第二次合戦
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原司令官の突撃命令にともない、各駆逐隊は各々敵艦に向けて突撃を仕掛けた。0110、まず第11駆逐隊(初雪、白雪)が距離3,500mまで接近すると魚雷を各艦9本、計18本を発射すると煙幕を展開して北方に避退した。第5駆逐隊は0110に右舷同航の態勢で魚雷を発射しようとしたが、春風は被弾して舵故障(春風艦長古要桂次少佐は、魚雷発射失敗のため回頭と回想)、旗風は至近弾の水柱で発射できず、0113朝風のみ距離3,700mで魚雷6本を発射した。旗艦名取は0113に照射砲撃を開始、1分後に右同航戦で魚雷4本を発射すると「発射終了セルモノハ名取ニ合同セヨ」と下令、煙幕を展開しながら北方へ避退した。同時刻、それぞれ戦場に到着した各艦(三隈、最上、敷波、白雲、叢雲)は敵艦との距離をつめつつ、襲撃の機会をうかがった。敷設艦白鷹は南下すると0056から戦闘に加入し、0114に命中弾を記録した。 名取と第11駆逐隊は北方へ離脱しつつ魚雷の次発装填を急ぎ、第12駆逐隊(白雲、叢雲)は急速に東進、また第一撃で射点を逸して魚雷を発射できなかった旗風と春風は再度の襲撃運動に入っていた。
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第二次合戦
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小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まり、天文13年(1544年)には三河国碧海郡の刈谷城(刈谷市)を中心に国境地帯に勢力を持つ国人の水野信元が、岡崎城主・松平広忠の妻・於大の方の兄でありながら松平氏と絶縁し、今川氏を離反して織田氏に従った。 この情勢を受けて、広忠は織田家に対抗し今川家との関係をさらに緊密にするため、嫡子・竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏の本拠・駿府に送ることにした。しかし、天文16年(1547年)、当時6歳の竹千代の身柄は、護送の任にあたった田原城(愛知県田原市)の城主・戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまった。織田信秀は人質の竹千代を利用して広忠に対し今川を離反して織田の傘下に入るよう説得したものの、広忠は今川氏を頼って織田氏への徹底抗戦の構えを崩すことはなかった。 同じ頃、信秀は嫡男・信長に斎藤道三の娘・濃姫を娶らせて、累年の敵であった美濃の斎藤氏と和睦を推進した。これにより北の憂いをなくした信秀は改めて東へと目を向け、奪取した安祥城を橋頭堡として、岡崎城の攻略を企図するに至る。 こうして天文17年(1548年)3月、信秀は岡崎城を武力で攻略することをめざし、庶長子信広を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から矢作川を渡河、上和田に着陣した。今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将として出陣させ、同月19日(4月27日)に織田軍先鋒の信広と接触し小豆坂で合戦となった。 この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために優勢であったが、信広隊も劣勢を悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ、本隊と合流して勢いを盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され、次第に今川方の敗色が濃くなりつつあった。ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊が攻勢に転じ、織田本軍に横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなった。 ところで、「松平広忠と岡崎城は今川方にある」ということは、第二次合戦の前提として、これまで全く疑われることがなかった。ところが、越後国本成寺の第九世である日覚(尾張国の出身で、今川氏家臣の鵜殿氏から帰依を受けていた)が残した書状の中に、天文16年(1547年)9月に岡崎城が織田軍に攻め落とされたという記述があることが判明しこれを事実とする説が村岡幹生によって唱えられた。この新説は研究者の中でも支持する動きがあり、更にこの説を発展させて、松平竹千代(徳川家康)は戸田康光の裏切りではなく、広忠自身が降伏の証として織田氏に引き渡したとする説まで出されるようになった。
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第二次合戦
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「薩埵峠の戦い (戦国時代)」の記事における「第二次合戦」の解説
永禄12年1月18日(1569年2月3日)から同年4月20日(同年5月6日)にかけて行われた戦いを「第二次合戦」と称する。 北条氏康は嫡男である北条氏政に命じて4万5千の兵を率いて小田原城を出発させ、年が変わった永禄12年1月5日には伊豆三島に入った。氏政は伊豆水軍を掛川城に派遣して援軍を送らせ、自身は陸路駿府に向かった。これを知った武田軍は先の今川軍と同様に1万8千の兵で薩埵峠を固め、両軍がにらみ合う形となった。 武田信玄は常陸の佐竹義重や下総の簗田晴助などに北条領攻撃を要請し、一方今川氏真や北条氏康も越後の上杉謙信に武田領信濃を攻撃するように要請した。2月には武田軍が今川方の大宮城に攻撃を仕掛けたものの北条の援軍などもあり敗退、3月には兵糧補給の問題が発生した。両者は本格的な戦いに突入しないままに3ヶ月の間睨み合いを続けた後、4月、武田信玄は穴山信君を江尻城に残して甲斐に兵を撤退させた(この戦いでは米倉晴継らが戦死した)。その後北条氏政も幾つかの城を傘下に収めた後、相模に兵を撤退させ、徳川方との交渉を開始する。 武田氏と北条氏の戦いは引き分けに終わったものの、掛川城における徳川家康と今川氏真の籠城戦が、永禄12年(1569年)5月17日北条氏の仲介によって開城となり、北条氏と徳川氏は同盟交渉を開始。これに対抗して武田方も北条氏を牽制した後に大宮城を攻略し、今川方の勢力を掃討するなど、戦況は周辺諸大名を巻き込みながら新たな展開を迎えることになる。
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第二次合戦
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川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。 天文23年(1554年)、武田晴信は南信の伊那郡を制圧すると同時に、同年末には関係改善が図られていた相模国の後北条氏、駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東において上杉氏と対峙する後北条氏と共同して上杉氏と対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広(越後北条氏)に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。この年中信地域で小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免を求め、これを仲介した大日方氏が賞されている。 天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の国衆・栗田永寿 (初代)が武田氏に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、善光寺以北の長尾氏方諸豪族への圧力が高まった。 晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣した。栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城する。景虎としてはこの旭山城を無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城の守兵に軍勢の背後を突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは裾花川を挟んでほぼ真正面に位置する葛山に葛山城(長野県長野市)を築いた。これによって前進拠点を確保したと共に旭山城の機能を封殺することに成功した。 晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。 長尾軍に呼応して一向一揆の抑えとして加賀に出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことで、北陸方面への憂いが生じたこともあり、閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信国衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、長野盆地の北半分(犀川以北)を確保したことになる。 その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。 第二次川中島の戦いにおいては武田・長尾双方に複数の感状が現存しており、両者とも抗争の舞台を「川中島」と認識していることが確認される。
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