マニラ攻略
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「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の記事における「マニラ攻略」の解説
第14軍の一部は12月8日に離島のバタン島、10日にルソン島北端のアパリとビガン、12日にルソン島南端のレガスピーに上陸し、現地の飛行場を確保して航空部隊を前進させた。第14軍主力(第48師団および第16師団上島支隊と左側支隊)は22日にリンガエン湾に、第16師団主力は24日に東岸のラモン湾に上陸した。リンガエン湾では天候が急変して高さ2メートル以上の波浪を生じ、米比軍北部ルソン部隊の一部による抵抗もあって上陸作戦は難航したが、先にビガンに上陸していた田中支隊による側面攻撃が間に合い、米比軍は撤退した。ラモン湾の上陸戦闘ではベルリンオリンピック棒高跳の大江季雄が戦死している。 そのころマッカーサー司令官は、古いオレンジ計画に立ち戻り、マニラ湾を挟んでマニラと向かい側のバターン半島とコレヒドール島に立てこもる決断をしていた。22日にジョージ・マーシャル参謀総長へ至急電を送って許可を要請し、マーシャルも撤退を了承した。23日、マッカーサーは配下の各部隊長に方針を伝達し、アメリカ極東軍司令部とフィリピン政府もバターン半島への移動を開始した。 12月26日午後12時、陸軍第14軍主力を予定通り上陸させることに成功した日本海軍は第二期兵力部署を発令。日本海軍はフィリピン作戦の大部を終え、主力は次の蘭印作戦に移行した。 日本陸軍はマニラ平野の東側を第48師団、西側を上島支隊が進撃し、東海岸からも第16師団が首都マニラを目指した。自動車編成の第48師団に対して、上島支隊も自転車を調達し銀輪部隊となってこれに負けないスピードで進撃を続けた。だが30日、上島支隊はフィリピン第21師団と対戦してこれを撃破したものの、連隊長上島良雄大佐は流れ弾を受けて戦死する。 日本軍は南北からマニラへ迫り、同市は26日に無防備都市宣言をした。1942年1月2日午後、マニラは第14軍のリンガエン湾上陸からわずか11日で陥落した。 第14軍司令官本間雅晴中将はマニラ入城にあたり将校800名を集めて1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」違反したものは厳罰に処すと訓示を行い、将校は各部隊に戻ると兵に軍司令官の訓示を伝えた。 第14軍の主計将校がマニラ陥落後に東京の陸軍省に報告に来た際、マニラ陥落直後に日本軍の幹部将校たちがマニラ大学の女子学生たちを強姦したことを自慢げに報告していたと、当時陸軍省勤務だった鹿内信隆は証言している。
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