大砲撃戦
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関東軍は、参謀本部への対抗心からか、独自の戦力や資材で戦おうとする意気込みが強く、参謀本部が第5師団の増派を打診したことがあったが辞退している。しかし、6月22日に参謀本部から打診があった重砲2個連隊の増派については、歓迎はしなかったものの現実的な判断で受け入れている。しかし、独力に拘ったためか、7月からのハルハ河渡河作戦にこの重砲隊を間に合わせようという意識は全くなかった。 しかし渡河作戦が失敗し、東岸の夜襲攻撃を行っていた10日頃には投入を前提に準備が開始され、千葉から増派された野戦重砲兵第1連隊と野戦重砲兵第7連隊の2個連隊を編合した野戦重砲第3旅団(指揮官畑勇三郎少将)と関東軍指揮下の3個重砲連隊を統合して「砲兵団」を編成し、団長には関東軍砲兵司令官内山英太郎少将を補職した。 内地から増派された砲兵旅団は15センチ加農砲などの大口径重砲を主力に、最新自動車(牽引)砲兵として、日本軍の中でも最精鋭の虎の子扱いであった。 「砲兵団」は合計82門の重砲・野砲を保有したが、これは1939年3月の南昌攻略戦で投入された90門に匹敵する規模であった。日本軍でこの規模で砲兵が投入されることはほとんどなく、「建軍いらい」と誇称されていた。そのため内山団長は「3時間でソ蒙軍砲兵は撲殺され、射撃目標はなくなってしまう」と胸を張り、戦闘計画書には「攻撃1日、全砲兵をもって一挙にソ軍砲兵を撲滅し、かつ橋梁を破壊すると共に、事後主力をもって歩兵の攻撃に強力す」と書かれていたほどであった。 しかし、砲弾は29,130発しか準備されておらず、日華事変の最中で弾薬の消費も激しく今後の補給のあてもなかった。この砲弾数でまともにソ連軍と撃ち合えば半日でなくなってしまう量であったが、日本軍はこれを振り分けて使うしかなかった。例えば十五糎加農砲は一日に60発しか砲弾が割り当てられなかった。砲兵団が弾薬不足にも関わらず、強気であったのは、自分の部隊の戦力を過信していたのと、ソ連軍の火砲を今までの戦場での観察をもとに合計76門と判断していたからで、数が互角なら精鋭のわが軍(日本軍)が有利と判断していたためであるが、実際にソ連軍がこの地域に投入した76 mm以上の野砲は108門、中でも10 cm以上の重砲は、日本軍38門に対しソ連軍は76門だから二倍の数であった。また砲兵部隊とは別に76 mmの連隊砲70門も砲撃戦に投入されたため、重砲でも火砲全体でも日本軍の2倍の数があり、さらに砲弾数は比較にならないほど多かった。 砲兵団は7月23日の日本軍総攻撃の支援として、6時30分に砲撃を開始した。まずは敵の砲の位置を暴露するための誘致砲撃を行い、応射してきたソ連軍砲兵陣地の位置を特定し全砲で集中砲撃を行った。日本軍の砲撃によりしばしばソ連軍の応射が沈黙し、日本軍砲兵は「我が砲弾による命中粉砕」と喜んだが、実際は日本軍砲兵陣地からの目視が可能な西岸高台上から後背地に移動しただけで、まもなく砲撃を再開してきた。日本軍の砲兵陣地は稜線に遮られた平地にあったため、ソ連軍の応射で破壊される砲はなかったが、同様にソ連軍の火砲も一向に勢いが衰えず、「友軍の重砲が3〜4時間も撃ったんだから、もう撃滅できただろう」とたかをくくり出撃した日本軍歩兵は激しいソ連軍砲撃によりほとんど前進できない有様であった。 『ジューコフ最終報告書によれば』ソ連軍は10 cm以上の重砲のみで7月1カ月で消費した砲弾は31,705発であり、これは総攻撃に際して日本軍が砲兵団全部に準備した砲弾の数を上回っていた。日本軍歩兵は損害を出すばかりで総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。 もともと日本軍の砲陣地より50 m高い西岸高台に位置していたソ連軍砲陣地は、日本軍観測所から奥までは見通しが効いていなかった上、日本軍の砲兵、特に内地から増派された野戦重砲第3旅団は訓練不足もあり、砲撃の正確性を欠いた(#日本とソ連砲兵隊の比較)。野戦重砲第3旅団には千葉に駐屯していた気球連隊から百一号気球2個と200名の部隊も帯同しており、日本軍観測所から死角になっていたハルハ河西岸後方を観測するため、25日にその内1個の気球が掲揚され900 mの高度に達したが、観測する間もなくソ連軍戦闘機に撃墜された。この光景は戦場の至る所から視認され、日本軍兵士の士気を落としている。 畑は砲兵情報連隊の測定分析により「完全破壊を確認した敵砲数は24門、他に損傷させたもの20余門で、3日間で敵砲兵戦力を半減せしめたのに対し、わが重砲の損失は2門のみであった」と勝ち誇ったが、ジューコフによれば「7月23日には敵砲兵はわが重砲弾の破砕を狙って約1万発と推定される大量の砲弾を撃ち込んだが、ハルハ河西岸に沿った15〜20kmに広くばらまかれ、多くは空き地に落下した。一日かかっても敵は1個砲兵中隊も制圧できず、歩兵にも被害は殆どなかった」とのことであったので、畑の見立てほどの大損害を与えていなかったのは明らかであったが、#日本とソ連砲兵隊の比較のソ連軍の主要火砲投入数と損失数一覧表の通り、ノモンハン事件でソ連軍は10 cm以上の重砲だけでも36門が撃破されているので、相応の損害を与えていたのも確実であった。しかし、火砲の効果的な運用を行ったのはソ連軍の方であり、ソ連軍は弾量の過半を日本軍砲兵との撃ち合いに使うのではなく、日本軍の歩兵部隊に集中することにより、日本軍の攻勢を挫折させると同時にソ連軍の東岸橋頭堡を援護するという二重の目的を果たしている。 日本軍砲兵団は3日目の25日には砲弾を使い果たし沈黙した。逆にソ連軍の勢いは衰えるどころか援軍の到来もあり増す一方であったので、小松原は「砲兵の効果予想に反せり、何等砲兵の助力を予期せずにて、歩兵の攻撃続行せざりしやを悔やむ、我過てり」と砲兵への失望感を露わにしている。
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