第三次川中島の戦いと信濃善光寺とは? わかりやすく解説

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第三次川中島の戦いと信濃善光寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)

甲斐善光寺」の記事における「第三次川中島の戦いと信濃善光寺」の解説

甲斐善光寺永禄元年1558年)、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建された。開山信濃善光寺大本願三十世の鏡空。 『高白斎記』に拠れば戦国時代大永3年1523年6月10日大永7年1527年7月8日には甲斐守護武田信虎信濃善光寺参詣している。信虎当時敵対する甲斐の有力国衆他国勢力抗争繰り広げており、信濃善光寺への参詣信虎国内留守にできるほど甲斐統一的状況生まれていたとも評価されている。また、信虎個人宗教的動機のほか、大永4年1524年2月には上野国関東管領上杉憲房相模国北条氏綱抗争介入して関東出兵しており、大永7年6月には信濃佐久郡伴野貞慶援助するために国外へ出兵していることから、政治的動機指摘される天文10年1541年6月14日には信虎嫡男の晴信(信玄)が信虎追放し家督相続する。晴信は天文年間から信濃侵攻本格化させ、北信濃国衆庇護する越後長尾景虎(宗心、上杉謙信)と衝突し北信濃長野県長野市南郊)において五次に渡る川中島の戦い繰り広げる天文24年1555年7月第二次合戦では戦火信濃善光寺及んだ善光寺別当初代栗田永寿天文12年1553年)の武田氏北信濃侵攻では長尾景虎属していたが、『勝山記によれば永寿武田氏支援を受け、旭山城長野市)に籠城して長尾方と戦っており、これ以前から武田氏接触があったと考えられている。 『勝山記によれば天文24年7月23日には村上義清高梨政頼長尾景虎頼り越後亡命すると、信濃出兵していた景虎同日善光寺へ陣を張った。『勝山記によれば、これに対し武田晴信旭山城籠城する栗田氏に兵三千・弓八百張・鉄砲三百挺を支援した。 『勝山記によれば同年改元後の弘治元年10月15日には駿河国今川義元仲介により武田長尾間の和睦成立し上杉方の城は破却され武田上杉双方撤退し第三次川中島の戦い終結した

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