マニラ攻略とは? わかりやすく解説

マニラ攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:51 UTC 版)

フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「マニラ攻略」の解説

第14軍一部12月8日離島バタン島10日ルソン島北端アパリビガン12日ルソン島南端レガスピー上陸し現地飛行場確保して航空部隊前進させた。第14軍主力(第48師団および第16師団上島支隊左側支隊)は22日リンガエン湾に、第16師団主力24日東岸ラモン湾に上陸したリンガエン湾では天候急変して高さ2メートル上の波浪生じ米比軍北部ルソン部隊一部による抵抗もあって上陸作戦難航したが、先にビガン上陸していた田中支隊による側面攻撃間に合い米比軍撤退したラモンの上陸戦闘ではベルリンオリンピック棒高跳大江季雄戦死している。 そのころマッカーサー司令官は、古いオレンジ計画立ち戻りマニラ湾挟んでマニラ向かい側バターン半島コレヒドール島立てこもる決断をしていた。22日ジョージ・マーシャル参謀総長至急電を送って許可要請しマーシャル撤退了承した23日マッカーサー配下各部隊長に方針伝達しアメリカ極東軍司令部フィリピン政府バターン半島への移動開始した12月26日午後12時陸軍第14軍主力予定通り上陸させることに成功した日本海軍第二期兵力部署発令日本海軍フィリピン作戦大部終え主力次の蘭印作戦移行した日本陸軍マニラ平野東側を第48師団西側上島支隊進撃し東海岸からも第16師団首都マニラ目指した。自動車編成の第48師団に対して上島支隊自転車調達し銀輪部隊となってこれに負けないスピード進撃続けた。だが30日上島支隊フィリピン第21師団対戦してこれを撃破したものの、連隊長上島良雄大佐流れ弾受けて戦死する日本軍南北からマニラ迫り、同市は26日無防備都市宣言をした。1942年1月2日午後マニラ第14軍リンガエン湾上陸からわずか11日陥落した第14軍司令官本間雅晴中将マニラ入城にあたり将校800名を集めて1時間渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」違反したものは厳罰処す訓示行い将校各部隊に戻ると兵に軍司令官訓示伝えた第14軍主計将校マニラ陥落後に東京陸軍省報告に来た際、マニラ陥落直後日本軍幹部将校たちがマニラ大学女子学生たちを強姦したことを自慢げに報告していたと、当時陸軍省勤務だった鹿内信隆証言している。

※この「マニラ攻略」の解説は、「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の解説の一部です。
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