀などにつきあってくれて、この次はお前が新三をおやり、おれが源七まわってやるよ、と云っていたのが果たせなかったことが、いまもって私は新三をやるたびに思い出されます。

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山田宗昌」の記事における「人物・逸話」の解説

匡得の号は、自ら「大江匡房兵法会得せり」と称したことによるという。 宮崎県日南市四半的弓道は宗昌が国防衛策娯楽兼ねて振興した物と伝わっている。 豊薩合戦の後、島津義久より300町の知行仕官誘われたが、自分伊東家家臣であるとしてこれを断ったという。また大友宗麟からも150町の知行示されたがこれも同様の理由で断った。これを聞いた宗麟は宗昌の忠義心感涙し、代わりに大友家秘蔵甲冑10領から1領を選ばせ与えたと言われる。 参陣した全ての主要な合戦勝利し何度も不利な状況下で奮闘し伊東家衰退期大友家客将時代にも多くの戦功挙げているため、立花宗茂志賀親次と並ぶ「九州屈指の猛将智将」として宗昌の地元で人気である。

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戸沢盛安」の記事における「人物・逸話」の解説

智勇優れ周辺の諸大名から「鬼九郎」「夜叉九郎」と呼ばれ恐れられた。 総大将ながら常に陣頭立って単騎敵勢中に突っ込むという荒武者であったといわれる一方で捕虜兵士斬らずに逃がしたり、部下大切にするなど慈悲深い面もあったといわれる。 盛安が小田原征伐参陣のため上洛しにへ向か途中様々な逸話残っている羽前の港の酒田到着したところで旅費尽きてしまい、酒田豪商加賀屋与助から七両を借りたという。盛安が金谷居た時、秀吉は既に島田におり、急いで引き返したが、途中大井川大雨増水し渡れないという状況遭う家臣は渡るのは明日にしようというが、盛安は「関白殿下忠義立て遠国から駆けつけて一夜たりとも遅参してはならぬ思った次第増水などに負けぬ。」 と言って提灯を掲げ根性泳いで渡った。そして体が濡れたまま対面し、「羽州角館住人戸沢治部大輔参陣仕ると言い秀吉はその行動褒めて太刀与えたという(『戸沢家譜』)(『新庄古老覚書』)。

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市来四郎」の記事における「人物・逸話」の解説

1857(安政4)年9月17日宇宿右衛門と共に島津斉彬ダゲレオタイプ銀板写真撮った廃仏毀釈に関して著書記録残している。

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佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「人物・逸話」の解説

義重は智勇優れていた。かつて北条軍戦ったときなどは、7人の敵を一瞬斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」の異名恐れられとされるが、「鬼義重」という呼称江戸時代軍記物記録類にも確認することができず、『古先御戦聞書』には「天魔鬼神のような業」と記載されていることから、この部分転じて、「鬼義重」という呼称作られたのかもしれない指摘される詳細不明である就寝時敷布団使わず薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻き敷布団送られ使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。 甲相同盟の破綻により相模後北条氏対決していた甲斐国武田信玄文書交わし甲斐源氏嫡流を巡って議論したという逸話がある。 自らの子女蘆名氏などの諸大名養子として送り込み巧みに勢力拡大している。 上杉輝虎後の謙信)から名刀備前三郎国宗」を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先削って脇差にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。 愛刀南北朝時代鍛えられた八文字長義」。北条氏政軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという。

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赤松小三郎」の記事における「人物・逸話」の解説

佐久間象山にも学んだという俗説があるが、文久3年1863年)に蟄居中の象山手紙やり取りしたのみで、二人会ったことは一度しかなく、直接の師弟関係存在しない門人大垣藩士で、後に陸軍少将となった可兒春淋は、赤松塾の講義内容に関して大正8年1919年8月17日に以下のように談話している。「講義毎日午前3時間、午後2時間午前専ら英国式の歩・騎兵の錬法と射撃に関するもの、午後世界最近の戦史窮理学航海術のことでした。課外として時々世界政治組織についての講義があった。(中略先生は常に輿論政治主張して居られた『如何に賢明なる人とても神でない限り思ひ違い、考へ違ひがある。又少数の人が事を行ふ場合感情誤解憎悪附随するから失態がある。是非これは多数政治據らねばならぬ――。』 先生丁度今日の議会政治主張しました。それは未だ開国するとかせぬとかかまびすしい時でしたから驚きました。(中略)『外国亡国の例を見るに、皆此の身分階級の為、人材野に棄て貴族称する輩が自己の無能顧みずして専横振舞たにある。(中略多数選挙によって選んだものを宰相とするのである英国式を参考として日本の国に合はせるがよい。』常に先生はかく説かれてゐた。それがやうやく25年後にやっと事実となって現れたのであつた」。 また、可兒春淋は、赤松暗殺される薩摩藩犯行確信し次は自分たちも襲われる考え、「若し薩摩藩襲来せば結束して応酬一戦すべし」と意気込んだが、その事はなかったと述懐している。 赤松教え子であった東郷平八郎上村彦之丞は、日露戦争勝利した翌年明治39年1906年5月善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席帰途上田立ち寄り赤松墓参行った大正13年1924年)、赤松従五位追贈されると東郷平八郎赤松顕彰碑碑文揮毫した。その石碑東郷没後昭和17年1942年5月になって上田城跡公園建てられている恩師繰り返し弔意示した東郷平八郎であったが、暗殺事件そのものついては生涯語らなかった。昭和8年1933年)には長野県教育家岩崎長思が、赤松暗殺事件究明のための取材東郷申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え取材断っている。 なお、「右へ=準え」や「右向け=右」は彼の翻訳と言われることがあるが、安政4年1858年)の文献には既に用いられており、彼の翻訳ではない。なお警察予備隊時代に「頭=右」が「眼=右」に変更されことがあるが、「眼=右」を最初に用いたのは赤松である。但し警察予備隊の「眼=右」は翻訳偶然であり、赤松翻訳とは関係がない

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曽我町子」の記事における「人物・逸話」の解説

高校生時代理数系を得意とし、自ら化粧水調合なども行っていた。役者の道を目指したのは、化学発表会緊張から失敗犯していまい、これを克服するために歌や芝居習い始めたのがきっかけであったプロ意識高く仕事に対する姿勢は非常に厳しかった台本衣装等でスタッフ手を抜いたと思ったらすぐに注意促し用意された衣装納得がいかない自前用意するであったという。レギュラー出演した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』では、台本納得できずに一度は降板申し出たこともあったとインタビュー記事語っている。 悪役演じにあたっては、悪の魅力前面押し出すことを意識していた。後に『徹子の部屋』出演した際に曽我これらの特撮系の仕事触れ、「疲れるけど、楽しいわよ」と振り返っている。 『オバケのQ太郎』で主人公Q太郎の声を当てることになったきっかけは、番組企画された際に事前告知兼ねてQ太郎イラスト登場する不二家キャンペーンCM製作され、そのアフレコ曽我担当しためである後に声優オーディション催されたが、結局、このキャンペーンCM実績考慮される形で曽我アニメ版Q太郎の声もそのまま担当する事になったという。 『オバQ音頭』のレコーディングの際、曽我風邪こじらせており、本来の声のコンディションではないことを理由に、日本コロムビアの製作サイドに一旦は「レコーディング予定ずらしてほしい」と願い出たという。しかし、共演相手石川進スケジュール空いていなかったほか、コロムビア社内ストライキ真っ只中であったことから久々に現場参加できるとあって大乗り気になっていたコロムビア幹部たち熱意押されるような格好で渋々レコーディングに臨むことにしたという。結果、同レコード累計で200万枚以上(公称)を売り上げるというアニメ番組子供番組出自楽曲レコードとしては異例の大ヒットとなったのだが、曽我自身はレコーディングずらしてくれたら、もっと面白く歌えたはずなんだけど」とインタビューの中で話すなど、その出来映えには晩年まで満足してなかったようである。 『オバケのQ太郎』で人気絶頂期迎えたを機に、「Q太郎以外の自らの方向性模索する目的で1970年代初頭一時芸能活動休業イタリア国立美術学院への留学経て、約3年近くにわたってイタリア・シリア・アフガニスタンなど欧州中東渡り歩く生活を過ごしたこの時以来地中海方面への旅行とその旅行の中で巡り合った骨董品装飾品収集終生ライフワークとなり、後の「ステラ」開業繋がったという。 『新オバケのQ太郎 』のQ太郎役は当初初代曽我引き続き担当する予定であったが曽我多忙であったこと、TBS系であった初代との差別化(『新オバQ』は日本テレビ系)などで堀絢子決まったという。 帰国後もなかなか「Q太郎」のイメージから抜け出せ思い悩んでいたところに舞い込んできた仕事が『5年3組魔法組』の魔女ベルバラ役であった。この役を演じたことで特撮番組魅力女優として本来やりたかった方向性見出すことができたという。 特撮作品魔女役が十八番あるだけに、それに対して格別の愛着持ち自分の「ステラ」では、演じてきた各魔女役にインスピレーション受けた香水を自ら調合し、その役にちなん商品名で客達に提供したりもしていた。 『TVチャンピオン』にも自分の演じた役柄に関するクイズ出題者としてゲスト出演したことがある勝ち抜いた挑戦者のためにサイン色紙用意する敗退した挑戦者とも対面し言葉を交わすなど、演じた役もファン大事にした。 40代の頃までは深夜番組11PM内の定例企画芸能界酒豪番付」で三役常連として名を連ねるほどの酒豪として知られていた(一時は新宿などの都内繁華街バースナック経営していた)が、50代半ばになってからは老後の健康が気になり断酒決行以後亡くなるまでほとんど酒類を口にすることはなかったという。 仕事に対する厳しさ反面生来明るい性格である曽我は、他の共演者達によく声をかけ積極的にコミュニケーション取っていたという。『ジュウレンジャー』で共演した千葉麗子は、曽我訃報翌日自身のウェブサイトで「何も分からない新人の私にも話をして下さった」と哀悼の意を表すコメント掲載していた。 曽我亡くなった日、テレビ等のメディアは「初代オバQ声優亡くなった」等とこれを広く報じた曽我経営していた「ステラ」ウェブサイトにある掲示板にはファンからの何件もの追悼コメント載せられステラ側から献花等を辞退する旨の声明出されている。 テレビ朝日を除く民放各局が「初代オバQ声優亡くなった」と広く知られた事例のみを以って紹介する一方NHKの『つながるテレビ@ヒューマン』では、「特撮女王」として番組コーナー訃報取り扱ったヘドリアン女王等のスチール写真や『電子戦隊デンジマン』のBGM流して紹介)[出典無効]。 『時空戦士スピルバン』に女王パンドラ役で出演していた当時、『ビートたけしのスポーツ大将』の100m走女王パンドラとして出演したことがあるこの時は40mのハンデもらったが、衣装重さから見事に最下位になってしまい、劇中におけるパンドラのキャラクターそのままに悔しがっていた。 『魔法戦隊マジレンジャー』曽我演じた天空大聖マジエル」の役は当初俳優の岡田眞澄務め予定であったが、岡田体調不良理由辞退したため竹本昇監督推薦によりその代役として曽我依頼されたものであったという。しかし、実際には曽我この時すでに病魔闘いながらの撮影であった。なお、曽我死去から約3週間後の5月29日岡田も癌によってこの世去っている。竹本は「曽我町子演技指導する監督としての立場緊張の連続であった後に述懐している。 マジエル初登場にあたるマジレンジャー』の映画版魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』で曽我演じマジエルが、劇中終盤マジレンジャーの6人や地上界住む人間達に向けて述べたさて、地上界の者たちに素敵な魔法を送るとしようそれぞれの者に勇気と力を与えよ。」という台詞は、曽我本人映画館まで観にきてくれた観客に何か元気になれるメッセージになるような台詞最後に入れて欲しいと、東映側のチーフプロデューサー担当した塚田英明提案して急遽挿入されものであるという。 『電子戦隊デンジマン』などで付き合いのあった小林義明監督については「とにかく変わり者」という人物評をしていた。 曽我自身は役者続けるつもりは無かったが、アメリカ映画青い目の蝶々さん』に出演したことが、転機となって役者続けていくことを決めた同作品では当初エキストラとしての出演だったが、撮影当日に役を貰ったものの、英語の台詞巧く言えず、台詞減らしてくれるように頼むが、それをエドワード・G・ロビンソン咎められたことで、曽我自分本気で役者という仕事をしていなかったことに気づいたとしている。 『電撃戦隊チェンジマン』アハメス役は当初は曽我演じることになっていた。

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乳井貢」の記事における「人物・逸話」の解説

実学的な著述数多く執筆し安永元年1772年)には農業従事した経験を活かし農業経済学の『陸稲記』や、天明元年1781年)には現在のそろばんと同じ珠の配置(地4+天1)を唱えた初学算法』などがある。4つそろばん全国普及したのは乳井考案から154年後(尋常小学算術)である。 当時武士の規範とされた朱子学考え方批判し社会有用な実学重んじた1780年代失脚した際に辺境川原平蟄居命ぜられたが、拘束の程度は緩く取締役人に来ると牢に入っている形式)、新田開発する傍ら寺子屋開き村人読み書きそろばん教えていた。こうした活動から、乳井地域住民から慕わ存在となった昭和10年建立され顕彰碑西目屋村川原平にあったが、津軽ダム建築工事撤去されて現在はそこになく、津軽白神湖パーク移動させられている。

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桓石虔」の記事における「人物・逸話」の解説

幼少から才幹があり、身体の敏捷さ群を抜いて優れていた 。 荊州狩り行った際、猛獣数本の矢が刺さり地面伏していた。戯れに刺さった矢を抜くようにと命令下った桓石虔急いで猛獣の元に向かい、矢を一本引き抜いた猛獣飛び跳ね桓石虔飛び跳ねて格闘の末、猛獣組み伏せた。桓石虔は再び矢を引き抜いて戻ってきた。 桓温に従って関中侵攻した際、桓沖前秦皇帝苻健によって包囲され討死危機にあった桓石虔単騎で赴き、数万の兵がひしめく中、桓沖救って帰還した敵兵桓石虔抗する者はなく、三軍感嘆し、その威名敵軍震わせた病人に「桓石虔が来るぞ」と言うと怖れのあまり多くの者が快復した。民衆桓石虔畏れるのはこれほどであった謝安桓石虔勇猛ぶりを慮り、これを御することは難しいと考えて豫州刺史任じた桓石民荊州刺史桓伊江州刺史任じられ、桓氏が三州拠ることになり、彼らは誰憚ることなく各州治めた

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慕容昭」の記事における「人物・逸話」の解説

才芸があり、父の慕容廆から寵愛されていた。これを慕容皝常々妬まし思っていた。

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松平宗衍」の記事における「人物・逸話」の解説

隠居してからの宗衍は奇行繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣命じて色白の美しい肌の美女連れて来い命じその女性の背中花模様刺繍彫らせ、その美女に薄い白色着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中刺繍見て喜んだといわれる刺青入れられ女性は「文身いれずみ侍女」と呼ばれて江戸評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味失い、この侍女家臣与えようとしたが誰も応じず、仕方なく1000両を与えるからとしても誰も応じなかったという。 江戸赤坂にある藩邸一室に、天井から襖まで妖怪お化けの絵を描いた化け物部屋造り暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集江戸塵拾』、『当代江戸百化物』でも「雲州松江藩主松平出羽守」の名前が挙がっている。 参会者全員裸でを飲む裸茶会開催している。 『赤蝦夷風説考』などの著書知られる医師経世家経済学者)である工藤平助との交流の話が残る。 松浦清随筆『甲子夜話』正篇巻之五十一には、松平南海が退屈を紛らわすために長身力士釋迦ヶ嶽雲右エ門化物扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者からかった旨の記述がある。 月照寺にある宗衍の廟所寿蔵碑があり、大亀石像土台となっている。この石亀夜な夜な松江の街を徘徊したという伝説があり、後年松江滞在したラフカディオ・ハーン随筆知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan』(1894年)で紹介している。「月照寺 (松江市)#大亀伝説を参照 隠居後の宗衍の奇行題材にして谷津矢車小説雲州下屋敷幽霊」(『オール讀物2016年12月掲載)を執筆している。

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盧淵」の記事における「人物・逸話」の解説

盧淵性格温厚で学問尊び草書学んで平城宮殿によく題書した14歳のときに長安訪れ扶風の王伯達に顔相を見てもらって20年後に関右に命を制するだろうと予言された。 李沖と特に親密であった

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花満開 (お笑い芸人)」の記事における「人物・逸話」の解説

派手な花柄スーツ着ているのが特徴また、以前はアフロヘアーだった。 以前は相当なギャンブラーだったらしく、パチンコ500万借金したことがあるという。また芸人になる前スカウトマンをしていたときもある。 親交があるモノマネ芸人ミラクルひかる司会務めるくるくるミラクリング(GyaOて放送)にゲストとして出演した時に、顔が大きいことなどを指摘されるなど、散々いじられた。また、初めミラクルイベント出会った際、花はミラクルに対し「かわいい」思っていたそうだが、ミラクルは花を見て逆に気持ち悪い」と思っていたことを告白。 主にギター漫談しておりネタ代表作三十歳にまつわる三十路の歌」がある。この他にも「ヨイショの歌」などもある。 前述の通り、顔が大きい。それを確定するエピソードとして昔、新聞勧誘で家を訪ねてきた初対面の男にいきなり「きみ、舞台映えだね」と言われた。しかし、当の本人は、当時役者目指していたこともあって逆にうれしくなり、結局その新聞を三ヶ月間とったらしい。 ルックスがよく、西口プロレス試合際に所属レスラーでゲイキャラのラブセクシー・ローズに襲われるデート誘われるのがほぼ定番となっている(あくまでネタ)。 モノマネ得意でなく、モノマネ番組オーディションで、番組プロデューサー相手ジョン・カビラモノマネをした際、あまりに似ていなかったためプロデューサーイスから転げ落ちたという逸話がある。

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北条貞顕」の記事における「人物・逸話」の解説

金沢文庫古文書中には彼の書状642通(書状復元作業などから566通とも)現存し、これは鎌倉時代後期末期情勢伝え上で貴重な史料となっている。 貞顕は当時では一流文化人であり、探題時代多くの文化人交遊して書写行なったりした。鎌倉帰還後親王将軍をもてなすために京都銘茶道具類備えるなどしている。貞顕の政治家としての評価は「得宗家強大な権力ひれ伏した」として低い。しかしこれは貞顕が幕府滅亡時の7年前まで幕府中枢幕政仕切っていたため(幕府滅亡までも一定の影響力はあったと思われ