夜襲
夜戦
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夜戦(やせん、英: night combat)は、夜間における作戦・戦闘。夜間戦闘(やかんせんとう)とも。また、夜戦により敵に攻撃を仕掛ける戦術を夜襲(やしゅう、英: night attack・night raid[1])という。
注釈
- ^ 敵の不意を突く時間に攻めるという点では、早朝に攻め込む(朝駆け)の事例も多いので、奇襲が全て夜襲(夜討ち・夜駆け)という意味ではない。
- ^ 『保元物語』では源為朝の献策だが、『愚管抄』では源為義が献策したとされている。
- ^ 誘導兵器が発達した現代空中戦においても、夜戦では同士討ちの危険性はあり、友軍機のミサイルをかすめたといった逸話もある(ヒストリーチャンネル『ドッグファイト 〜華麗なる空中戦〜』シーズン2・第18回「夜間戦闘機」を参照 [出典無効])。
- ^ ただし、日中に始まった戦闘が夜通し続けられた戦い(ユトランド沖海戦など)、奇襲を目的として未明頃(夜明け前後)に主要な戦闘が開始された戦い(保元の乱の白河殿夜討など)、戦闘部隊による交戦が殆ど生じていない空襲(東京大空襲など)は除外している。
出典
- ^ night raid - Weblio(クロスランゲージ 37分野専門語辞書)
- ^ 夜襲 - goo辞書(大辞泉)(2020年9月24日閲覧)
- ^ 夜討ち - goo辞書(大辞泉)(2020年9月24日閲覧)
- ^ 関八州古戦録(歴史群像シリーズ 決定版戦国合戦地図集 2008年 学習研究社)
- ^ 歴史群像シリーズ9 毛利元就 1988年 学習研究社
- ^ 渡辺洋二 『液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼』 文春文庫、2006年、p.416
- ^ アフガン米司令官、夜襲を制限 市民の反発回避へ - 共同通信 2010年3月6日(47NEWS)
- ^ タリバーン封じ、夜襲頼み 米兵「爆弾を作っているのは誰だ」 アフガンあす大統領選 - 朝日新聞 2014年4月4日
- ^ 磯田道史『日本史の探偵手帳』文春文庫、2019年、p.119.
- ^ 山口博『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』角川ソフィア文庫、2015年、p.189.
- ^ 鈴木茂乃『天狗党の跡を行く』暁印書館、1983年、pp.71-72.
- ^ 大録義行編『那珂の伝説 下』筑波書林、1984年、pp.125-126.
夜襲
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「タウロメニオン包囲戦」の記事における「夜襲」の解説
ギリシアの歴史上最も有名な包囲戦はトロイアに対するものであるが、夜襲で決着がついている。ディオニュシオスも夜襲を好み、モティア包囲戦と第一次シュラクサイ包囲戦では夜襲を成功させていた。ディオニュシオスはシケル人を欺くトロイアの木馬のような物は持っていなかったが、まさに三度目の方法を見つたところであった。 ギリシア軍がナクソスに野営地を設営したとき、シケル人はこれに抵抗しなかった。冬至が近づくとタウロス山を雪が覆い、ギリシア軍はタウロメニオンの要塞の一つの警備が緩んでいることを確認した。ディオニュシオスは月明かりのない荒天の夜を選び、選抜された傭兵を率いて、おそらくは現在ギリシア劇場が建っている場所にあった要塞の城壁を梯子で乗り越えた。寒さと渓谷の凹凸のため彼らの姿は闇に隠れ、ディオニュシオス自身は顔に傷を負ったものの、容易にアクロポリスを占領することができた。
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夜襲
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7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。 戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。 攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。
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夜襲
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「アゲル・ファレルヌスの戦い」の記事における「夜襲」の解説
規定の時刻にカルタゴ兵は起き、可能な限り静かに行軍を開始した。一方雄牛部隊は鞍部に向かい、斜面に差し掛かったところで角に結び付けていた薪に火がつけられた。雄牛は恐怖に駆られ、狂ったように鞍部の斜面を駆け上がり、数千の松明が山際を動き回った。この灯りと騒音はファビウスのローマ本軍と峠を守る分遣隊双方の注意を引いたが、両者の反応は異なっていた。 彼の部下とミヌシウスが促したにもかかわらずファビウスは陣地を離れなかった。兵士は武装し出動準備ができていたが結局は動かなかった。ファビウスは夜戦を行うつもりはなかった。平坦でない場所での戦闘では、ローマ歩兵はその強みを失い、戦列が崩されてしまう可能性があり、また連絡網も妨害されることを恐れたためである。ハンニバルはトレビアとトラシメヌス湖畔の戦いの双方において策略によりローマ軍を打ち破っていたため、ファビウスは自分の軍がその二の舞になるのを恐れた。このため、ローマ軍は面子を失いはしたものの、軍自体を失ってしまうことは無かった。 峠に布陣していたローマ分遣隊には、ファビウスのように引き止めるものがいなかった。カルタゴ本軍が攻撃をかけてきたものと信じ、その攻撃のために持ち場を離れた。ローマ軍が峠の持ち場を離れると、ハンニバルの本軍はアフリカ歩兵を先頭に騎兵、輸送部隊、家畜の順に野営地を出発し、ケルト歩兵とイベリア歩兵が後衛となってこれを守った。ファビウスが攻撃を仕掛けてこなかったため、カルタゴ軍は妨害されること無く峠を通過した。鞍部に向かったローマ軍は、その灯りの正体を知って驚愕した。雄牛が暴れまわりローマ軍の戦列を崩し、カルタゴの槍兵が待ち伏せしてており、大混乱が発生した。夜が明けるとイベリア歩兵が鞍部の斜面を登ってこの混乱に加わってきた。イベリア人は山岳戦闘の達人であり、ローマ軍を蹴散らして1,000人以上を殺し、ローマ軍が反撃してくる前に非戦闘員、槍兵、そしていくらかの雄牛を救出した。
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