人物・逸話
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幼稚園の頃、職員室のPCをジャックし自分の名前を入力したらしい。小学二年生の時にHyperCardに触れ、プログラミングに目覚める。中学一年生の時にResEditを用いてフリーゲームのドット絵を差し替える。中学生の頃よりドット絵を作成し始める。高校一年生でPSOで遊び始める。大学一年生の時に初めて漫画を描くも、アナログ(での執筆)に向いていないと感じる。趣味はDanceDanceRevolutionとSOUND VOLTEX。主な使用ペイントツールはComicStudio、Adobe Photoshop。影響を受けた作家として玄鉄絢、タカハシマコ、武田日向、なもり、介錯、美水かがみ、すか、ヒライユキオ、春畑睦月を挙げる。
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第三回エジプト遠征の際、父アイユーブに遠征に使う財布を借りに行ったところ、アイユーブは「エジプトで一財産手に入れたら、これを金で一杯にして私に返してくれよ」と冗談めかして言った。一年半の後、アイユーブがエジプトに到着してこの財布のことを訪ねたので、アーディルはエジプトの質の悪い貨幣を詰め、その上に良質の金貨をかぶせて下の質の悪い貨幣が見えないようにして渡した。アイユーブはこれを見て「お前はエジプト人からどうやって悪貨を相手につかませるか学んだのか」と言ったという。これはアーディル自身が好んだ一種の冗談のようである。 兄サラーフッディーンは、アーディルを特に信用しており、彼との相談なしに何ら重要な決定をすることはなかったと言われる。 前述のようにリチャード1世との外交交渉を担当していたが、もとより戦場でリチャード1世に駿馬を贈るなど個人的に親交が深く、交渉中に更に気に入られてリチャードの妹ジョーンを妻に娶るように提案された。サラーフッディーンも同意を示したが、結局はジョーン本人の激怒と反対で実現しなかった。 大食らいで、焼いた羊まるまる一頭をたいらげることができたという。 狡知に長けエジプトの平和を守った一方、マクリーズィーによれば即位後はかなり豪勢な生活をしていたようで、禁欲的と評される兄とは逆の評価を得ている。
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359年2月、慕容儁は群臣を蒲池に集めて宴を催した。慕容儁が涙を流して、群臣に慕容曄の評について問うと、司徒左長史李績が「太子(慕容曄)は大徳が八つありました。至孝は天より授かり、性質は道理に適っていました。これが一つ。聡敏かつ慧悟であり、機思は流れるようでした。これが二つ。沈毅で決断が早く、その理に暗いものはありませんでした。これが三つ。諛言を嫌い、直言を好んでいました。これが四つ。学問や賢人を愛し、目下の者に問うことを恥じることはありませんでした。これが五つ。その姿は古の英雄より勝り、才芸は時代を超越していました。これが六つ。襟を正して謙虚に師の教えを尊んでいました。これが七つ。財を惜しまず施しを好み、民衆の苦しみに寄り添っていました。これが太子の八つの大徳です」と評した。慕容儁はこれを聞き、慕容曄が存命であれば、死んでも憂う事はなかったと嘆いた。
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宝塚時代の親友の一人に初風緑のおばである・美濃ゆたか(男役)がいた。緑の芸名は諄にあやかり命名したのだという。 親類に元プロ野球選手・元プロ野球監督で野球解説者の田淵幸一がいる。
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孝武帝は諸侯王時代に顕和と旧交があったため、即位後もたいへん厚遇した。顕和の居宅が手狭だったため、役所を引き払って、そこをかれのための寝室として賜った。 高歓が北魏の朝廷で専権をふるっていたため、孝武帝はつねに不安におびえていた。孝武帝が「天下が乱れているが、どうしたらよいだろうか」と訊ねると、顕和は「現在の方策は、善き者を選んで頼るよりほかありません」と答えた。詩をそらんじて「かの美人かな、西方の人かな」と言った。孝武帝は「わたしの考えと同じだ」と言って、入関の計画を定めた。孝武帝は顕和の母が老年で係累も多いので、計画に参加させようとした。しかし顕和は「現在の情勢では忠と孝をともに立てることはできません。秘密がもれれば身を失う計画であるのに、私情をさしはさむことができましょうか」といって拒絶した。孝武帝は顔色を変えて「卿はわが王陵である」といった。 宇文泰は顕和が弓射を得意とすることを聞いていたので、溱水におもむいたときに水傍の小鳥を射させると、顕和は見事射当ててみせた。宇文泰は笑って「わたしは卿が上手であることを知ったぞ」といった。
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子信は清らかで安定した性格であり、趣味として文学を渉猟した。若くして医術で名を知られ、白鹿山に隠れ住んだ。都の鄴に遊んで、魏収や崔季舒らの礼遇を受け、かれらによる「子信に贈答する詩」数篇があった。大寧年間、尚薬典御として召された。武平初年、太中大夫として召し出されたが、おりふしに山に帰ることを許され、鄴に常住しなかった。 子信は占卜を得意とした。武衛の奚永洛が子信と対座したとき、鵲が庭の樹で鳴いていたことから、子信はこれを叩き落とした。子信は「鵲の言は良くない兆しです。もし薄暮のころに西南からの風がやってきて、この樹を巡り、堂の角をはらうようなことがあれば、口舌による事変があります。今夜もし人が呼ぶことがあっても、決して行ってはいけません。勅命であっても病といって断りなさい」といった。子信が去った後、その言葉のような風が吹いた。この夜、琅邪王高儼が5回使者を派遣して勅命だといって奚永洛を召し出そうとした。奚永洛は行こうとしたが、その妻がこれを押しとどめて、落馬して腰を折ったと言い訳して行かせなかった。このとき朝廷に駆けつけた者は粛清の禍難に遭った。 北斉が滅びると、子信は死去した。
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玉屋の創業家である田中丸家の一族である。 高校時代は部員約70名率いるラグビー部キャプテン。ポジションは右ウイング。学生時代100m10秒9。 1992年大学在学時、樋口宗孝(レイジー, ラウドネス, スライ)と出逢う。1994年、樋口がスライ結成とともに師事、同バンドのベーシスト寺沢功一の傍でローディーとして学ぶ。1997年、樋口がソロアルバム“Free World”を発表。そのアルバム制作(プリプロ~※ガイドミュージシャンとして)に参加。同アルバムではビリー・シーンをはじめ、ジェフ・ピルソン、T.M.スティーブンス、スタンリー・クラーク等が参加。他にもスティーヴ・ヴァイ、スティーヴィー・サラス、テリー・ボジオ、ドン・ドッケン、ロニー・ジェイムス・ディオ、タイ・テイバー、マイケル・トンプソン等もこのアルバムに参加している。 1998年春に樋口の推薦もあり柏原崇、柏原収史兄弟とともにバンド"ノーウェア"を結成。1998年9月9日、フォーライフ・レコード(現フォーライフミュージックエンタテイメント)よりファーストシングル"アナザーワールド"でメジャーデビュー。ライヴ活動は国内では渋谷CLUB QUATTRO、下北沢シェルター 他。1999年8月14日、当時台湾でも柏原崇人気は絶大で、ノーウェア単独公演に約30,000人を動員。『No'Where(柏原崇) 台北市立體育場 演唱會』 2001年初頭、ラウドネス高崎晃のレーベルHEMP RECORDSより加藤剛志(Ds.)等と結成したミクスチャーバンド"アイオライト"でミニアルバムをリリース。高崎晃のソロプロジェクト"JI-ZO"メンバーとしても活動した。 2001年秋、クラウド・ナインのリーダーSHU(Gt.)よりバンドへの誘いを受け、幾度のセッションやライヴを経て2002年初頭正式メンバーとして参加。クラウド・ナインでのリリースは、フルアルバム2枚(徳間ジャパン・コミュニケーションズ)ミニアルバム3枚(ポリスター)等、ライヴDVD2枚他、バンドで コンピレーションアルバム等にも参加している。PV7本。2005年に発表したアルバム疾風迅雷ではミキサー&プロデュースとして元マシーン・ヘッド、元ソウルフライのギタリストローガン・メイダーを起用。翌2006年9月に発表された疾風迅雷外伝においても同氏を起用。2007年10月21日のライヴを最後に、渡米目的の為バンドを離脱。後任ベーシストとして第一期のメンバーでもある沢田泰司(元X, 元ラウドネス, D.T.R)が復帰。 2007年12月、18年ぶりとなるラウドネスボーカリスト二井原実ソロライヴのメンバーとして東名阪ツアー『Rock'n Roll GYPSY TOUR 07』に参加。 2008年1月28日、シャムシェイドのボーカリスト栄喜とSADSのギタリストK-A-Zとのユニットデトロックス渋谷C.C.Lemonホールでの公演に参加。 2008年3月4日よりロサンゼルス在住。同年8月、ハリウッドで人気のバンドLOVECHILD(ラブチャイルド)に加入。 2009年10月30日、カリフォルニア州オレンジ・カウンティでコーンをヘッドライナーに迎えて行われた"Halos N’ Horns Fest."にLOVECHILDで出演。 2010年5月、エレクトロニック・ポップメタル・バンド Otto's Daughter(オットーズ・ドウター)に加入したが1ヶ月で脱退。 2010年11月30日無期限で音楽活動を停止。 ※ガイドミュージシャンとは、リズム録りの際に、一堂にミュージシャンが 集合できない時に仮で演奏をするミュージシャンのことを言う。そのミュージシャンの演奏で、曲の雰囲気を捉えるため とても重要になってくる。
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熊本大学には乗馬クラブが有り代々麻酔科の教員がその部長を務めていた。伊佐もまた教職時代に同部長を務めている。 2002年に発刊された著作『ウソのようなホントの話 : 追想の昭和初期史から現代医療事情まで』には、参議院議員も務めた医師の大浜方栄による推薦文が掲載されている。 クライン孝子とはヴオイガート立子を介して多年に亘り親交があるという。 2017年に発刊された『麻酔科医が解決した殺人事件』は伊佐の医療体験を基とした小説で、95才にして初めての推理小説作家となった。
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謝挙は幼くして学問を好み、清談をよくし、兄の謝覧と名声を等しくした。 14歳のとき、謝挙は沈約に五言詩を贈って、沈約の賞賛を受けた。 当時の人は「王氏には養(王筠)と炬(王泰)がおり、謝氏には覧と挙がいる」と語った。 江淹は謝覧と謝挙の兄弟に会って、「いわゆる『二龍を長塗に馭する』というものだ」といった。 謝挙は東宮の記録を管掌して、昭明太子蕭統に信任された。 秘書監の任昉が新安郡太守として出向するにあたって、謝挙との別れを「詎念耋嗟人、方深老夫託」と詩に詠んだ。 謝挙が華林園の宴に参加したとき、武帝が謝覧に謝挙のことを訊ねると、謝覧は「弟の識芸は私を上回っていますが、ただ飲酒だけは私に及ばないようです」と答えたので、武帝は大喜びした。 謝挙が3回にわたって吏部尚書の任についたのは前代未聞のことであった。 謝挙は若くして博識で、とくに老荘と仏教の解釈に長けていた。 謝挙が晋陵郡にいたとき、義僧とともに経論を講義し、隠士の何胤が虎丘山からやってきた。 国子博士の盧広も謝挙の見識に感服した。
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前秦の閻負・梁殊が前涼へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧張瓘は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越、安遠将軍倶難、建武将軍徐成である」として、彭越の名も挙げられている。
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前秦の閻負・梁殊が前涼へ使者として赴いたとき、前涼の涼州牧張瓘は彼らへ前秦の人材について問うた。その際に「驍勇・権略に長け、攻めれば必ず取り、戦に必ず勝つ。関張の流で、万人の敵となる者は、前将軍・新興王苻飛、建節将軍鄧羌、立忠将軍彭越、安遠将軍倶難、建武将軍徐成である」として、苻飛の名も挙げられている。
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領地は現在の横浜市戸塚区品濃町と千葉上総にあった。 つぶらな瞳の美男子だったので「陰間侍」ともあだ名されていた。 第6代駐日アメリカ合衆国大使のローランド・モリスが1920年(大正9年)に帰国する際、新見の墓に詣で、松を植樹している。この松は枯れてしまったが、石碑が現在でも残っている。 万延元年遣米使節を乗せたポーハタン号の士官だったジョンストン中尉は新見のことを「寡黙だが温和慈愛の相があり極めて親しみやすい人」「平和な気質と親切な心の持ち主」「非常に上品で万国共通の上流社会の特徴を偲ばせる」と日記に書き残した。
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『三河物語』によると、徳川家康の嫡男信康の正妻徳姫が実父織田信長に十二箇条の文を送っているが、『三河後風土記』によれば、その中に築山殿(家康の正妻、信康の母)が甲州浪人医師減敬と密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って、信康が甲州方に味方するとした旨の条がある。その他の条も合わせ、この十二箇条の内容により、信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされる。だが、『三河後風土記』には偽書説があり、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は信長の命ではなく家康と信康の対立が原因とする説も出されている。
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『寛政重修諸家譜』によれば、長篠の戦いの際、武田勢は自軍の旗を捨てて敗走したが、徳川方の兵は武田勢の旗を拾って武田方の兵を嘲笑した。これに対して武田兵は「無用の旧物であるから捨てたのだ」と応じ、新たな旗を掲げて見せた。これに対して正道が進み出て、「山県昌景や馬場信春ら甲斐の老将たちの首もわが方にあるが、これも無用の旧物なのか」と笑い、武田兵をやりこめた。のちにこのやり取りを聞いた家康は正道を称賛した(御感あり)という。 根岸鎮衛『耳嚢』巻之五「梶金平辞世の事」によれば、梶正道(金平)は「死にともな あら死にともな 死ともな 御恩に成し君を思へば」という辞世を詠んだという。根岸鎮衛が他人から聞いた話を書き留めたものであるが、豪傑として知られた「豪気武骨」の人物が忠臣の心情を辞世とし、他人の評価を気にせずに詠んだ歌として興味を示している。『名将言行録』巻之五十四(本多忠勝)では、これに似た歌「死にともな あら死にともな 去りとては 君の情の今は恨めし」を、本多忠勝に殉死した大谷三平にさらに殉死した三平の下僕の辞世として掲げている。 これに似た歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」が、本多忠勝の辞世として流布している。
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常山は品位方正で身を忘れて岡山藩のために尽くした人格者だった。しかし身分に関係なく誰憚ることなく人の非を直言したため、讒言により遂に官を追われて門を閉じ、客にもほとんど会わずに著作に専念したという。 常山の著で有名な『常山紀談』は戦国時代の忠臣や勇者の事跡や逸話を描いたものであるが、彼はこの著において「武士は全てにおいて武を尊び、卑しくも武士たる者は文治を排して武事を廃するな」と述べている。 常山は兵法に明るく武芸に長じており、老いても常に日に1度、槍と刀を振るうことを欠かさなかった。 常山は1つの善言を聞き、1つの善行を見るごとに必ず感極まって泣いた。そしてその見聞きした善行・善言は決して忘れなかった。 常山は幕府の代官であった野口直方と親しく、野口も常山を先生と慕っていた。その野口が備中の倉敷から江戸に転任することになったとき、藩侯は常山に野口を送っていくように命じた。常山は息子の子誠と共に野口を送ったが、あるとき「私は君を君命で送ることができないから息子を連れて来たんだ」と言った。野口が「何を言われます? 先生はこうして私を送ってくれているではありませんか」と返すと「私はあくまで君命で君を送っているんだ。私事は息子に頼んだんだよ」と答えた。このように常山はどんなときでも公私を混同しなかったという。 父が死去したとき、非常に嘆き喪服で下衣を作って3年間脱ごうとしなかった。毎朝、その墓に行って拝し慟哭した。母のときも同じで忌日には必ず生前に好んだものを供物として儀礼の言葉を述べ号泣した。 井上蘭台と酒を酌み交わして文学を論じていたとき、「我が藩で文章をよくするのは湯元祥だけだ。なのにその名が天下に顕われないのは残念なことだ」と述べた。 常山はいつもきびきびとして素早い行動をし、人の意見をよく聞いて帰ってからその意見を常に書き記したという。 松崎観海は太宰春台の弟子だったが、あるとき常山の作った詩文を見て「この人は大器だ。その才も詩くらいで終わるものではないから、詩にうちこむのはこれくらいでやめておいた方がいい」と述べ、春台も「お主の言うとおり。最もだ」と述べたという。 母親と『枕草子』について話を交わしたのが文学の道を志すきっかけだったという。
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佐伯ではコンニャクの製造が盛んで、その販売の商標に土倉家の家紋「折れ松葉」の使用を許可した。
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袁紹は『三国演義』始め、多くの三国志創作では名門の出自によって出世した優柔不断な暗君として描かれているが、史書には以下のような人物像が記録されている。 袁紹の母親は婢女であり、凡才であれば、もともと名が史書に記録されるような立場にはなかった。 「容貌端正」「姿貌威容あり」「姿弘雅」とあり、秀麗な容姿であった。しかし、「体長婦人」とも記されており、小柄な人物であったことが分かる。 後漢末期当時、四つの州を支配した袁紹は最も強盛であるとされた。劉廙は上奏文の中で「孫権・劉備の実績は袁紹の事業と比較にならない」と言っている。 おっとりとして上品で、喜怒哀楽の感情を表さなかったと言われる。 魏郡の軍勢が謀叛を起こし黒山の于毒と結んで鄴城を攻めたという一報が入った時、その場にいた席上の客達は動揺し、中には泣き叫ぶ者もいたが、袁紹は顔色を変える事もなく泰然自若としていた。 公孫瓚配下の騎兵二千騎余りが突如来襲してきた時には田豊が避難させようとしたが、袁紹は兜を地面に叩きつけて「大丈夫たる者は突き進んで戦死するものだ」と言った。 漢末期の王公の間で雅であるとされた幅巾という幅の広い絹の頭巾を被っていた。 帰郷の際、人物評価で名声の高い許劭の目を気にして、車一台だけで帰った。 敵対している立場から郭嘉が「袁紹は人民、蛮人に恩を施していたから、袁紹の息子たちが生きていられるのです」と発言し、荀攸が「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していました」と発言しており、袁紹の死を民百姓が嘆き悲しんだ事から、仁政を執り行った事が分かる。
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幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた。 長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた。 戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず、毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張し、交渉をまとめた征討総督の徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に矛盾を指摘され論破されるという失態を犯しているというところからみて、政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点は表層的であり、永井の行動は長州藩の過激派を解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換えると役人らしく幕府の強硬派への釈明から薩摩の意見を容れるポーズを見せたというのが実相である。 戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った。 養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家の三島由紀夫である。つまり尚志は三島の養高祖父にあたる。 尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会が開かれ昭和45年(1970年)時には、270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会に出席したこともあったという。 孫の永井亨(経済学博士)は祖父・尚志について、「監察史となって長崎に出張しましたときオランダ人を雇い入れ長崎に海軍伝習所をつくったのであります。(中略)長崎奉行と意見が合わないのを独断でオランダ人からいろいろの技術や材料を入れて、長崎の飽ノ浦という所へ造船所を作った。これがいまの三菱造船所の前身であります。(中略)そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行、外国奉行などいたしまして後に京都へ参り、京都で若年寄格にまでなりまして、守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったと伝えられています」と語っている。また、尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」と語っている。 孫の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子に直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている。 三島由紀夫は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人・林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している。 田中新兵衛が姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の京都町奉行は、永井尚志であったという。
※この「人物・逸話」の解説は、「永井尚志」の解説の一部です。
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漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。 石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、様々に評論することがあった、酈食其の六国の後を立つるを勧め、印を刻み、将に之を授けんとせるを聞くに、大いに驚きて曰く「此の法は當に失せんとす。云何ぞ遂にして天下を得る有らんや?」。張良の諫むい至らば、迺ち曰く「頼いに此れ有るのみ」と。 また、過去の群雄について、「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児(献帝)や寡婦(明元皇后郭氏)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と評した。 若い頃に流浪したこともあり、従子の石虎を除くと親族がほとんどいなかったため、「異姓不要」の風潮が強い当時において他姓の養子を複数迎えて一族の強化を図ろうとした(直接の関連性はないが、500年後の五代十国時代の仮子に近い)。更に勃海の石璞(石苞の曾孫)を同姓のよしみで宗室の待遇を与えている。
※この「人物・逸話」の解説は、「石勒」の解説の一部です。
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人物・逸話
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土井利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじたと評される。 秀忠が家督を家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人が不安な様子を見せていた。利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由を問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名の財政が逼迫しているのにさらに将軍が隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念を秀忠に伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠も納得し、翌年の秀忠隠居は取りやめとなった。 将軍・家光が増上寺へ参拝へ向かおうとしていた時、櫓の白壁が欠損していることに気づいた。家光は松平信綱に修繕を命令したが、修繕は困難であった。そこで信綱は、他の櫓の戸を外し、壊れた部分に一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかしに過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した。 利勝は、最上義俊が最上騒動で改易されて浪人となった際、義光以来の重臣・鮭延秀綱の身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄を与えた。しかし秀綱はこの5,000石を自分の家臣14人に公平に与えて自らは無禄の客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し、余生を過ごした。その14名は土井家では中級の家士に取り立てられ、大半の家は幕末まで続くことになるが、鮭延の没後、その恩顧に報いるべく古河に鮭延寺を建立して供養に努めた。 幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導を行った。
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人物・逸話
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「オットー・シュニーヴィント」の記事における「人物・逸話」の解説
秀才型の有能な人物だと評価されている。 対英戦に備えた海軍拡張政策「Z計画」ではヘルムート・ハイエ中将、ヴェルナー・フックス少将の戦艦では英国には勝てないので、その通商破壊を目的とした潜水艇のUボートを主力とした艦隊を構築すべきだ、との急進的な意見に他の提督達と同様に戦艦を中心とした艦隊建造を支持している。 堅実な性格で部下の失態を口汚く罵る事は無かったと言う。 ニュルンベルク継続裁判で無罪になった彼だが、これは戦前にアドルフ・ヒトラーに隔意を抱き、ヒトラーを非難する主旨の発言などをした事から、反逆罪で軍法会議に呼び出され死刑判決を受けた事が、連合国から好印象を与えた為と思われる。ワルキューレ作戦に関わっていたとも言われているが、ヒトラー暗殺計画で捕まった海軍軍人はヴィルヘルム・カナリスのみだった。
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日本のシャンソン界の大御所中の大御所であり、宝塚歌劇団最長老OG、日本最高齢歌手のひとりであった。 宝塚やカルチャースクールで教えた生徒の数はゆうに一万人を超えるといわれている。 シャンソン教室には、後の月組トップスター古城都も通っていた。(古城談) 1960年、当時立教大学の学生だったなかにし礼の才能を見抜き、シャンソンの訳詞を依頼。なかにしの作詞家生活の第一歩を作った。なかにし自身は深緑からたくさんのことを教わったことを語っている。その当時を回想し、なかにしは「あの頃が無かったら作詞家としての自分は無い」「あの時は沢山アルバイト代を頂いて…一番裕福な時期でした」と語っている。深緑が亡くなるまで親交は続き、葬儀では弔辞も述べた。
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連歌に優れ、作品が『新撰菟玖波集』に収められている。三条西実隆の日記『実隆公記』によれば『古今和歌集』『愚問賢注』の写本の奥書染筆を請うたり、十首歌を詠ずるなど文武両道の武将であった。故実にも通じ、『家中竹馬記』の作者であり、『土岐家聞書』の作者であるとも。
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将軍の言葉を意のままに伝えることができたにもかかわらず、決して奢ることや幕政に口を挟むようなこともなかったという。遠縁で同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。 当時の忠光を知る逸話として、当時オランダ商館長をしていたイサーク・ティチングが、忠光のことを著書『将軍列伝』の中で次のように書いている。 「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗の御側御用取次であった加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。『大方は出雲のほかにかみはなし』その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」 — イサーク・ティチング『将軍列伝』 幕府の要人に対しても忌憚なき庶民の生の声が知ることの出来る川柳では「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と世間で謳われた松平定信のように幕政などへの批判が少なくないが、この句から忠光が民衆に好意を持たれていたことが非常に良くわかる。また、この句の作者の忠光に対しての尊敬と感謝の思いは読み手にも伝わってくる。 家重が春日園へ遊びに行った際、忠光は所用で側にいなかった。このため家臣は家重が何を言っているのか聞き分けることができず、急使を出して忠光に伝えた。人を介してのことにもかかわらず、忠光は家重の言葉を解し、「御上(家重)は寒いから上着が欲しいのだ」と答えた。それを聞いた家臣が忠光の言う通り上着を家重に差し出すと、家重は喜んだという(『続三王外記』)。 宝暦6年(1756年)に岩槻藩主となった忠光は、その4年後に死去した。しかしその4年間にオランダから伝わった木綿種を領内で試植したり、砂糖種の蒔付けや栗や梅の植樹を奨励し、産業発展に尽くした。また、家中や領内で70歳以上の老人がいれば、全てに金を与えて人心を収攬した。さらに忠光は家臣の内海平十郎に対して「民を治める道は重要で、精一杯取り計らい、百姓が難儀しないように治めよ」と下命したという(『得祥院様御行状誌』)。
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人物・逸話
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「ケチ大名」と言われた。どの大名でもよほどの理由がない限り、古くなった自らの衣服を家臣などに下げ与えるのが当たり前であったが、親義は家臣に下げ与えることを決してせず、飯田の土蔵には古着屋と思われるほどの親義の古着があったという。 嘉永元年(1848年)に父・親寚が死去する寸前、親寚は愛妾の春との間に生まれた子に対して鎧と太刀を遺品として与えた。しかし父が死去すると、親義はその遺品を強引に奪い取る暴挙を行ない、春は親義を恨みながら自殺したという。 表 話 編 歴 堀氏信濃飯田藩11代藩主 (1846年 - 1868年)小笠原家小笠原秀政1601-1613 信濃松本藩に転封 1613年から1617年まで幕府領 脇坂家脇坂安元1617-1654 脇坂安政1654-1672 播磨龍野藩に転封 堀家堀親昌1672-1673 堀親貞1673-1685 堀親常1686-1697 堀親賢1697-1715 堀親庸1715-1728 堀親蔵1728-1746 堀親長1746-1779 堀親忠1779-1784 堀親民1784-1796 堀親寚1796-1846 堀親義1846-1868 堀親広1868-1871 廃藩置県
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人物・逸話
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370年12月、王猛は諸将や属官とともに宴を開いた。王猛は「人心は同じではない。梁琛は長安で前燕を美化し、楽嵩は桓温の強盛ぶりを述べ、郝晷は前燕の疲弊ぶりを説くほどだ」と述べた。参軍馮誕が「その三人は今、我が国の臣でありますが、誰の意見を先に取られますか?」と問うた。王猛は「郝晷は僅かな兆候を知ることができるので、彼を先に取るだろう」と答えた。馮誕は「明公 (王猛) は丁公を賞して季布を誅するのですな」と述べた。王猛は大笑した。
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マクリーズィーはアジーズを以下のように評している。「アル=アジーズはカイロにおいてかなり苦しい状況にあり、財源も不足していた。しかしながら彼はその民衆に対する公正なふるまいと寛大さ、それに親しみやすさから彼らに愛されていたのである」イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーによれば、アジーズはサラーフッディーンが最も贔屓にした息子であり、1179年にアジーズと兄弟たち、および従兄弟たち(叔父アーディルの息子たち)の割礼が行われた際は、7000頭の羊が屠られ、大量の菓子が振る舞われた。
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永禄2年(1559年)に信長が初めて上洛した際に長近は80名の随行者の1人であった。この時、斎藤義龍からの指示で信長を暗殺しようと美濃衆の刺客らが後をつけてきたが、丹羽兵蔵という尾張からの使者が道中これを看破し、蜂屋頼隆と長近に通報した。美濃衆の刺客達と面識があった長近は挨拶と称して彼等の宿所を訪れ、事が露見している旨を宣告したという。 長近は蹴鞠や茶の湯の才にも秀でており、秀吉が伏見在城の時は伏見城下の自宅に書院と茶亭を造りしばしば秀吉を招いた。 茶の湯の宗匠千利休の弟子として茶会に招かれたり、宗匠古田織部とも親交があった。家康・秀忠父子からは「気相の人」と言われ信任されていた。慶長10年(1605年)には家康父子が長近の伏見邸を訪れ風流を楽しんでいる。 秀吉が千利休の切腹を命じた時、嫡男である千道安を飛騨高山に隠棲させ、匿ったとされる。その時に、照蓮寺明了や金森重近(後の金森宗和)が、千道安から茶の手ほどきを受けたという。 晩年、秀吉が、有馬温泉にて湯治を行なった際、12(13)歳上の長近が秀吉を背負って入湯したことが『有馬温泉記』に見られる。 関ヶ原の戦いの後、徳川家康と岐阜城天守閣に登った長近は、家康から戦功を賞賛され、信長以来の思い出話をしている。この時、論功行賞を固辞した長近に、家康が与えたのが、美濃の上有知藩1万8000石と河内国金田(かなた=堺市金岡町)3000石であった。長近亡き後、息子の金森長光が没した時に上有知藩は領地没収。金田は、妻の久昌院が寛永2年(1625年)に亡くなるまで、彼女の知行地として残された。
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明治4年(1871年)10月に開かれた第1回京都博覧会に際し、春季の博覧会の余興として槇村が祇園の芸妓・舞妓の舞を公開させたのが都をどりの始まりとされている。 明治5年(1872年)、「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆の諸行事を禁止した(槇村離任後の明治16年(1883年)に解除)。 明治9年(1876年)、府令をもって「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」とし、剣術を禁止した。
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『伊達世臣家譜』によれば、朝鮮出兵の際、進軍の途上で馬に乗って逃げる十二・三歳の娘を発見した重長は、これを生け捕りにした。娘は愛姫の侍女となり、慶長元年(1596年)に愛姫の勧めで妻を亡くしていた重長の後妻になったという。 宮城郡手樽を統括していたころ、東北本線松島駅後方の高台に、休憩所を兼ねた念仏庵を造った。その後、利府の円城寺より僧侶を招聘して帰命院を創設した。創設当時、高城の町並みは海だったこともあり、松島の絶景を望める名刹として訪れる者が絶えなかったという。
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つかこうへいとは幼馴染みでで、小学・中学・高校とも同窓であり、学年は若狭が上だった。 元NHK会長の籾井勝人とは、高校・大学の同級生で学寮でも同室だった。 経済産業省の職員で赴いていたドイツフランクフルトにて、研修・修学していた。 友人の一人にドイツ人のフリッツ氏がおり、通産省時代にフランクフルトに滞在した時以来の友人であり、歳は一歳下であるが、学歳は遥に先輩であるという。 ドイツ在住期に日本に残した妻が23歳の若さで亡くなる。研修・修学を終え帰国する。 岐阜県在住と教師になったのは深い理由があり、「・・・、大寺の雲水の一員になっていた。」との記載がある。 関市長の亀山一二によると、正眼寺におかしな坊主いると聞き訪ねてみる。近縁者を亡くした悲しみから通産省の職を放棄して帰国し、寺の雲水として暮らしている若狭和朋に対して、亀山は「悲しい気持ちはわかるけども、どうだ、心機一転、高校の先生にならんか。」と諭し、立ち直りの切っ掛けを与えた。 岐阜県下の公立高校社会科教師として、38年間教鞭を執った。県立加茂農林高校など職業高校の教師の辞令を受けた。 教師時代では、高校野球の監督・部長を務めた。有力校ではない各高校の野球指導を行った。16年間に夏の公式戦では1勝しかしたことがない弱いチームを勝つチームへ変革させる。 生徒指導部の部長を15年間務め続けた。生徒たちを善導することは大変な苦労が要ったことだが、15年間は岐阜県下では、めずらしい記録だという。
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人物・逸話
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三河三奉行と称される際に、清長は温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、康景は寛厚にして思慮深いとそれぞれ評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている。 豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた。
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人物・逸話
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左右どちらからでも騎射ができ、武芸は人に過ぐると称された。 後燕との戦いに勝利した後、祝勝の宴が催された。拓跋珪は酒を置いて「卿は我の黥布・彭越である」と称え、金帛を下賜した。 拓跋珪は白登山において、熊が数頭の子を引き連れているのを見た。拓跋珪は振り返って、あの熊らを素手で倒せるかと于栗磾に尋ねた。于栗磾は「天地において、人は最も貴いものです。もしも素手で挑んで勝てねば、壮士を無駄に失うだけではありません。御前まで追い立ててもらえれば、坐したまま、これを制してみせましょう」と答えた。于栗磾は熊らを尽く捕え、これを見た拓跋珪は謝った。 黒矟を好んで用い、于栗磾のトレードマーク的な存在となっていた。劉裕は于栗磾を見て、これを興味深く思い、彼への書面の題名を『黒矟公麾下』とした。宋書において、于栗磾は『黒矟公』と記されている。 若年から晩年に至るまで軍事に携わり、事に臨んでは善く決断し、向かうところ敵無しであった。目下の者にも謙虚に接し、刑罰をみだりに加えることはなかった。拓跋燾は于栗磾の死を悼み、たいへんに惜しんだ。 後年、唐の詩人の杜牧の作品『東兵長句十韻』において、黒矟将軍の名で登場している。
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晴宗が正室の久保姫を娶った経緯については、当初久保姫は父・岩城重隆の意向で結城晴綱に嫁ぐことになっていたが、久保姫の美貌を知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢を率いて輿入れの行列を襲撃して久保姫を連れ去り、強引に正室にしたとされている。晴宗と久保姫の夫婦仲は良く、長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され、天文の乱に際して援助を受けている。久保姫は晴宗没後に出家し、宝積寺を建立して亡き夫を供養した。その後は、孫の政宗を頼って宮城郡根白石に移住し、同地で文禄3年(1594年)に74歳で没した。 黒嶋敏は、稙宗は6人の側室を持って対外進出に積極的で奥州の諸家との婚姻や養子縁組に積極的であったのに対し、晴宗の側室の存在は確認できず有力な一族や家臣との婚姻を進めて家中の統制に留意しているところから、天文の乱に至る背景として稙宗と晴宗の性格の違いにもあったのではないか、と推測する。同時に黒嶋は晴宗の子女の縁組でも蘆名氏や佐竹氏との婚姻や留守氏・国分氏・石川氏への養子縁組も輝宗期の成立で、稙宗と輝宗の政策の共通性を指摘して、稙宗と輝宗の外交政策における思考の近さと晴宗との違いを指摘している。 江戸時代、伊達騒動を経て元禄期に入った仙台藩では藩史編纂が盛んとなり、『伊達正統世次考』・『伊達治家記録』などが編纂された。その中で天文の乱で父と争い、子と争って元亀の変の一因を作った晴宗は「暗君」、それを支えた中野宗時・桑折景長は「姦臣」扱いされるようになる。その背景として、藩祖・伊達政宗の父である輝宗が顕彰の対象になったのに対してその輝宗とも争った晴宗が否定的にみられたこと、2度にわたる御家騒動のきっかけを作った晴宗が同様に大規模な御家騒動に発展した伊達騒動を引き起こした伊達綱宗(政宗の孫)と同じように否定的に扱われたことにあった。更に「姦臣」とされた中野宗時と桑折景長の子孫が元禄の仙台藩にはいなかった(桑折氏の宗家は宇和島藩に仕え、仙台藩に残った分家は景長の曾孫にあたる原田宗輔が伊達騒動における逆臣とされた影響で断絶に追い込まれていた)ことなどが挙げられる。中野宗時と桑折景長が「姦臣」と位置づけられた結果、天文の乱は晴宗が彼らに唆されたとされ、元亀の変も中野の専横の結果とする説明が可能となり、仙台藩(伊達氏)の歴史観として確立されることになる。
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「ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「人物・逸話」の解説
社交的な性格であり、食通、評論家としても知られた。愛馬ハーミットの種馬収入(年間15,000ポンド)に助けられていたが、収入を超える浪費を続けた挙句、不動産・邸宅を手放すこととなった。 自分と同じく太っていた自由党の政治家とどちらがよりダイエットできるかを競い、18ストーン(114.3kg)から16ストーン(101.6kg)の減量に成功した。
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人物・逸話
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現存している文書によると、隆元は温厚で篤実な性格の持ち主で、絵画や仏典書写などを愛する教養豊かな人物であったとされている。その一方で、父の元就のように超然とした態度が取れない自分を卑下したり、有能な弟達に対して劣等感を抱き、苦悩していた形跡が数多く見つかっている。 隆元は教養豊かで穏和な仁将として名高かったが、その反面、武将としての気概や機転に欠ける部分があり、文芸遊興に費やす時間が長かったことから、それを心配した元就や広良から再三にわたって訓戒されることとなった。また、元就からは書状で、「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と度々叱責されている。 元就の隠居表明には狼狽し、「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸(輝元)に家督を譲って隠居する」(『毛利家文書』、第660号「弘治3年8月15日 毛利隆元自筆書状」)と自棄的に嘆いたことがある。また平素から書状の中などで「自分は生来、無才覚無器量である」(『毛利家文書』、第761号「天文23年3月12日 毛利隆元自筆書状」)と自嘲的に記している場面が多いなど、極めて自己卑下の強い人物であったことが窺える。元就は書簡の中で隆元を「優柔不断で武将としての資質に欠けている」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」)と評しており、隆元への実権移譲が行われなかった理由は、彼自身の性格面の問題故とされる。元就の手紙の中ではその他の点として、正直すぎることや、親孝行や信心には優れるが、武略・計略・調略などの面ではさらに努力が必要である旨が指摘されている。 偉大過ぎる父の元就の存在は、隆元の人格形成に最も大きな影響をもたらした。隆元もそれを自覚していた節があり、書状の中で「名将の下には不遇な子が生まれる」(『毛利家文書』、第762号「毛利隆元自筆書状」)と自嘲気味に記している。また同時に、父の偉業を自分が失墜させてしまうことを病的なまでに恐れており、隆元が厳島神社に寄せた願文には「ただただ父上の武運長久、無病息災を願う。そのためには自分の身命をも捧げてもよい」と記されている。 内政・財務能力に長けていたと言われる(彼の死後、毛利家の収入が2,000貫≒4,000石ほど減少した)。また政治面でも、元就直属の重臣たちと隆元直属の官吏たちとの間で意見対立が生じたことなどから、自分独自の派閥を組織できるだけの能力を持っていた。隆元の死後、彼がいかに縁の下の力持ちとして毛利家のために尽力していたかを知った元春と隆景は敬服し、自家を優先しがちだった彼らも隆元死後はより一層毛利家のために尽くすようになった。 三本の矢の逸話の影響もあって、現在では良好だったと伝わる三兄弟(隆元・元春・隆景)の仲だが、実際は所領分割や三家それぞれの運営、さらには三兄弟の性格の相違など、様々な問題を抱えており、決して良好ではなかった。事実、隆元は父の元就に向けて「近頃、元春と隆景の両弟は吉田郡山に来ても長期滞在せず、それぞれの家のことばかりに固執し、相談事があっても私ではなく父上を相手にする。これは二人が私を見下して除け者にしているようで、非常に腹が立つ」といった意味合いの書状を送っている。この書状によって、元就は三兄弟の不仲ぶりを痛感し、『三子教訓状』の発行と毛利両川体制の構築を思い立ったとされる。 隆元は正室の尾崎局を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。戦場から妻にあてて「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。なおこの時、尾崎局の父・内藤興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例の重宝「縹糸胸紅白威胴丸」(毛利博物館蔵)を贈られており、娘婿である隆元に対する興盛の期待のほどが窺える。 大内義隆が陶隆房に討たれた大寧寺の変を受けて、義隆を討った晴賢を「虎狼之心」と罵り、「いずれ陶軍は必ず毛利にも攻めてくる。受身になるより力のある時に戦うべきである(賢ヨリ仕カケラレ候テ、請太刀ニテ取相候ハンヨリ、只今此方力ノ候時破リ度候)」と語り、陶との交戦を強く主張した。 防長経略後は自らが大内氏の栄光を受け継ごうともしていたようで、大内氏旧領を統治するだけでなく、同家が勘合貿易で用いていた勘合札(割符)を山口で入手し、大陸との交易を再開させるために、隆元が主導で商業取引を進めていたことが明らかになっている 実戦指揮官としての功績で有名なものは豊前松山城近郊における豊後大友氏との交戦がある。この時、父の元就・弟の元春らは尼子氏と交戦中であり、この方面は内政・軍事両面とも隆元が担当していた。松山城の戦いで大友軍が隆元指揮の毛利軍に撃退されたことにより、戦線は膠着、後の毛利・大友間の講和に繋がる。他に有名なものとして、防長経略の際の須々万沼城攻略戦がある。この時は元就から城攻めを任されるが、大友に多大な損害を出して敗退した。須々万沼城は弟・隆景も攻略に失敗した堅城であり、最終的に元就が自ら兵を指揮して攻略した。また、他には天文21年(1552年)に安芸国西条の槌山城を攻め落としている。 年不詳ではあるが、天文17年(1548年)から永禄2年(1559年)の間に秋月種実と兄弟の契約を結んでいる(『毛利家文書』、第310号「年不詳6月8日付毛利隆元自筆書状案」)。
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朝倉宗滴による評価 越前朝倉氏の名将、朝倉宗滴は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿(武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂)…此等の事」と書いており、政務・家臣掌握術において今川義元や武田信玄らと共に高く評している。 天下を競望せず 尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた(とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという。 三本の矢 死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『三子教訓状』に由来する創作とされる。 「三子教訓状」も参照 家臣・周辺国人への気遣い 「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』) 後世に遺された数多くの手紙 元就は筆まめな人物であり、数多くの自筆の手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。このような手紙について元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨の釈明をしているが、実際には誤字脱字は多くなく、手紙の意図が伝わるように読み手を意識した文章になっていることから、複数回の下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている。 酒でのウサ晴らしを戒め、下戸で通す 元就は嫡男の隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒の心得を説いている。孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである。
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人物・逸話
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長らく「よしみつ」「よしてる」等が名前の読みとしていたが、彼が実妹・保春院に宛てた書状において自らの名を平仮名で「よしあき」と書いていたことから少なくとも郷土において、これが正しい呼び名であることが判明した。 早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正2年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。 白鳥長久の娘(日吉姫)を嫡男義康の妻に迎える為として、蔵増(天童市)から谷地(河北町)へ至る「向去り(むかさり)道」を蔵増親景(大膳亮)に命じて造らせる一方、その縁談が破談となり白鳥長久を山形城へ誘い出し暗殺すると、向去り道を一気に攻め上り谷地城を落城させた。 伊達輝宗に嫁いだ実妹・保春院とは殊更関係深く、後世に残る文通は多数あり、特に大崎合戦、慶長出羽合戦においては保春院が実家である最上家を慮って伊達家との仲を取り持つように動いた書状が複数存在する。対して、その甥である伊達政宗とは一回り下の世代にあたる人物でありながら因縁は深く、縁戚としての文通も少なくないながら敵対者として挑発的なやり取りも複数見られ、惣無事令の後も特に政宗が第三者に義光を評する時などは皮肉めいた物言いの書状が多い。 晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず、自筆で書状を記していた。 義光には当時描かれた肖像画は伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。
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人物・逸話
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映画では「根っからの変人」と思わせる自然体の演技で人気を博すが、その芸は日々の勉強に裏打ちされたものであり、「私の芸はぶっ倒れそうになりながら絞り出たものであり、自分自身、芸の世界に入ってからというもの毎日が死以上の苦しみであった」と後に回想していた。 実生活においても、芸能界で一・二を争うほどの変人として知られ、薬草を摘んでは楽屋で干していて、「五種の野草を煎じた不老長寿の霊薬」が入っているという水筒を首から提げ、いつも撮影所に持ち込んで飲んでいた。 「脚が悪いから」と言って撮影所内では松葉杖をついて歩いていたが、土屋嘉男によると、バスに乗り遅れまいと二人で走った時には松葉杖を小脇に抱え、土屋を追い越してしまい土屋は追いつけなかったという。 撮影所にはいつも妻の糸が同伴していた。糸は新興宗教の教祖でもあり、信者は左だけだった。よく撮影の合間には手を合わせてお祈りをし、すべてのギャラは教祖である妻に供えていたが、土屋によるとときどき欠伸をしていたという。 なお、撮影所では常によれよれのモンペ姿で、同僚とも離れて過ごし、周囲も干渉しなかったので忘れられることが多かったが、土屋にだけはよく話しかけてきたという。土屋はちょうど郷里の土蔵をとり壊す予定だったが、これを聞いた卜全から「住まいにするから土蔵を売ってくれ」と懇願されたという。 自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械を据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分で操作して一運動していた。それからゆっくりとお祈りし、水筒を提げて出かけるため撮影が中止になったこともあった。 役者になる前は浅草オペラでオペラ歌手を務めていた。「ムーランルージュ」時代、「薔薇座」を主宰していた千秋実に呼ばれて舞台に出たが、段取りを無視してシリアスな芝居をぶち壊し、以来卜全は千秋から恨みを買っていた。 服装も基本的に着たきりで滅多に服を新調しなかったため、いつも身なりがボロボロで浮浪者のようであった。また、突拍子も無い服装で出歩く事も多かったと言い、ムーランでの同僚だった明日待子は晴れた日に長靴を履き、雨合羽を着た上に雨傘を持って劇場や撮影所に出勤してきた卜全を見て驚き、理由を聴いたところ「夢で神様からお告げがあったから」と答えた事に唖然としたと語っている。 このような奇行や飄々とした個性的な性格から芸能界随一の変人として有名だったが、私生活でも独自の生活スタイルを貫いた変わり者であったと言い、芸能界に何十年も在籍していながらプライベートでの芸能人の友人は一人もいなかったと言う。また、41歳の時に患った突発性脱疽が原因で脚が不自由になり身体障害者手帳を持っていたが、卜全は障害者手帳を持って外出する事はほとんど無く、さらに性格や普段からの奇行が原因で世間から「身体障害者を装っている」と思われる事も多かったと言う。激痛に耐えながら仕事をする夫の事を何も知らず、世間が勝手に「左卜全は身体障害者の振りをしている」と噂している事に深く傷ついて怒りを抑えられなかった糸に対して卜全は全く動じず、逆に「何を怒っているんだ?逆だよ。そう言う噂があるからオレが助かっているんだよ。役者に病気があるなんて知られて同情なんかされたらそれこそ致命的だ」と糸に笑いながら話したと言う。 結婚のきっかけは、舞台に立っていた左のひどく汚い姿と、ふと見せた汚れなき笑顔に、糸が気高く高貴なものを感じたからだったが、卜全と糸との夫婦仲は大変良好で、卜全が外出する時は必ず妻が付き添っていた。卜全は自身の誕生日に夫婦で銀座に出かけるのが恒例で、毎年とても楽しみにしていたと言う。撮影の際も必ず妻が付き添っており、特に黒澤監督の映画の撮影では卜全が重用されて『七人の侍』で何度も全力疾走したり、『生きる』で何十回もNGを出して録り直しをしたため、糸が左脚をマッサージしたり応急処置をするなど卜全を献身的にサポートしていたと言う。卜全も糸の事を大切に思っており、外出時は何かトラブルがあった時に糸を守れるよう、常に小刀などの護身用の武器を懐に入れていたと言われている。糸は卜全逝去後の1977年、評伝『奇人でけっこう 夫・左卜全』(文化出版局、装画・題字は森繫久彌)を著している。 夫婦の墓所は卜全の出生地に近い埼玉県所沢市堀之内の比良の丘、金仙寺近くにある三ヶ島墓苑にある。 生前は東京都世田谷区若林に在住していた。自宅は卜全が亡くなった後も糸が1996年に亡くなるまで暮らしていたため存在していたが、糸が亡くなり老朽化も重なったため取り壊されて現存しない。ただし、その際に自宅にあった門は墓所の三ヶ島墓苑に移設され、跡地には「左卜全を偲ぶ会」の手により「常道の芸では 先がしれてる されば 逆 遠き苦難の みちを求めん」と記された碑と解説板が立てられている。
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人物・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 15:39 UTC 版)
凡庸・無能な武将として見られることがあるが、秀次の主たる失敗はわずか16歳の時の小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においては山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。これらが群臣に支えられた結果だとしても、同様の境遇になった2代将軍の徳川秀忠の将軍職就任以前と比しても遜色はない。凡庸はともかくとして、少なくとも無能を示す史料的論拠は皆無である。秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させており、近江八幡では未だに尊敬されていることを考慮すると、相応の力量はあり、文武両道の人物であったようである。 古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、奥州に赴いた秀次は中尊寺の大蔵経を接収してこれを持ち帰った。このほかにも足利学校や金沢文庫所収の書籍を持ち帰っている。また、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』『類聚三代格』『実了記』『百練抄』などを朝廷に献じている。 秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。天正16年以前に『源氏物語』を書写させて所持していた。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記が現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったといわれている。ただし藤原惺窩の父・細川為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性が否定できない。 養父の三好康長は茶人として有名で、連歌にも秀でていた。秀次は養子に入ってからこれらを習い、茶道や連歌を嗜む教養人であった。15歳の頃から著名な歌人の集まる連歌会に名を連ね、亭主も務めたことがあった。上記の古典収集や文芸に秀でていたという公家の日記や、その他の史料の上からも文化的素養を持つ人物として秀次像を十分に再評価できるため、太田牛一の著書以後に広まった極端に粗暴な人物というイメージは間違いであると小和田哲男などは反論している。この反論の中では太田牛一以前には暴虐な振る舞いを示すような史料がなく、著書の影響で世間の秀次に対する見方が変わったことが強調される。 一般に秀次は千利休の弟子だったといわれており、神屋宗湛・津田宗及・利休らと茶会を同席していた。また秀吉より(利休流)台子点前の秘伝を受けた台子七人衆の1人に秀次も数えられている。 秀吉をまねて秀次も能楽を自ら演じるようになったが、彼は公家・禅僧らに命じて最初の謡曲の注釈書である『謡抄』を編纂させ、後世の文芸に大きな影響を与えた。 秀次事件のとき、秀吉古参の家臣である前野長康、さらには木村重茲、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、『五宗記』によれば、石田三成も秀次を弁護している。また、家臣・小姓からは殉死者も多く出しており、別に徳のない人物ではなく、家来から見放されたようなことはなかった。 キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス『日本史』など)。また、秀次にはキリシタンではなかったかという説がある。 秀吉と同じく男色を嫌っていた。 武術については、師匠である疋田景兼より剣術と槍術を学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術を学んだといい、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。刀剣の鑑定を行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術を学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、サントリー美術館に所蔵されている。 大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱を授けている。偏諱を受けたと思しき武将には田中吉次、織田長次、増田盛次らがいるが、秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。これは「秀」の字が、秀吉の偏諱によるものであるため、それを憚ったものと思われる。 秀次は「一胴七度」という村正を所有していた。『今村押形』の第2巻13丁裏は「前関白秀次公ヨリ武藤長門守拜領之」と金象嵌銘のある村正作の打刀の押形を載せている。『甫庵太閤記』にも、秀吉の遺物として堀内阿波守、赤松上総守、加賀井弥八郎の3名に村正が与えられるなど、複数の村正作の刀剣が登場する。試し斬りについて、小林千草の仮説では、秀次は秀吉の多数所持していた名刀の鑑定を任されており、名刀鑑定体制の中で試し斬りを行っていたのではないか、といわれている。
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唇が厚いことから、兄弟子の舛田山に「Qちゃん」とあだ名された。その舛田山とは春日野部屋継承の際に不仲となってしまっている。 武蔵丸とは相性が悪く、23回対戦して一度も勝てなかった。また、千代の富士にも、やはり一度も勝てなかった(14戦全敗)。だが、曙や若貴といった、後の横綱からは比較的多くの星を挙げている(曙には7勝12敗、貴乃花には9勝22敗)。 四股名をつける際に師匠(栃錦)は自分の四股名と出身地和歌山から「栃和歌」を考えたがこれでは「栃若時代」と同じ音でまずいのではないかと悩んでいた。それを知って助けたのは当時、事業部長として理事長であった栃錦の補佐役でもあった他ならぬ若乃花(当時の二子山親方)で「だったらワシの四股名から乃をやるよ」という助言で栃乃和歌となった。 現役力士の喫煙者が珍しくなかった当時としても角界随一の愛煙家であったが36歳まで幕内を維持し続けた。本人は「喫煙と相撲の成績は関係ない。」と考えていたそうであり、稽古で鍛えた体は喫煙の弊害をまるで感じさせなかった。 締め込みの色は若い時分には青色、1990年5月から一時的に銀鼠の締め込みもつけたが、力士人生中盤からは一貫して紫色の締め込みをつけた。
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幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、正弘の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。 『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の正弘が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。 若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。 外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎『日本の歴史16 開国と攘夷』、中公文庫)。 西洋の学問に理解を示し、勝海舟の紹介で正弘の邸宅に呼ばれた杉純道が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。正弘は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でも買ってやろうと約束した。 正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。 正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間、正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。
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『甲陽軍鑑』では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。また北条氏康と何度も戦い一度も勝てなかったが、これは北条を軽輩と見下して、配下に任せて自身は出陣しなかったためだと批判されている。 天文11年(1542年)に常陸国鹿島神宮に納めた願文には北条氏討滅を誓う文言が記されている。 天文20年(1551年)3月には氏康の上野侵攻に遭い平井城が落ち、憲政は関東を放棄し領国から常陸の佐竹氏の許に向い佐竹義昭に関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたが、これを拒否されたという(『佐竹氏物語』)。しかしこれは佐竹氏側の所伝しか見えず、また平井落城年が研究結果による年代と矛盾している。なお類似の話として、上杉氏側の史料の研究によって、その100年近く前の関東管領である上杉憲実が佐竹義人の子・実定を養子に迎えて関東管領職と上杉氏の家名を継承させようとして家中の反対を受けたことは確認されている。
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身の丈は七尺七寸(約177cm)、手の長さは膝を過ぎるほどあったという。 王猛が慕容垂排除を苻堅に進言した理由は「慕容垂は聡明で龍や猛獣は飼いならすことはできず、いつかは自立する」と見越していたためとされる。苻堅は取り合わなかったが、淝水の戦い後に王猛の懸念は現実となり、慕容垂は前秦から自立していった。ただし慕容垂自身は苻堅に恩義を感じていたとされ、苻堅が生存している間は群臣から称帝を勧められても常に拒否したという(実際、淝水の敗戦で逃げる苻堅を自軍に収容した際も殺さなかった。また弟の慕容徳が暗殺を進言してきた時も拒否したという)。
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人物・逸話
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満祐はその背丈の低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だった可能性もある。またそのコンプレックスゆえに、足利義持・足利義教と2代に渡って将軍に反抗したのではないかとの説もある。 江戸時代に身分制度が固まった封建制の下で、満祐は「逆臣伝」(『野史』)で扱われている。また満祐こそが「真の下克上時代」を切り開いた人物という評価もある。 満祐は性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかったという。これには多くの逸話もある。 満祐は弟の中でも乱暴者で知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍の義持から切腹命令が出ても弟をかばったとされており、このため義持・義教の2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家を厚遇したという。 東寺の傍を通ったとき、壁越しに見た一本の松が特に枝振りが美しかったので使いを送ってこの松を所望した。勿論、満祐はそのための代金も出しているが、社寺で成長した松の木を私邸に移すなど当時の常識では考えられぬことで、東寺では衆議を開いて協議したが赤松家が幕府の重職にあることを考慮してやむなく松を譲ったという(『東寺文書』)。 強力な独裁者・足利義教を突如失っただけでなく、義教の遺児がいずれも幼少だったことから大混乱した幕府では当面の間、赤松討伐どころでは無くなった。かたや満祐は幕府からの討伐軍が派遣されるまで2ヶ月もの間、播磨など領有3カ国を保持し時間的余裕があったにも関わらず、上洛して倒幕しようとすらしなかった。これは義教の没後には、生前に家督問題で介入されていた諸大名家で再び内紛が起こり、こちらが擁立した足利直冬の孫の御教書に応じて幕府に謀反する大名が多いと満祐が過信していたためという。しかも、その目算を確実にするような諸大名家への積極的な工作すら行わず、書写山の東坂本にあった定願寺で日夜酒宴や猿楽芸能を尽くして遊び呆けていたという(『赤松盛衰記』)。おかげで幕府軍に追討の準備を整える機会を与えただけでなく、惣領家と庶流家で分裂し赤松の一門すら結束させられなかった。そのため幕府軍と衝突して半月で勝負がついたのも、悪評高い将軍を殺害したのだから自分に同情して味方してくれる者もいると満祐が安易に考えていたためという。
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人物・逸話
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若い頃から、才覚の高さで名を知られていた。 桓氏は長年荊州刺史の地位にあり、桓石民は才望を兼ね備えていたため、荊州の人々は彼を仰ぐように尊崇した。
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人物・逸話
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13代藩主・伊達慶邦の随筆『やくたい草』によれば、仙台七夕もかつては他所と同じく7月7日に行われていたが、忠山公(伊達宗村)の代に「御さは(障)り」があってからこれを一日繰り上げて6日に行なうようになったという。宗村の末娘・珋姫が宝暦12年(1762年)7月7日に亡くなっており(享年8)、「御さはり」とはこのことを指すと見られるが、この年は既に重村の治世であり、重村が妹の死を悼んでこのように日取りを改めたものと思われる。 穀田屋十三郎を題材にした2016年の映画「殿、利息でござる!」では、仙台出身のフィギュアスケート選手、羽生結弦が重村を演じた。
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人物・逸話
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自分の弟子以外の芸人に「師匠」と呼ばれることを非常に嫌い、呼ばれると「師匠言うな、馬鹿野郎!」などと激怒する。そのため「チャーリー」、「チャーリーさん」と呼ばれている。間寛平からは、「浜兄さん」と呼ばれている。 祇園花月の楽屋の片隅に自分のスペースを持っており、そこからドアまでの動線に荷物を置くと室伏広治ばりの大声を張り上げて天井にぶち当たるぐらい投げる。また、楽屋の出入口に大量に並べられている靴で足の踏み場がないときは、靴を蹴散らすとのこと。 祇園花月の空き時間は皆出払ってしまうため楽屋に一人でいることが多い。 京都の有名な老舗パン屋「志津屋」で、カルネというフランスパンの間にハムとスライスオニオンを挟んだパンを幾つか買って、それを新喜劇の後輩達に与えているがなぜか一部の漫才芸人(ブラックマヨネーズ、千鳥大悟、ダイアンなど)には与えない。すっちー曰く、「自分が本物と認めた芸人しかもらえない」。また、千鳥ノブはカルネを「おい、そこのほら、漫才」と言って渡され、大悟は「お前にはやらん!」と言われもらうことができなかった。しかし、これはボケであり声のボリュームがボケに聞こえないだけであるという。 兄がいる。兄が若手座員の瀧見信行に似ているという。 競馬が趣味である。シャンプーハットてつじが競馬の予想を当てないことを怒っている。 清水けんじによると、楽屋でパンツ姿になりながら「ワシ今日ズボン穿いてきたんかな」と言いながらとうろついていたことがある。
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「中村勘三郎 (17代目)」の記事における「人物・逸話」の解説
母方の祖父が江戸歌舞伎の祖とされる中村勘三郎を好んでおり、祖父は聖司少年(十七代目)に「お前は中村勘三郎を継ぎなさい」と言っていたという。 息子の哲明(のちの五代目勘九郎→十八代目勘三郎)は、十七代目を「怖い親父だった」と述懐している。たとえば少年時代、39度の高熱で倒れて家で寝ていたが、その状態で舞台を密かに見に行ったことを知った父が激怒し、寝ているところに氷水をぶっかけられたうえ、家からつまみ出されたことがあるという。 二人の孫の雅行(のちの二代目勘太郎→六代目勘九郎)と隆行(のちの二代目七之助)の初舞台『門出二人桃太郎』では、二人の母方の祖父七代中村芝翫とともに爺と婆を演じたが(なお庄屋の夫婦は十三代片岡仁左衛門、中村歌右衛門、犬、雉、猿は松本幸四郎(のちの二代目白鸚)、娘婿の澤村藤十郎、中村福助(のちの梅玉)、巫女は義兄の尾上梅幸であった)、息子と孫2人と祖父2人との5人の口上の席上「孫たちは私をじじんちゃまと呼びますが、成駒屋さん(=芝翫)のことをパパと呼びます。それが気に入りません。わたしとあんた爺同士なのに」と発言し客席を笑わせた。 息子の哲明がまだ五代目勘九郎を襲名したての幼少期に父である十七代目と藤山寛美の舞台を見たが、そのとき十七代目は「よく見ておけ、この男は必ず舞台で天下を取るぞ」と言い、その実力を見抜いていたという。当時の寛美は人気スターではあったものの、二代目渋谷天外の陰にあって後年の喜劇王的な位置にはまだ達していなかった。この縁で勘三郎一家と寛美一家の親交が現在も続いている。 妻の久枝と帝国ホテルのレストランに入ったときのこと、久枝は前菜に鴨、スープはタートル(海亀)を選んだが、十七代目は「タートルって、セーターみたいだね。亀のこと?おまえさん亀食べるの?やだね」と言って、メインディッシュを決める段階で久枝は「熊?兎?鳩?あら雉もいいわ」と言い出したため、十七代目は「何だい、鴨だ亀だ兎だ熊だ、って、お前さんがそんなに悪食だとは知らなかったよ、ぼくは帰る!!」と激怒して、久枝を残したまま何も食べずに帰ってしまったという。 東京・神楽坂の和菓子店・福屋の堅焼きせんべいが大好物で、自分用に「もっと焦がして焼いて」と店側に注文していたほどであった。福屋がその十七代目仕様の焦げ堅焼きせんべいを店頭に置いたところ、購入を希望する客が現れたことから福屋ではこのせんべいを『勘三郎せんべい』として正式に商品化して販売することとなったという。 梨園きっての麻雀好きとして知られ、取材のために車で移動していた間も同行スタッフと車内で卓を囲んでいたほどであった。息子である五代目勘九郎(当時)はそんな父だからと葬儀の晩は霊前で雀卓を囲もうということになり、十七代目と親しかった森光子・片岡孝夫(当時)・十二代目市川團十郎の3人を誘った。いざ始めようとした時に十七代目の遺影が倒れて卓のそばまで落ちてきた。途端に雀卓を囲んだ4人は「(十七代目は)自分もやりたがってるんだろうね」と故人を偲ぶことしきりだったという。 大腸がんの手術をして人工肛門を使用していたが、そうした影響を微塵も感じさせない精力的な舞台を晩年まで務めあげた。 往時は歌舞伎劇場に役者が入る大風呂があったが、十七代目は持病のために入れなかったため、楽屋に風呂桶を入れさせて一人それに浸かっていた。なお、十七代目亡き現在では風呂は楽屋に備え付けとなっているものが主流となっている。 『髪結新三』にまつわる芸談の一つ:吉右衛門の兄が、『加賀鳶』で私の道玄に松蔵、『吉様参』で私の吉三に弁秀などにつきあってくれて、この次はお前が新三をおやり、おれが源七にまわってやるよ、と云っていたのが果たせなかったことが、いまもって私は新三をやるたびに思い出されます。
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人物・逸話
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匡得の号は、自ら「大江匡房の兵法を会得せり」と称したことによるという。 宮崎県日南市の四半的弓道は宗昌が国境防衛策と娯楽を兼ねて振興した物と伝わっている。 豊薩合戦の後、島津義久より300町の知行で仕官を誘われたが、自分は伊東家の家臣であるとしてこれを断ったという。また大友宗麟からも150町の知行を示されたがこれも同様の理由で断った。これを聞いた宗麟は宗昌の忠義心に感涙し、代わりに大友家秘蔵の甲冑10領から1領を選ばせ与えたと言われる。 参陣した全ての主要な合戦に勝利し、何度も不利な状況下で奮闘し伊東家衰退期、大友家客将時代にも多くの戦功を挙げているため、立花宗茂、志賀親次と並ぶ「九州屈指の猛将・智将」として宗昌の地元で人気である。
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人物・逸話
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智勇に優れ、周辺の諸大名から「鬼九郎」「夜叉九郎」と呼ばれ、恐れられた。 総大将ながら常に陣頭に立って、単騎で敵勢の中に突っ込むという荒武者であったといわれる。一方で、捕虜の兵士は斬らずに逃がしたり、部下を大切にするなど慈悲深い面もあったといわれる。 盛安が小田原征伐参陣のため上洛しにへ向かう途中、様々な逸話が残っている。羽前の港の酒田に到着したところで旅費が尽きてしまい、酒田の豪商・加賀屋与助から七両を借りたという。盛安が金谷に居た時、秀吉は既に島田におり、急いで引き返したが、途中大井川が大雨で増水し、渡れないという状況に遭う。家臣は渡るのは明日にしようというが、盛安は「関白殿下に忠義を立て遠国から駆けつけて、一夜たりとも遅参してはならぬと思った次第。増水などに負けぬ。」 と言って提灯を掲げて根性で泳いで渡った。そして体が濡れたまま対面し、「羽州角館の住人戸沢治部大輔参陣仕る」と言い、秀吉はその行動を褒めて太刀を与えたという(『戸沢家譜』)(『新庄古老覚書』)。
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人物・逸話
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1857(安政4)年9月17日、宇宿彦右衛門らと共に島津斉彬のダゲレオタイプ(銀板)写真を撮った。 廃仏毀釈に関して、著書に記録を残している。
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「佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「人物・逸話」の解説
義重は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われており、その勇猛さから「鬼義重」、「坂東太郎」の異名で恐れられたとされるが、「鬼義重」という呼称は江戸時代の軍記物や記録類にも確認することができず、『古先御戦聞書』には「天魔鬼神のような業」と記載されていることから、この部分が転じて、「鬼義重」という呼称が作られたのかもしれないと指摘されるが詳細は不明である。 就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。 甲相同盟の破綻により相模の後北条氏と対決していた甲斐国の武田信玄と文書を交わし、甲斐源氏の嫡流を巡って議論したという逸話がある。 自らの子女を蘆名氏などの諸大名に養子として送り込み、巧みに勢力を拡大している。 上杉輝虎(後の謙信)から名刀「備前三郎国宗」を送られた。後にこれを義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先を削って脇差にしてしまった。愛刀家である義重はこれを嘆いたという。 愛刀は南北朝時代に鍛えられた「八文字長義」。北条氏政軍と戦った際に、この刀で北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真っ二つになり、八文字の形になって馬から落ちたという。
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人物・逸話
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佐久間象山にも学んだという俗説があるが、文久3年(1863年)に蟄居中の象山と手紙のやり取りをしたのみで、二人が会ったことは一度しかなく、直接の師弟関係は存在しない。 門人の大垣藩士で、後に陸軍少将となった可兒春淋は、赤松塾の講義の内容に関して、大正8年(1919年)8月17日に以下のように談話している。「講義は毎日午前3時間、午後2時間、午前は専ら英国式の歩・騎兵の錬法と射撃に関するもの、午後は世界最近の戦史、窮理学、航海術のことでした。課外として時々世界の政治組織についての講義があった。(中略)先生は常に輿論政治を主張して居られた『如何に賢明なる人とても神でない限り思ひ違い、考へ違ひがある。又少数の人が事を行ふ場合、感情、誤解、憎悪が附随するから失態がある。是非これは多数政治に據らねばならぬ――。』 先生は丁度今日の議会政治を主張しました。それは未だ開国するとかせぬとかかまびすしい時でしたから驚きました。(中略)『外国の亡国の例を見るに、皆此の身分や階級の為、人材を野に棄て、貴族と称する輩が自己の無能を顧みずして専横を振舞ふたにある。(中略)多数の選挙によって選んだものを宰相とするのである。英国式を参考として日本の国柄に合はせるがよい。』常に先生はかく説かれてゐた。それがやうやく25年の後にやっと事実となって現れたのであつた」。 また、可兒春淋は、赤松が暗殺されると薩摩藩の犯行を確信し、次は自分たちも襲われると考え、「若し薩摩藩士襲来せば結束して応酬、一戦すべし」と意気込んだが、その事はなかったと述懐している。 赤松の教え子であった東郷平八郎と上村彦之丞は、日露戦争に勝利した翌年の明治39年(1906年)5月、善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席の帰途、上田に立ち寄り赤松の墓参を行った。大正13年(1924年)、赤松に従五位が追贈されると東郷平八郎は赤松顕彰碑の碑文を揮毫した。その石碑は東郷没後の昭和17年(1942年)5月になって上田城跡公園に建てられている。恩師に繰り返し弔意を示した東郷平八郎であったが、暗殺事件そのものついては生涯語らなかった。昭和8年(1933年)には長野県の教育家・岩崎長思が、赤松暗殺事件究明のための取材を東郷に申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え、取材を断っている。 なお、「右へ=準え」や「右向け=右」は彼の翻訳と言われることがあるが、安政4年(1858年)の文献には既に用いられており、彼の翻訳ではない。なお警察予備隊時代に「頭=右」が「眼=右」に変更されたことがあるが、「眼=右」を最初に用いたのは赤松である。但し警察予備隊の「眼=右」は翻訳の偶然であり、赤松の翻訳とは関係がない。
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人物・逸話
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高校生時代は理数系を得意とし、自ら化粧水の調合なども行っていた。役者の道を目指したのは、化学の発表会で緊張から失敗を犯していまい、これを克服するために歌や芝居を習い始めたのがきっかけであった。 プロ意識が高く、仕事に対する姿勢は非常に厳しかった。台本・衣装等でスタッフが手を抜いたと思ったらすぐに注意を促し、用意された衣装に納得がいかないと自前で用意する程であったという。レギュラー出演した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』では、台本に納得できずに一度は降板を申し出たこともあったとインタビュー記事で語っている。 悪役を演じるにあたっては、悪の魅力を前面に押し出すことを意識していた。後に『徹子の部屋』に出演した際に曽我はこれらの特撮系の仕事に触れ、「疲れるけど、楽しいわよ」と振り返っている。 『オバケのQ太郎』で主人公・Q太郎の声を当てることになったきっかけは、番組が企画された際に、事前告知を兼ねてQ太郎のイラストが登場する不二家のキャンペーンCMが製作され、そのアフレコを曽我が担当したためである。後に声優のオーディションも催されたが、結局、このキャンペーンCMの実績が考慮される形で曽我がアニメ版のQ太郎の声もそのまま担当する事になったという。 『オバQ音頭』のレコーディングの際、曽我は風邪をこじらせており、本来の声のコンディションではないことを理由に、日本コロムビアの製作サイドに一旦は「レコーディングの予定をずらしてほしい」と願い出たという。しかし、共演相手の石川進のスケジュールが空いていなかったほか、コロムビア社内がストライキの真っ只中であったことから、久々に現場に参加できるとあって大乗り気になっていたコロムビアの幹部たちの熱意に押されるような格好で渋々レコーディングに臨むことにしたという。結果、同レコードは累計で200万枚以上(公称)を売り上げるというアニメ番組・子供番組が出自の楽曲レコードとしては異例の大ヒットとなったのだが、曽我自身は「レコーディングをずらしてくれたら、もっと面白く歌えたはずなんだけど」とインタビューの中で話すなど、その出来映えには晩年まで満足してなかったようである。 『オバケのQ太郎』で人気が絶頂期を迎えたのを機に、「Q太郎」以外の自らの方向性を模索する目的で1970年代初頭に一時芸能活動を休業、イタリア国立美術学院への留学を経て、約3年近くにわたってイタリア・シリア・アフガニスタンなど欧州・中東を渡り歩く生活を過ごした。この時以来、地中海方面への旅行とその旅行の中で巡り合った骨董品・装飾品の収集が終生のライフワークとなり、後の「ステラ」開業に繋がったという。 『新オバケのQ太郎 』のQ太郎役は当初、初代の曽我が引き続き担当する予定であったが曽我が多忙であったこと、TBS系であった初代との差別化(『新オバQ』は日本テレビ系)などで堀絢子に決まったという。 帰国後もなかなか「Q太郎」のイメージから抜け出せず思い悩んでいたところに舞い込んできた仕事が『5年3組魔法組』の魔女ベルバラ役であった。この役を演じたことで特撮番組の魅力、女優として本来やりたかった方向性を見出すことができたという。 特撮作品の魔女役が十八番であるだけに、それに対しては格別の愛着を持ち、自分の店「ステラ」では、演じてきた各魔女役にインスピレーションを受けた香水を自ら調合し、その役にちなんだ商品名で客達に提供したりもしていた。 『TVチャンピオン』にも自分の演じた役柄に関するクイズの出題者としてゲスト出演したことがある。勝ち抜いた挑戦者のためにサイン色紙を用意する、敗退した挑戦者とも対面し言葉を交わすなど、演じた役もファンも大事にした。 40代の頃までは深夜番組『11PM』内の定例企画「芸能界酒豪番付」で三役の常連として名を連ねるほどの酒豪として知られていた(一時は新宿などの都内の繁華街でバーやスナックも経営していた)が、50代半ばになってからは老後の健康が気になり断酒を決行。以後、亡くなるまでほとんど酒類を口にすることはなかったという。 仕事に対する厳しさの反面、生来明るい性格である曽我は、他の共演者達によく声をかけ積極的にコミュニケーションを取っていたという。『ジュウレンジャー』で共演した千葉麗子は、曽我の訃報の翌日に自身のウェブサイトで「何も分からない新人の私にも話をして下さった」と哀悼の意を表すコメントを掲載していた。 曽我が亡くなった日、テレビ等のメディアは「初代オバQの声優が亡くなった」等とこれを広く報じた。曽我が経営していた「ステラ」のウェブサイトにある掲示板にはファンからの何万件もの追悼のコメントが載せられ、ステラ側からは献花等を辞退する旨の声明が出されている。 テレビ朝日を除く民放各局が「初代オバQの声優が亡くなった」と広く知られた事例のみを以って紹介する一方、NHKの『つながるテレビ@ヒューマン』では、「特撮の女王」として番組コーナーで訃報を取り扱った(ヘドリアン女王等のスチール写真や『電子戦隊デンジマン』のBGMを流して紹介)[出典無効]。 『時空戦士スピルバン』に女王パンドラ役で出演していた当時、『ビートたけしのスポーツ大将』の100m走に女王パンドラとして出演したことがある。この時は40mのハンデをもらったが、衣装の重さから見事に最下位になってしまい、劇中におけるパンドラのキャラクターそのままに悔しがっていた。 『魔法戦隊マジレンジャー』で曽我が演じた「天空大聖者マジエル」の役は当初俳優の岡田眞澄が務める予定であったが、岡田が体調不良を理由に辞退したため竹本昇監督の推薦によりその代役として曽我に依頼されたものであったという。しかし、実際には曽我もこの時すでに病魔と闘いながらの撮影であった。なお、曽我の死去から約3週間後の5月29日に岡田も癌によってこの世を去っている。竹本は「曽我町子に演技指導する監督」としての立場に緊張の連続であったと後に述懐している。 マジエルの初登場編にあたる『マジレンジャー』の映画版『魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』で曽我演じるマジエルが、劇中の終盤にマジレンジャーの6人や地上界に住む人間達に向けて述べた「さて、地上界の者たちに素敵な魔法を送るとしよう。それぞれの者に勇気と力を与えよ。」という台詞は、曽我本人が映画館まで観にきてくれた観客に何か元気になれるメッセージになるような台詞を最後に入れて欲しいと、東映側のチーフプロデューサーを担当した塚田英明に提案して急遽挿入されたものであるという。 『電子戦隊デンジマン』などで付き合いのあった小林義明監督については「とにかく変わり者」という人物評をしていた。 曽我自身は役者を続けるつもりは無かったが、アメリカ映画『青い目の蝶々さん』に出演したことが、転機となって役者を続けていくことを決めた。同作品では当初、エキストラとしての出演だったが、撮影の当日に役を貰ったものの、英語の台詞を巧く言えず、台詞を減らしてくれるように頼むが、それをエドワード・G・ロビンソンに咎められたことで、曽我は自分が本気で役者という仕事をしていなかったことに気づいたとしている。 『電撃戦隊チェンジマン』のアハメス役は当初は曽我が演じることになっていた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 17:10 UTC 版)
実学的な著述を数多くの執筆し、安永元年(1772年)には農業に従事した経験を活かした農業経済学の『陸稲記』や、天明元年(1781年)には現在のそろばんと同じ珠の配置(地4+天1)を唱えた『初学算法』などがある。4つ珠そろばんが全国に普及したのは乳井の考案から154年後(尋常小学算術)である。 当時の武士の規範とされた朱子学の考え方を批判し、社会に有用な実学を重んじた。 1780年代に失脚した際には辺境の川原平に蟄居を命ぜられたが、拘束の程度は緩く(取締の役人が村に来ると牢に入っている形式)、新田を開発する傍ら寺子屋を開き、村人に読み書きそろばんを教えていた。こうした活動から、乳井は地域の住民から慕わる存在となった。昭和10年に建立された顕彰碑が西目屋村川原平にあったが、津軽ダムの建築工事で撤去されて現在はそこになく、津軽白神湖パークに移動させられている。
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人物・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 08:16 UTC 版)
幼少から才幹があり、身体の敏捷さは群を抜いて優れていた 。 荊州で狩りを行った際、猛獣に数本の矢が刺さり、地面に伏していた。戯れに刺さった矢を抜くようにと命令が下った。桓石虔は急いで猛獣の元に向かい、矢を一本引き抜いた。猛獣は飛び跳ね、桓石虔も飛び跳ねて格闘の末、猛獣を組み伏せた。桓石虔は再び矢を引き抜いて戻ってきた。 桓温に従って関中へ侵攻した際、桓沖が前秦の皇帝苻健によって包囲され、討死の危機にあった。桓石虔は単騎で赴き、数万の兵がひしめく中、桓沖を救って帰還した。敵兵に桓石虔に抗する者はなく、三軍は感嘆し、その威名は敵軍を震わせた。 病人に「桓石虔が来るぞ」と言うと、怖れのあまり多くの者が快復した。民衆が桓石虔を畏れるのはこれほどであった。 謝安は桓石虔の勇猛ぶりを慮り、これを御することは難しいと考えて豫州刺史に任じた。桓石民が荊州刺史、桓伊が江州刺史に任じられ、桓氏が三州に拠ることになり、彼らは誰憚ることなく各州を治めた。
※この「人物・逸話」の解説は、「桓石虔」の解説の一部です。
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人物・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 07:35 UTC 版)
才芸があり、父の慕容廆から寵愛されていた。これを慕容皝は常々妬ましく思っていた。
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人物・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/14 00:24 UTC 版)
隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣に命じて色白の美しい肌の美女を連れて来いと命じ、その女性の背中に花模様の刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色の着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺繍を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしたが誰も応じず、仕方なく1000両を与えるからとしても誰も応じなかったという。 江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集『江戸塵拾』、『当代江戸百化物』でも「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が挙がっている。 参会者が全員、裸で茶を飲む裸茶会を開催している。 『赤蝦夷風説考』などの著書で知られる医師・経世家(経済学者)である工藤平助との交流の話が残る。 松浦清の随筆『甲子夜話』正篇巻之五十一には、松平南海が退屈を紛らわすために長身力士の釋迦ヶ嶽雲右エ門を化物に扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者をからかった旨の記述がある。 月照寺にある宗衍の廟所に寿蔵碑があり、大亀の石像が土台となっている。この石亀が夜な夜な松江の街を徘徊したという伝説があり、後年、松江に滞在したラフカディオ・ハーンが随筆『知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan』(1894年)で紹介している。「月照寺 (松江市)#大亀伝説」を参照 隠居後の宗衍の奇行を題材にして谷津矢車が小説「雲州下屋敷の幽霊」(『オール讀物』2016年12月号掲載)を執筆している。
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人物・逸話
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盧淵の性格は温厚で、学問を尊び、草書を学んで平城の宮殿によく題書した。 14歳のときに長安を訪れ、扶風の王伯達に顔相を見てもらって、20年後に関右に命を制するだろうと予言された。 李沖と特に親密であった。
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人物・逸話
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「花満開 (お笑い芸人)」の記事における「人物・逸話」の解説
派手な花柄のスーツを着ているのが特徴。また、以前はアフロヘアーだった。 以前は相当なギャンブラーだったらしく、パチンコで500万円借金したことがあるという。また芸人になる前はスカウトマンをしていたときもある。 親交があるモノマネ芸人のミラクルひかるが司会を務めるくるくるミラクリング(GyaOにて放送)にゲストとして出演した時に、顔が大きいことなどを指摘されるなど、散々いじられた。また、初めてミラクルとイベントで出会った際、花はミラクルに対し「かわいい」と思っていたそうだが、ミラクルは花を見て逆に「気持ち悪い」と思っていたことを告白。 主にギター漫談をしており、ネタの代表作に三十歳にまつわる「三十路の歌」がある。この他にも「ヨイショの歌」などもある。 前述の通り、顔が大きい。それを確定するエピソードとして昔、新聞の勧誘で家を訪ねてきた初対面の男にいきなり「きみ、舞台映えだね」と言われた。しかし、当の本人は、当時役者を目指していたこともあって逆にうれしくなり、結局その新聞を三ヶ月間とったらしい。 ルックスがよく、西口プロレスの試合の際には所属レスラーでゲイキャラのラブセクシー・ローズに襲われる、デートに誘われるのがほぼ定番となっている(あくまでネタ)。 モノマネが得意でなく、モノマネ番組のオーディションで、番組プロデューサー相手にジョン・カビラのモノマネをした際、あまりに似ていなかったためプロデューサーがイスから転げ落ちたという逸話がある。
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人物・逸話
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金沢文庫の古文書の中には彼の書状が642通(書状の復元作業などから566通とも)現存し、これは鎌倉時代後期・末期の情勢を伝える上で貴重な史料となっている。 貞顕は当時では一流の文化人であり、探題時代に多くの文化人と交遊して書写を行なったりした。鎌倉帰還後も親王将軍をもてなすために京都の銘茶と道具類を備えるなどしている。貞顕の政治家としての評価は「得宗家の強大な権力にひれ伏した」として低い。しかしこれは貞顕が幕府滅亡時の7年前まで幕府中枢で幕政を仕切っていたため(幕府滅亡までも一定の影響力はあったと思われ