連合軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 06:37 UTC 版)
「フィンシュハーフェンの戦い」の記事における「連合軍の上陸」の解説
歩兵第80連隊長の三宅貞彦大佐は、防備の重点をフィンシュハーフェン南方へ置いていた。しかし、9月22日に侵攻してきたオーストラリア軍第9師団第20旅団(兵力約5,000名)は、日本軍の予想に反してフィンシュハーフェン北方10キロのアント岬へ上陸した。連合軍は駆逐艦5隻と充実した航空機により上陸を支援し、着実に兵力を揚陸させていった。対して日本軍はアント岬には歩兵第80連隊の約1個中隊しか配置していなかったうえ、大半の部隊が到着したばかりだったため物資の補給が間に合っておらず、上陸作戦の妨害はほとんど行うことができなかった。山田少将は、橋頭堡への反撃を行うため、歩兵第80連隊などをフィンシュハーフェン西方5キロのサッテルベルク高地へ後退させ、集結を図った。 港湾地域に駐留していた日本海軍第85警備隊は、山田陸軍少将から死守命令を受けた。9月23日以降、陸軍部隊と十分に連絡ができない状態で激しい戦闘を展開し、10月1日にようやく伝令を受けてサッテルベルク高地へ撤退した。翌10月2日になって、連合軍は、第85警備隊が去ったフィンシュハーフェンを占領し、10月11日までに、オーストラリア軍第9師団の第26旅団が増援として到着した。同じく10月2日、第85警備隊は今度は元の陣地を奪還するよう命令を受けたが、撤退時に兵器の多くを失ったことなどから命令を拒絶して参加せず、以後は後方警備任務についた。この間、早くも10月4日には連合軍はフィンシュハーフェンの飛行場を整備し戦闘機を推進していた。これによって同地の制空権は完全に連合軍の手に握られ、その後部隊の移動や補給の実施は極めて困難になった。
※この「連合軍の上陸」の解説は、「フィンシュハーフェンの戦い」の解説の一部です。
「連合軍の上陸」を含む「フィンシュハーフェンの戦い」の記事については、「フィンシュハーフェンの戦い」の概要を参照ください。
連合軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:40 UTC 版)
「ガダルカナル島の戦い」の記事における「連合軍の上陸」の解説
ツラギ島方面の戦いについては「フロリダ諸島の戦い」を参照 1942年(昭和17年)8月7日午前4時、アメリカ海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。ガダルカナル島の日本軍は警備の第13設営隊以外は就寝中で、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。 上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。 この上陸戦において、アメリカ軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲(歩兵砲)及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前鼎大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一線陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。
※この「連合軍の上陸」の解説は、「ガダルカナル島の戦い」の解説の一部です。
「連合軍の上陸」を含む「ガダルカナル島の戦い」の記事については、「ガダルカナル島の戦い」の概要を参照ください。
連合軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:53 UTC 版)
1945年1月4日、アメリカ軍航空隊は、マニラ〜リンガエン湾間を対象とする爆撃を開始した。1月6日からはアメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍の海岸陣地の大半を破壊した(リンガエン湾上陸(英語版)、1月6日 - 1月9日)。1月9日の朝、アメリカ第6軍所属第25師団・第32師団及びその他の6個師団など175000人はリンガエン湾への上陸を開始した。まずは第6軍第1軍団所属の2個師団基幹が北方へ、第14軍団所属の第1騎兵師団と第37歩兵師団はマニラ攻略を任務として南方へ向かうこととされた。 日本側は四式肉薄攻撃艇を装備した陸軍海上挺進戦隊が初の出撃を行い、歩兵揚陸艇1隻を撃沈、駆逐艦2隻・戦車揚陸艦3隻・輸送船1隻を損傷させる戦果を挙げた他、第23師団と独立混成第58旅団、それに第23師団に配属された戦車第2師団の重見支隊(支隊長:重見伊三雄少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)が迎撃にあたった。1月16日夜には第23師団及び独混第58旅団のそれぞれ1個大隊が重見支隊の支援を受けて夜襲をかけ、予想以上の戦果を出すなどの積極的な活動を見せていた。しかし下旬にもなると沿岸の第23師団の第一線陣地は分断・包囲され、北部担当の独混第58旅団や東部内陸の第10師団も次第に消耗していた。27日にはサンマヌエルで重見支隊が全滅し、重見少将も戦死した。 北上するアメリカ軍第1軍団は、ルパオやサンホセなどで戦車第2師団主力の迎撃を受け、激しい戦車戦が発生した。2月中旬までに日本軍戦車はほぼ全滅したが、この間に、北部の日本軍は山地へと物資を輸送し持久戦の態勢を構築することに成功していた。
※この「連合軍の上陸」の解説は、「ルソン島の戦い」の解説の一部です。
「連合軍の上陸」を含む「ルソン島の戦い」の記事については、「ルソン島の戦い」の概要を参照ください。
- 連合軍の上陸のページへのリンク