第三次広島抗争
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第三次抗争は山村組が中心となって旗揚げした連合組織である政治結社「共政会」の内紛が発端である。 初代会長・山村辰雄が昭和40年6月に引退、11月に出所して来た理事長・服部武が二代目を襲名する。服部二代目体制に反発したのが幹事長の山口英弘で、彼は引退を表明する。山口(英)組は同会を脱退し、十一会と名称を改めた。 服部は理事長に子飼いの山田久を任命、副会長に旧岡組の原田昭三を加え、「旧岡組・山村組」派閥の発言権を強めた。これに反発したのが、かつて岡組と敵対した同会顧問の村上正明だった。 三代目を視野に入れた山田が連合組織から会長を頂点に一本化へと組織改革を推し進めようとするが、村上は小原組幹部・宮岡輝雄と連携するのである。 そして、昭和44年10月 村上組組員が山田との談判中に突如発砲。山田の配下が報復として宮岡輝雄を射殺する。宮岡組は親分が殺されたのは村上のせいであるとして、村上組との共闘を解消、その後村上組幹部が山田を支援したため、村上正明は失墜する。 昭和45年9月 美能幸三が出所する。同年6月に樋上組組長・樋上実が美能組組員に路上で射殺されていたため、彼の出所は新たな火種になると思われたが、兄弟分・波谷守之の懸命な説得により美能は引退を決意した。二代目美能組組長、さらに三代目小原組が共政会入りし、脱退していた十一会会長・竹野博士が山田から盃をもらう。こうして三代目山田体制は既定路線となって行った。 これに反対する十一会副会長・梶山慧は、共政会三代目襲名式6日前の昭和45年11月18日、大阪各地に挨拶回りへ出向いていた山田久一行の乗った乗用車を、梶山派が襲撃した。山田は胸部に重傷を負った、襲名式は無理と思われたが、医師立会いのもとで、料亭で式を強行、三代目の座に就いた。 山田久襲撃に使われた車が尾道・俠道会のものだった事から俠道会の関与が疑われた。俠道会はこれを否定したが、会長・森田幸吉は梶山の親分の山口英弘と兄弟分であり、その義理から梶山一派を支援した。一方、山田久三代目の後見人を務めていた笠岡の浅野眞一組長は三代目共政会を支援する。 こうして、共政会内紛に端を発した抗争は「共政会・浅野組」VS「十一会梶山一派・俠道会」となって山陽道を揺るがすことになる。泥沼化し、終わりなき抗争とも思われたが、ここでも波谷守之が動き、森田の叔父貴分にあたる清水春日と説得にあたって、昭和46年5月に和解を見た。
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