マニラ攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:53 UTC 版)
詳細は「マニラの戦い (1945年)」および「マニラ大虐殺」を参照 アメリカ軍はフィリピンの首都マニラの奪還を重視した。リンガエン湾から南下した2個師団のほか、1月30日には第8軍所属の第11軍団がバターン半島の付け根付近スービック湾に位置するサンアントニオから上陸し、翌31日にはマニラ南西ナスグブにもアメリカ軍第24軍所属の第11空挺師団が上陸、さらに2月3日には第511空挺連隊がパラシュート降下して、いずれもマニラに向かって進撃を開始した。対する日本軍はマニラを含む南部一帯は振武集団の担当地区とし、マニラ市街地と周辺には陸戦隊であるマニラ海軍防衛隊(「マ海防」司令官:岩淵三次海軍少将)と指揮下の陸軍野口部隊などが布陣していた。また、バターン半島には建武集団の永吉支隊が配置されていた。 アメリカ軍がマニラに突入したのは2月3日のことである。約1ヶ月間の激しい市街戦が行われた。日本軍は振武集団本隊の6個大隊をもって総攻撃に出て、支援を試みたが撃退された。野口大佐は25日に戦死、岩淵少将は2月26日に自決、3月3日にマニラは連合軍が制圧するところとなった。この市街戦による日本軍側の死者は約12000人、連合軍側の損害は戦死約1000人、戦傷約5500人(リンガエン湾上陸以来の累計では死傷約25000人)に達したほか、10万人以上のマニラ市民が犠牲になり、市街地中心部は廃墟と化した。第14方面軍は元々、マニラを戦場にせず無防備都市として開放するという方針であったが、海軍が頑強に市街戦にこだわったのと、大本営もマニラ放棄を認めなかったため起こった悲劇であった。 バターン半島およびコレヒドール島でも戦闘が行われた。バターン半島の永吉支隊(支隊長:永吉大佐、歩兵第39連隊の2個大隊基幹の3500人)は、1月30日に上陸した米第38歩兵師団と第24歩兵師団の1個連隊基幹からの猛攻を受けた。コレヒドール島要塞では振武集団指揮下のマニラ湾口防衛隊(司令官:板垣昂海軍大佐、臨時歩兵1個大隊など陸軍1500人と海軍兵3000人)が防衛にあたっていたが、1月22日より米軍の猛烈な艦砲射撃と空襲、さらには対岸からの砲撃を受け始めた。コレヒドール島守備隊は2月15日に特攻艇震洋36隻を出撃させたが、戦果は上陸支援艇3隻にとどまった。2月16日に米第24歩兵師団の一部により上陸が開始され、第503空挺連隊もパラシュート降下した。日本軍は要塞のトンネルを駆使して夜襲による抵抗をしたが、17日に板垣大佐が戦死するなど指揮系統が破壊され、20日以降は大規模な反撃はできなくなった。3月に入ると遂に島を脱出せざるをえなくなり、残存兵力約300名のみが永吉支隊へと合流した。マニラ湾内の他の島にも連合軍が上陸し、地下施設に石油を流して点火するなどの攻撃で日本軍を制圧した。3月頃の日本軍残存兵力は永吉支隊とコレヒドール支隊の合計で1500名であり、9月上旬に建武集団本隊とともに投降した時には僅かに約280名だった。これらのバターン戦における損害は、日本側が戦死4497名で、連合軍側が戦死228名と戦傷727名であった。なお、コレヒドール島には終戦後も日本兵が潜んでおり、1946年1月に18名が収容された。 バターン地区の日本軍がおおむね制圧されたことにより、マニラ港は連合軍側の重要な兵站拠点として使用開始された。
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