大西洋の壁とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 施設 > 軍事施設 > 要塞 > 大西洋の壁の意味・解説 

大西洋の壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 10:14 UTC 版)

1942年から1944年までの大西洋の壁

大西洋の壁(たいせいようのかべ、ドイツ語: Atlantikwallフランス語: Mur de l’Atlantique英語: Atlantic Wall)は、第二次世界大戦中にイギリス本土からの連合国軍の侵攻に備えて、ナチス・ドイツによってヨーロッパ西部の海岸に構築された、2685kmに及ぶ広範囲な海岸防衛線である。

戦略

大西洋の壁は、ジークフリート線を設計したナチス・ドイツ軍需相フリッツ・トート率いるトート機関が壁の計画、構築を担当した。約60万人もの労働者がドーバー海峡に面するベルギーフランス海岸への防衛線構築に従事した。しかし資材不足等で構築は完成どころかさほど進展もしなかった。一説には西方総軍総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥はドイツ敗北を見通しており、この防衛線構築は無意味で、真剣にとりかかっても完成するとは思えない、としていたから、ともある[1]

ホッチキス Mle1914重機関銃を装備した第158予備師団の沿岸防衛部隊(レ・サーブル=ドロンヌ 1944年)

エルヴィン・ロンメル陸軍元帥は1944年初め、壁の防御改善を任命された(ただし当初は視察して勧告するのみ)。ロンメルは既存の防御線が見せかけだけであることを見抜き、フランス北西部のB軍集団司令官に着任してからは直ちにその強化を始めた。ロンメルは、連合軍侵攻は水際で阻止しなければならない、さもなければドイツの敗北は必至と固く信じていた。彼の指揮下、コンクリートトーチカが海岸および内陸部に沿い構築され、機銃対戦車砲、軽野砲が収納された。海岸部には地雷原および対戦車障害物「チェコの針鼠」を設置、海岸沖には機雷と障害物が敷設された。それらは連合軍の上陸用舟艇を、着岸前に損傷・破壊するための物であった。

全容

連合軍上陸まで、ドイツ軍はフランス北部に600万個の地雷を敷設した(ロンメルはそれでも不足と考えていた)。多くの機銃座と地雷原が海岸から内陸に続く道に沿い設置された。パラシュート部隊やグライダー着陸に適した土地には、「ロンメルのアスパラガス Rommelspargel」と呼ばれた傾斜した杭や鉄柱を打ち込み、降下部隊が戦う前に損害を出すようにした。また水を引き込み沼地を拡大させたり、河口部を氾濫させたりした。また、未成に終わったH級戦艦主砲に使われる予定だった16インチ砲を転用した沿岸防御砲が配置されたが、10門中7門がノルウェーに配置され、実際に連合軍が上陸したフランスに配置されたのは3門のみであったが、これは連合軍が「ヨーロッパ上陸作戦はノルウェーで実行する」という偽情報を流しており、これにドイツがまんまと騙されたためである(フォーティテュード作戦参照)。

「大西洋の壁」は結局完成しなかった。1942年から1944年にかけ、砲台、トーチカ、地雷原より成る壁は(完成度に差はあるものの)フランス・スペイン国境からノルウェーまで及んだ。多くのトーチカが現在もシュヴェニンゲンの近く、ハーグノルマンディーに存在する。第二次世界大戦後トーチカの幾つかは海岸の砂に埋もれた。また、無用になったこれらトーチカは政府によって爆破処理された。

チャンネル諸島のうちフランスに最も近いオルダニー島の防御は特に強化された。ヒトラーは大西洋の壁に使用される鉄鋼およびコンクリートの一割をチャンネル諸島に使用するよう命じた。それはイギリス領を支配下に置いていることのプロパガンダのためであった。「コンステレーション作戦」などチャンネル諸島奪回の作戦が提案されたこともあったが、連合軍はその重防備から島の攻略を回避し、ノルマンディー上陸後も島を解放しようとはしなかった。そのためチャンネル諸島のドイツ守備隊が降伏したのはドイツ全軍が降伏した翌日の1945年5月9日であった。オルダニー島の守備隊は5月16日まで降伏しなかった。

脚注

  1. ^ 青木茂『第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線ガイド』新紀元社。 

関連項目

外部リンク


大西洋の壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

エルヴィン・ロンメル」の記事における「大西洋の壁」の解説

ヒトラーロンメル見限ってはおらずB軍集団担当地区北イタリアから北フランス変更し1943年11月ロンメルB軍集団とともにフランス移動命じられゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いドイツ西方総軍指揮下に入ったドイツ軍連合軍次の侵攻地を突き止めるのに躍起となっていたが、ヒトラーは北フランスへ連合軍の上陸恐れており、信頼していたロンメルかの地置いたであった。さらにヒトラーは「要塞をつくることにかけては、古今通じ、私ほど偉大なものはない」と自信満々であった「大西洋の壁」の整備監督させるため、「進攻正面防備特務査察監」という新たな役職まで作ってロンメルをその役職任じたイタリアで落胆したロンメルであったが、任務重要性ヒトラーからの信頼痛感して着任するなりデンマークからフランスまで精力的に視察して回った1944年1月になってドイツ軍連合軍西ヨーロッパで「第2戦線」を構築するため大規模な上陸作戦展開するという情報掴んでおり、2月にはその場所がヒトラー懸念通り、北フランスになるという情報掴んでいた。連合軍の上陸地点としては、ドイツ軍イギリスからもっとも至近距離となるパ・ド・カレー予想していた。ロンメルドイツ軍の殆どの予想とは異なって上陸地点ノルマンディになると唯一正し予想をしていたという意見もあるが、ロンメル1943年12月23日付の報告書において「敵はまず第一にパ・ド・カレー目指すと書いていたり、連合軍上陸直前1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団パ・ド・カレーにより近いセーヌ川北部配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に連合軍の上陸地点パ・ド・カレー予想して作戦準備進めていた。 一方で連合軍の上陸対抗する「大西洋の壁」の整備状況としては、上陸予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合80%、ノルマンディー地方至って20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かったロンメル準備の遅れに危機感抱きつつも、精力的に活動し未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成近づけるために全力傾注したロンメルは「大西洋の壁」の整備並行して防衛計画の策定進めていた。ロンメル連合軍侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦最初24時間決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツ運命決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても最も長い一日Der längste Tag)になる」、として「水際配置水際撃滅」を主張した。これはロンメル北アフリカ連合軍圧倒的な航空戦力叩かれ苦い経験に基づくもので、連合軍空軍制空権下では、装甲部隊戦線にたどり着くためには、小部隊に分散且つ時間をかけて移動する必要があり、反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵砲兵装甲部隊全ての兵力配置し上陸部隊速やかに撃滅するべきと考えたからである。しかし、連合軍大規模上陸作戦においては、必ず戦艦重巡洋艦などの大口径の艦砲による艦砲射撃が行われており、その射程内に配置されている陣地部隊大きな損害被っていた。ロンメル連合軍大規模な艦砲射撃経験しておらず、明らかにその威力軽視していたと思われるが、実際に連合軍の上陸撃破することは困難と認識しており、一縷のむなしい望みにかけたという意見もある。 1943年3月西方総軍司令官任命されルントシュテットも、「大西洋の壁」などと喧伝されている陣地の構築状況遅々として進んでおらず、これに頼らない作戦検討する必要に迫られていた。そこで機甲部隊運用専門家でもあったルントシュテット陣地に頼るのではなく装甲部隊重点を置くこととした。しかし、最前線地区配備してしまえば上陸前連合軍圧倒的な航空攻撃艦砲射撃連合軍部隊上陸前大損害を被る懸念大きかったため、ルントシュテット装甲部隊をその射程の外に配置し海岸陣地歩兵上陸部隊押しとどめている間に、装甲部隊海岸付近に駆けつけて、艦砲射程外でまだ体制が整わない上陸部隊一気に叩く作戦考えた。これは、ルントシュテットハスキー作戦アヴァランチ作戦で、連合軍圧倒的な艦砲射撃大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリスと言われレオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将賛同したロンメルルントシュテット尊敬し立ててはいたが、一方ルントシュテットは、ロンメル勇気忠節ぶりには敬意払っていたものの、戦略家としての評価決し高くはなく「良き師団長になるための特性全て備えているがそれ以上ではない」と評していた。またヒトラー信頼でのし上がってきたナチ成り上がりものとい見方もしており、作戦全て握られることに警戒強めていた。 ロンメルルントシュテット意見の相違は、やがてドイツ軍二分するような「装甲部隊論争」に拡大したが、最終的にヒトラー問題解決介入し機甲4個師団予備部隊とし国防軍最高司令部指揮下におくこととした。この4個師団国防軍最高司令部許可なしでは動けないこととなり、結局のところ、ロンメルルントシュテット自分たちの対立によって余計な手枷足枷付けることとなってしまった。 こうした将軍同士対立の中で準備進められたが、ロンメル準備進めていく中で次第連合軍ノルマンディ上陸する公算大きいと考えようになった。そのため、ノルマンディへの視察頻度上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸防備強化命じ鹵獲したフランス軍戦車砲トーチカ設置し海岸砲台とするなど徹底した強化図られたため、ロンメル北アフリカ苦戦させられイギリス軍拠点因んでトブルク」と名付けられた。またロンメルは、自分デザインしたロンメルアスパラガス空挺部隊落下予想される地域設置したり、大量地雷埋設命じ一説にはその数600個にも達したと言われるが、実際に地雷の数も足りておらず、ロンメル満足させるためやむなくダミー地雷埋設された。ロンメル誤魔化す目的作られダミー地雷原は、皮肉にも上陸してきた連合軍混乱させるという予想外効果もあげている。ロンメルの軍の実情考慮しない命令によって、ドイツ軍将兵防備固めることに多く時間取られることとなり、訓練をする時間が殆どなかった。また、演習用の弾薬不足しており、訓練度少ないまま連合軍迎え撃つこととなってしまったので、火器命中率低さ悩まされることとなった

※この「大西洋の壁」の解説は、「エルヴィン・ロンメル」の解説の一部です。
「大西洋の壁」を含む「エルヴィン・ロンメル」の記事については、「エルヴィン・ロンメル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大西洋の壁」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大西洋の壁」の関連用語

大西洋の壁のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大西洋の壁のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大西洋の壁 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエルヴィン・ロンメル (改訂履歴)、ノルマンディー上陸作戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS