第三次川中島の戦い
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弘治3年(1557年)、第三次川中島の戦いで、弘治3年(1557年)武田軍が葛山城を急襲し落城させると、翌年、長尾景虎も雪解けを待って出陣し旭山城を再建し守兵を置いた。
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第三次川中島の戦い
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弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。 弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。 弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。 一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。 永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
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第三次川中島の戦い
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弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れる。 雪解けの4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。 5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍する。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けた。 7月、武田軍の別働隊が長尾方の安曇郡小谷城を攻略。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城を攻撃する。 その後8月、両軍は髻山城近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。 弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年に洛することを伝える。また『宇都宮興廃記』によれば同年、上野国経由で下野国に侵攻し、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱したために景虎は軍を引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野国の白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵国岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。
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