四カ年計画
四カ年計画
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「ナチス・ドイツの経済」の記事における「四カ年計画」の解説
「四カ年計画」も参照 四カ年計画による自給経済構築とは、外貨不足により輸入が困難であるため、資源の国内自給を高めるものである。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語ったように、計画の実行は経済性を無視したものであった。1937年2月にはヴァルター・フンクが経済相と戦争経済特命委員に就任したが、フンクはゲーリングの腹心であり、大きな路線変更は行われなかった。この四カ年計画で実権を握ったのは、最終的にはゲーリングに次ぐナンバー2となったIG・ファルベンのカール・クラウホ(英語版)であった。 四カ年計画では戦時の輸入途絶を前提として、化学繊維や人造石油・合成ゴムなどの代用品開発が推進された。また1937年7月には国営企業としてヘルマン・ゲーリング国家工場が設立され、これまで不採算のため放棄されてきた国内資源の開発にあたった。四カ年計画のために投じられた資金は、ドイツ全体の設備投資金額の半分以上を占める莫大なものであった。また四カ年計画の技術者はIG・ファルベンの関係者が多く、1939年の段階で20%、戦時には30%がIG・ファルベン出身者であった。また10月29日の執行令により四カ年計画局にライヒ価格形成監理局が設置され、経済集団と連携して全国の価格を監視した。 しかしドイツ国内の資源類は偏っており、また軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属・食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書)。 1938年になると四カ年計画の軍備への傾斜がいっそう鮮明となった。7月以降いくつかの部分計画が追加されたが、四カ年計画としてのまとまりを欠くようになった。12月にはアウトバーン総監であったフリッツ・トートが建設経済統制特命委員に任ぜられ、彼の指揮下にあるトート機関が、アウトバーンの他に西部国境の要塞線ジークフリート線などの軍事施設建設を開始している。1939年頃には四カ年計画の機構すらも統一性を失っていった。これらの政策で石炭は8000万トンの増産に成功し、鉄鉱石生産高は1932年の260万トンから1938年の1500万トンへ急成長した。しかし自給の努力にもかかわらず、物資備蓄ははかばかしく進展せず、1939年10月の時点でガソリン、ゴム、鉄鉱石、銅、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった。1938年秋からライヒスバンクは不動産抵当融資を禁止したため、公的資金による住宅の建設が停止した。ドイツはすでに深刻な住宅不足に陥っていたため、失望を招いた。
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四カ年計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/20 03:54 UTC 版)
「四カ年計画」も参照 1936年9月9日、ナチ党党大会において四カ年計画の開始が宣言された。ヒトラーは計画のための覚書を作成したが、その中では現状の打開は「生存圏の拡大、詳しく言えば、つまり原料基盤と食糧基盤の拡大」しかないとしており、「ドイツ経済とドイツ軍は4年以内に戦争できる体制にならなければならない」とした。ヒトラーが選択したのは戦争であり、いわゆる東方生存圏の獲得による解決策であった。四カ年計画全権には航空大臣兼空軍総司令官でもあるヘルマン・ゲーリングが任じられた。 しかし、四カ年計画庁によって行われた鉄・鉄鉱石などの資源割り当ては、全産業分野における深刻な原料不足をもたらし、状況は一向に改善されないどころか悪化の一途をたどることになった。軍需産業も十分な生産を行うことができず、軍備拡大のペースが明らかに停滞し始めた。
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