大砲撃戦とは? わかりやすく解説

大砲撃戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「大砲撃戦」の解説

関東軍は、参謀本部への対抗心からか、独自の戦力資材戦おうとする意気込み強く参謀本部第5師団増派打診したことがあったが辞退している。しかし、6月22日参謀本部から打診があった重砲2個連隊増派については、歓迎はしなかったものの現実的な判断受け入れている。しかし、独力に拘ったためか、7月からのハルハ河渡河作戦にこの重砲隊を間に合わせようという意識全くなかった。 しかし渡河作戦失敗し東岸夜襲攻撃行っていた10日頃には投入前提準備開始され千葉から増派された野戦重砲兵第1連隊野戦重砲兵第7連隊の2個連隊を編合した野戦重砲第3旅団指揮官畑勇三郎少将)と関東軍指揮下の3個重砲連隊統合して砲兵団」を編成し団長には関東軍砲兵司令官内山英太郎少将補職した。 内地から増派された砲兵旅団15センチ加農砲などの大口重砲主力に、最新自動車牽引砲兵として、日本軍中でも精鋭虎の子扱いであった。 「砲兵団」は合計82門の重砲野砲保有したが、これは1939年3月南昌攻略戦投入され90門に匹敵する規模であった日本軍でこの規模砲兵投入されることはほとんどなく、「建軍いらい」と誇称されていた。そのため内山団長は「3時間でソ蒙軍砲兵撲殺され、射撃目標なくなってしまう」と胸張り戦闘計画書には「攻撃1日、全砲兵をもって一挙にソ軍砲兵撲滅し、かつ橋梁破壊すると共に事後主力をもって歩兵攻撃に強力す」と書かれていたほどであった。 しかし、砲弾29,130発し準備されておらず、日華事変最中弾薬消費激しく今後補給のあてもなかった。この砲弾数でまともにソ連軍撃ち合えば半日なくなってしまう量であったが、日本軍はこれを振り分けて使うしかなかった。例え十五加農砲一日60発し砲弾割り当てられなかった。砲兵団が弾薬不足にも関わらず強気であったのは、自分部隊戦力過信していたのと、ソ連軍火砲今まで戦場での観察をもとに合計76門と判断していたからで、数が互角なら精鋭わが軍日本軍)が有利と判断していたためであるが、実際にソ連軍がこの地域投入した76 mm上の野砲108門、中でも10 cm上の重砲は、日本軍38門に対しソ連軍76門だから二倍の数であった。また砲兵部隊とは別に76 mm連隊砲70門も砲撃戦投入されたため、重砲でも火砲全体でも日本軍の2倍の数があり、さらに砲弾数は比較ならないほど多かった砲兵団は7月23日日本軍総攻撃支援として、6時30分に砲撃開始した。まずは敵の砲の位置暴露するための誘致砲撃行い応射してきたソ連軍砲兵陣地位置特定し全砲で集中砲撃行った日本軍砲撃によりしばしばソ連軍応射沈黙し日本軍砲兵は「我が砲弾による命中粉砕」と喜んだが、実際日本軍砲兵陣地からの目視可能な西岸高台上から後背地移動しただけで、まもなく砲撃再開してきた。日本軍砲兵陣地稜線遮られ平地にあったため、ソ連軍応射破壊される砲はなかったが、同様にソ連軍火砲一向に勢い衰えず、「友軍重砲が3〜4時間も撃ったんだから、もう撃滅できただろう」とたかをくくり出撃した日本軍歩兵激しソ連軍砲撃によりほとんど前進できない有様であった。 『ジューコフ最終報告書によればソ連軍10 cm上の重砲のみで7月1カ月消費した砲弾31,705発であり、これは総攻撃に際して日本軍砲兵全部準備した砲弾の数を上回っていた。日本軍歩兵損害を出すばかりで総攻撃わずかに前進しただけで頓挫した。 もともと日本軍砲陣地より50 m高い西岸高台位置していたソ連軍砲陣地は、日本軍観測所から奥までは見通し効いていなかった上、日本軍砲兵、特に内地から増派された野戦重砲第3旅団訓練不足もあり、砲撃正確性欠いた(#日本とソ連砲兵隊の比較)。野戦重砲第3旅団には千葉駐屯していた気球連隊から百一気球2個と200名の部隊帯同しており、日本軍観測所から死角になっていたハルハ河西岸後方観測するため、25日その内1個の気球掲揚され900 mの高度に達したが、観測する間もなくソ連軍戦闘機撃墜された。この光景戦場至る所から視認され、日本軍兵士士気落としている。 畑は砲兵情報連隊測定分析により「完全破壊確認した敵砲数は24門、他に損傷させたもの20余門で、3日間で敵砲兵戦力半減せしめたのに対し、わが重砲損失は2門のみであった」と勝ち誇ったが、ジューコフによれば7月23日には敵砲兵はわが重砲弾の破砕狙って1万発と推定される大量砲弾撃ち込んだが、ハルハ河西岸沿った15〜20kmに広くばらまかれ多く空き地落下した一日かかっても敵は1個砲兵中隊制圧できず、歩兵にも被害は殆どなかった」とのことであったので、畑の見立てほどの大損害を与えていなかったのは明らかであったが、#日本とソ連砲兵隊の比較ソ連軍の主要火砲投入数と損失数一覧表の通りノモンハン事件ソ連軍10 cm上の重砲だけでも36門が撃破されているので、相応損害与えていたのも確実であった。しかし、火砲効果的な運用行ったのはソ連軍の方であり、ソ連軍は弾量の過半日本軍砲兵との撃ち合いに使うのではなく日本軍歩兵部隊集中することにより、日本軍の攻勢挫折させる同時にソ連軍東岸橋頭堡援護するという二重の目的果たしている。 日本軍砲兵団は3日目25日には砲弾使い果たし沈黙した逆にソ連軍勢い衰えどころか援軍到来もあり増す一方であったので、小松原は「砲兵効果予想に反せり、何等砲兵助力予期せずにて、歩兵攻撃続行せざりしやを悔やむ、我過てり」と砲兵への失望感露わにしている。

※この「大砲撃戦」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「大砲撃戦」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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