第三次川中島の戦いと信濃善光寺
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「甲斐善光寺」の記事における「第三次川中島の戦いと信濃善光寺」の解説
甲斐善光寺は永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建された。開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。 『高白斎記』に拠れば、戦国時代の大永3年(1523年)6月10日・大永7年(1527年)7月8日には甲斐守護・武田信虎が信濃善光寺に参詣している。信虎は当時、敵対する甲斐の有力国衆や他国勢力と抗争を繰り広げており、信濃善光寺への参詣は信虎が国内を留守にできるほど甲斐の統一的状況が生まれていたとも評価されている。また、信虎個人の宗教的動機のほか、大永4年(1524年)2月には上野国の関東管領・上杉憲房と相模国・北条氏綱の抗争に介入して関東へ出兵しており、大永7年6月には信濃佐久郡の伴野貞慶を援助するために国外へ出兵していることから、政治的動機も指摘される。 天文10年(1541年)6月14日には信虎嫡男の晴信(信玄)が信虎を追放し、家督を相続する。晴信は天文年間から信濃侵攻を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する越後の長尾景虎(宗心、上杉謙信)と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において五次に渡る川中島の戦いを繰り広げる。 天文24年(1555年)7月の第二次合戦では戦火が信濃善光寺に及んだ。善光寺別当の初代・栗田永寿は天文12年(1553年)の武田氏の北信濃侵攻では長尾景虎に属していたが、『勝山記』によれば永寿は武田氏の支援を受け、旭山城(長野市)に籠城して長尾方と戦っており、これ以前から武田氏と接触があったと考えられている。 『勝山記』によれば、天文24年7月23日には村上義清・高梨政頼が長尾景虎を頼り越後へ亡命すると、信濃へ出兵していた景虎は同日に善光寺へ陣を張った。『勝山記』によれば、これに対し武田晴信は旭山城に籠城する栗田氏に兵三千・弓八百張・鉄砲三百挺を支援した。 『勝山記』によれば、同年改元後の弘治元年閏10月15日には駿河国・今川義元の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し、上杉方の城は破却され武田・上杉双方は撤退し第三次川中島の戦いは終結した。
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