第三次広島抗争とは? わかりやすく解説

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第三次広島抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 00:30 UTC 版)

広島抗争」の記事における「第三次広島抗争」の解説

第三次抗争山村組が中心となって旗揚げした連合組織である政治結社共政会」の内紛発端である。 初代会長山村辰雄昭和40年6月引退11月出所して来た理事長服部武が二代目襲名する服部二代目体制反発したのが幹事長山口英弘で、彼は引退を表明する。山口(英)組は同会を脱退し十一会と名称を改めた服部理事長子飼い山田久を任命副会長に旧岡組の原田昭三を加え、「旧岡組・山村組」派閥発言権強めた。これに反発したのが、かつて岡組と敵対した同会顧問村上正明だった。 三代目視野入れた山田連合組織から会長頂点一本化へと組織改革推し進めようとするが、村上小原幹部・宮岡輝雄と連携するのである。 そして、昭和44年10月 村上組員山田との談判中に突如発砲山田配下報復として宮岡輝雄を射殺する。宮岡組は親分殺されたのは村上のせいであるとして、村上組との共闘解消その後村上幹部山田支援したため、村上正明は失墜する昭和45年9月 美能幸三出所する同年6月樋上組長樋上実が美能組員路上射殺されていたため、彼の出所新たな火種になると思われたが、兄弟分波谷守之懸命な説得により美能引退決意した二代目美能組長、さらに三代目小原組が共政会入りし、脱退していた十一会長竹野博士山田から盃をもらう。こうして三代目山田体制既定路線となって行った。 これに反対する十一副会長梶山慧は、共政会三代目襲名6日前の昭和45年11月18日大阪各地挨拶回り出向いていた山田一行乗った乗用車を、梶山派が襲撃した山田胸部重傷負った襲名式は無理と思われたが、医師立会いのもとで、料亭で式を強行三代目の座に就いた山田襲撃使われた車が尾道俠道会のものだった事から俠道会関与疑われた。俠道会はこれを否定したが、会長森田幸吉梶山親分山口英弘と兄弟分であり、その義理から梶山一派支援した一方山田久三代目後見人務めていた笠岡浅野眞一組長三代目共政会支援する。 こうして、共政会内紛端を発した抗争は「共政会浅野組VS十一梶山一派俠道会となって山陽道揺るがすことになる。泥沼化し、終わりなき抗争とも思われたが、ここでも波谷守之動き森田叔父貴分にあたる清水春日説得にあたって昭和46年5月和解見た

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