夜襲攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
渡河攻撃に失敗した小林兵団は『作命甲112号』により安岡支隊と合流し、ハルハ河東岸のソ連軍陣地を攻撃することとした。作戦としては戦車第3、第4連隊と砲兵の支援の下で、歩兵第26、64、71連隊が主攻正面を攻撃し、歩兵第72連隊が大きく迂回し背後からソ連軍陣地を挟撃しようとするものであったが、日本軍が攻撃に出る前の5日にソ連軍が、新たに東岸に到着した第5狙撃機関銃旅団を主戦力として大規模な威力偵察を行い、激戦の中で戦車第4連隊が大きな損害を被り、関東軍の意向で日本軍戦車部隊が全て戦場を離れることとなったため、安岡が6日に予定していた総攻撃は延期せざるを得なくなった。 支援する味方の戦車は1輌もなく、西岸高台からの152mm砲を主力とするソ連軍の砲火は引き続き強力な状況で、小松原は、歩兵の夜襲で敵の縦深陣地を1つずつ突破し、日が明けたら砲火を避けるために奪った拠点を捨て発進点まで戻るといった攻撃を連日繰り返し、ソ連軍の消耗を誘い、ハルハ河まで達したらソ連が架橋した橋を撃破し、東岸のソ連軍を干上がらせるといった作戦を実施することとした。 7月7日から開始されたこの大規模な夜襲戦法は、ソ連軍には全くく予想外のことで、第149自動車化狙撃連隊の第1大隊は慌てて退却したため、放置した対戦車砲と76mm野砲を日本軍に鹵獲された。第3大隊も周囲の状況も見ずに退却したため、第175砲兵連隊第6中隊が中隊長のアレーキン上級中尉ごと日本軍内に取り残され、日本軍との激戦の末に全滅している。また、夜襲を支援した日本軍の砲撃も効果的であり、前線指揮官であるレミゾフ(ロシア語版)第149自動車化狙撃連隊長は8日に砲弾を受け戦死している。レミゾフはソ連邦英雄の称号が与えられ、戦死した高地はレミゾフ高地と呼ばれることとなった。 真っ暗闇の中での日本軍の夜襲でソ連兵は混乱の極に達し、味方同士での同士討ちまで起こっており、損害が増大しソ連軍陣地は危機に陥った。その知らせを受けたジューコフは、西岸で待機していた第7装甲車旅団と第82狙撃兵師団第603狙撃兵連隊を東岸に増派することとしたが、第603狙撃兵連隊は第一次ノモンハン事件直後にウラル軍管区のベールシェチ駐屯部隊を急遽かき集めて編成された寄せ集め部隊であり、部隊は7月にモンゴルに到着するや300 kmの過酷な徒歩行軍をすることとなったが、その行軍途中で指揮官らは識別票や階級章をはぎ取り身分を隠そうとしたり、多くの自傷事件を引き起こしていた。また一部では反共産党分子が兵士らを唆し、指揮官の殺害を企てたりしていた。そのように軍としての体裁が整っていないような部隊であったので、10日に自動車で東岸に着くや否や、日本軍の数発の銃声を聞いただけで連隊はパニックに陥り潰走し、大損害を被った。ジューコフは第603連隊を西岸に呼び戻すと、軍法会議により容赦なく銃殺刑に処し、再訓練を施したが「なんでこんな弱体部隊を投入したのか」という非難を受けることとなった。また、日本軍の夜襲で脆くも後退を繰り返していた第149狙撃兵連隊においても、連隊司令部が督戦により兵士らを厳格に処し、部隊をどうにか元の防衛線の位置まで戻している。 日本軍は夜襲と並行して、ソ連軍が架橋した軍橋を爆破するための工作班を8チーム編成し、ハルハ河に向かわせた。ソ連軍の警戒厳しくなかなか軍橋に接近できなかったが、7月8日の深夜2時に、歩兵第72連隊で編成した高山正助少尉以下60名の高山班が軍橋への接近に成功した。軍橋に接近する途中で野営しているソ連兵に誰何されたが、高山の片言のロシア語で誤魔化して突破すると、軍橋の歩哨を手榴弾で倒し、軍橋に爆薬を大量に仕掛け爆破に成功している。他部隊が他に1本の爆破に成功し、合計2本のソ連軍軍橋を撃破したが、この時点で既に9本の軍橋が架かっており、ノモンハン事件終結時にはこれが28本にまで増加していたので焼け石に水であった。 ソ連軍司令部がいくら厳格な処置を行っても、日本軍の夜襲にソ連軍兵士は混乱し、退却し続けた。11日の夜には、第1次ノモンハン事件で中心となって戦った山県連隊長率いる歩兵第64連隊が総力を挙げて夜襲を決行している。夜襲を受けた第5狙撃機関銃旅団の旅団長フェドルコーフが予告もなしに退却したため、日本軍の歩兵第64連隊の1個中隊が前線を突破しソ連軍陣地奥深くの第11戦車旅団の司令部まで達し、激戦の中で第11戦車旅団のミハイル・パブロビッチ・ヤコヴレフ旅団長までが戦死した。しかし中隊はソ連軍の集中攻撃を受け、最後は穴の中で包囲され全滅した。この穴は後に『サムライ墓』と呼ばれるようになった。山県はさらに前進を続けソ連軍がレミゾフ高地と名付けた重要拠点バルシャガル (733) 高地を占領した。 日本軍の夜襲はソ連軍に大きな損害と混乱を与えたが、日本軍の損害も次第に蓄積しており、一連の夜襲で日本軍は2,122名の死傷者(内戦死585名)を被り損失率は23%となった。中でも山県の第64連隊は、戦死107、負傷221名で損失率は33%と一番高くなった。結局、夜襲して敵を叩いて戻るという戦術では、一部の拠点の占領には成功できたが、大きく前線を前進させることはできず、夜襲作戦開始時には「左(西)岸にある敵砲兵の妨害あるも、右(東)岸の敵を撃破するは時間の問題なり」や「今日、明日位の攻撃を以って右(東)岸を占領し終わるべく」などときわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。 ソ連の状況も厳しく、前線を視察に来た国防人民委員代理のクーリクは、ハルハ河東岸陣地のソ連軍の苦境を見てジューコフに7月13日に全軍西岸に撤退させるよう指示したが、ジューコフは拒否している。後にこの一件についてジューコフから報告を受けたヴォロシーロフ国防相はクーリクをモスクワに召還し、戦闘指揮への介入について叱責している。 ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力を合わせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。
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