第二次四カ年計画
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1936年8月、ヒトラーは第二次四カ年計画の覚書の作成を開始した。そして9月9日のニュルンベルク党大会において第二次四カ年計画が発表された。こちらが一般に四カ年計画と呼ばれるものである。四カ年計画覚書の中でヒトラーは「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」「ドイツ国防軍は四年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」と書いている。代替財・原料生産・貿易統制を推進して自給自足経済の確立を目指す内容そのものであった。 ヒトラーはこの四カ年計画の全権責任者にはナチ党および政府のNo.2であるヘルマン・ゲーリングを据えた。ゲーリングは12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語り、ドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済の確立を急いだ。以降、1936年から1942年にかけて、ゲーリングはドイツ経済の独裁者とも言える存在になった。 四カ年計画庁による設備投資はドイツ全体の設備投資の50%に達し、1936年から1942年にかけて同様の状態であった。このため非採算的な人造石油、人造繊維、合成ゴムの生産拡充が行われ、また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ。 この四カ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあったIG・ファルベンのカール・クラウホ(Carl Krauch)であった。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている。1938年からは実質的にIG・ファルベン計画となっていた。1939年1月には軍備費の増大に反対したシャハトらが完全に失脚し、ドイツの軍事経済化は一層進展していった。 四カ年計画は個別においては注目すべき成果もあったが、現実を無視して設定されていたため、全体目標は達せられなかった。本来ならば多様であるべき生産領域は輸出の制限から更に縮小させてしまった。軍備増強による国民経済の歪みはナチ党政権が巧妙に国民の目から隠した。 1942年3月、軍需大臣にアルベルト・シュペーアが就任し、戦争経済は大きく転換されることになった。特にスターリングラードの戦いにおける敗北以降、戦争経済は軍需省を中心としたものに改編されていき、四カ年計画庁の影響力も低下した。ただしゲーリングは戦争末期まで全権の地位を保ち、計画自体は存続した形となっている。
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