第二次合戦とは? わかりやすく解説

第二次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:51 UTC 版)

バタビア沖海戦」の記事における「第二次合戦」の解説

司令官突撃命令にともない、各駆逐隊各々敵艦向けて突撃仕掛けた。0110、まず第11駆逐隊初雪白雪)が距離3,500mまで接近する魚雷を各艦9本、計18本を発射する煙幕展開して北方避退した。第5駆逐隊は0110に右舷同航の態勢魚雷発射しようとしたが、春風被弾して故障春風艦長古要少佐は、魚雷発射失敗のため回頭回想)、旗風至近弾の水柱発射できず、0113朝風のみ距離3,700mで魚雷6本を発射した旗艦名取は0113に照射砲撃開始、1分後に右同航戦魚雷4本を発射すると「発射終了セルモノハ名取合同セヨ」と下令煙幕展開しながら北方避退した。同時刻、それぞれ戦場到着した各艦(三隈最上敷波白雲叢雲)は敵艦との距離をつめつつ、襲撃機会うかがった敷設艦白鷹南下すると0056から戦闘加入し、0114に命中弾を記録した名取と第11駆逐隊北方離脱しつつ魚雷の次発装填を急ぎ、第12駆逐隊白雲叢雲)は急速に東進、また第一撃射点逸して魚雷発射できなかった旗風春風再度襲撃運動入っていた。

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第二次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:22 UTC 版)

小豆坂の戦い」の記事における「第二次合戦」の解説

小豆坂の最初激突の後、織田氏尾張三河国境地帯に対す影響力高まり天文13年1544年)には三河国碧海郡刈谷城刈谷市)を中心に国境地帯勢力を持つ国人水野信元が、岡崎城主・松平広忠の妻・於大の方の兄でありながら松平氏絶縁し今川氏離反して織田氏従った。 この情勢受けて広忠織田家対抗し今川家との関係をさらに緊密にするため、嫡子竹千代(後の徳川家康)を人質として今川氏本拠駿府に送ることにした。しかし、天文16年1547年)、当時6歳竹千代身柄は、護送の任にあたった田原城愛知県田原市)の城主戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまった。織田信秀人質竹千代利用して広忠対し今川離反して織田傘下に入るよう説得したものの、広忠今川氏頼って織田氏への徹底抗戦構えを崩すことはなかった。 同じ頃、信秀嫡男信長斎藤道三の娘・濃姫を娶らせて、累年の敵であった美濃斎藤氏和睦推進した。これにより北の憂いなくした信秀改め東へ目を向け奪取した安祥城橋頭堡として、岡崎城攻略企図するに至る。 こうして天文17年1548年3月信秀岡崎城武力攻略することをめざし、庶長子信広を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から矢作川渡河上和田着陣した。今川義元松平氏救援のため約1万の兵を太原雪斎大将朝比奈泰能副将として出陣させ、同月19日4月27日)に織田先鋒の信広と接触し小豆坂で合戦となった。 この戦いでは、はじめ今川勢は坂の頂上付近布陣していたために優勢であったが、信広隊も劣勢悟って無理をせずに兵を信秀本隊のある盗木の付近まで下げ本隊合流して勢い盛り返した織田方の奮戦によって松平隊が崩され次第今川方の敗色濃くなりつつあった。ところがこの時、伏兵となっていた今川方の部隊攻勢転じ織田本軍横槍を入れたことで織田勢は総崩れ、再び矢作川渡って安祥城まで敗走することとなった。 ところで、「松平広忠岡崎城今川方にある」ということは、第二次合戦の前提として、これまで全く疑われることがなかった。ところが、越後国本成寺第九世である日覚(尾張国出身で、今川氏家臣の鵜殿氏から帰依受けていた)が残した書状中に天文16年1547年9月岡崎城織田軍に攻め落とされたという記述があることが判明しこれを事実とする説が村岡生によって唱えられた。この新説研究者中でも支持する動きがあり、更にこの説を発展させて、松平竹千代徳川家康)は戸田康光の裏切りではなく広忠自身降伏の証として織田氏引き渡したとする説まで出されるようになった

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第二次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 09:56 UTC 版)

薩埵峠の戦い (戦国時代)」の記事における「第二次合戦」の解説

永禄12年1月18日1569年2月3日)から同年4月20日同年5月6日)にかけて行われた戦いを「第二次合戦」と称する北条氏康嫡男である北条氏政命じて45千の兵を率いて小田原城出発させ、年が変わった永禄12年1月5日には伊豆三島入った。氏政は伊豆水軍掛川城派遣して援軍を送らせ、自身陸路駿府向かった。これを知った武田軍先の今川軍同様に1万8千の兵で薩埵峠を固め両軍にらみ合うとなった武田信玄常陸佐竹義重下総簗田晴助などに北条攻撃要請し一方今川氏真北条氏康越後の上謙信武田信濃攻撃するように要請した2月には武田軍今川方の大宮城攻撃仕掛けたものの北条援軍などもあり敗退3月には兵糧補給の問題発生した両者本格的な戦い突入しないままに3ヶ月の間睨み合い続けた後、4月武田信玄穴山信君江尻城残して甲斐に兵を撤退させた(この戦いで米倉晴継らが戦死した)。その後北条氏政幾つかの城を傘下収めた後、相模に兵を撤退させ、徳川方との交渉開始する武田氏北条氏戦い引き分け終わったものの、掛川城における徳川家康今川氏真籠城戦が、永禄12年1569年5月17日北条氏仲介によって開城となり、北条氏徳川氏同盟交渉開始。これに対抗して武田方も北条氏牽制した後に大宮城攻略し今川方の勢力掃討するなど、戦況周辺諸大名巻き込みながら新たな展開迎えることになる。

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第二次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)

川中島の戦い」の記事における「第二次合戦」の解説

川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年1555年)に行われ犀川の戦いとも言う。武田晴信長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した天文23年1554年)、武田晴信南信伊那郡制圧する同時に同年末には関係改善図られていた相模国後北条氏駿河国今川氏三者同盟を結び、特に北関東において上杉氏対峙する後北条氏共同して上杉氏対決していく(甲相駿三国同盟)。その上で長尾氏の有力家臣北条高広(越後北条氏)に反乱を起こさせた。景虎北条高広降すが、背後にいる晴信との対立深まったこの年中信地域小笠原氏と共に武田氏抵抗していた二木氏が小笠原氏逃亡後になって赦免求め、これを仲介し大日方氏賞されている。 天文24年弘治元年1555年)、信濃国善光寺国衆栗田永寿 (初代)武田氏寝返り長野盆地の南半分武田氏勢力下に置かれ善光寺以北長尾氏方諸豪族への圧力高まった。 晴信は同年3月景虎4月善光寺奪回のため長野盆地北部出陣した栗田永寿武田氏援軍3000栗田氏旭山城長野県長野市)に篭城する景虎としてはこの旭山城無視して犀川渡河をしてしまうと旭山城守兵軍勢背後突かれてしまう危険があり着陣後も容易に動くことが出来なかった。そこで長尾軍は旭山城とは裾花川挟んでほぼ真正面位置する葛山葛山城長野県長野市)を築いた。これによって前進拠点確保したと共に旭山城機能封殺することに成功した。 晴信も旭山城後詰として川中島出陣し犀川挟んで両軍対峙した。7月19日長尾軍が犀川渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍200日余に渡り対陣することになる。兵站線前線根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧調達苦しんだとされる長尾軍の中でも動揺起こっていたらしく、景虎諸将忠誠確認する誓紙求めている。 長尾軍に呼応して一向一揆抑えとして加賀出兵していた朝倉宗滴亡くなったことで、北陸方面への憂い生じたこともあり、閏10月15日駿河国今川義元仲介和睦成立し両軍撤兵した。和睦条件として、晴信は須田氏、井上氏島津氏など北信国衆旧領復帰認め旭山城破却することになった。これにより長尾氏勢力は、長野盆地の北半分犀川以北)を確保したことになる。 その後、晴信は木曽郡木曾義康義昌父子降伏させ、南信濃平定完成させた。 第二次川中島の戦いにおいては武田長尾双方複数感状現存しており、両者とも抗争舞台を「川中島」と認識していることが確認される

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