日本とソ連砲兵隊の比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「日本とソ連砲兵隊の比較」の解説
日本軍の主要火砲投入数と損失数兵器名保有数損失数(内自己破壊)八九式十五糎加農砲 6 5 (4) 九六式十五糎榴弾砲 16 11 (5) 九二式十糎加農砲 16 11 (1) 改造三八式野砲 24 34 (10) 三八式十二糎榴弾砲 12 九〇式野砲 8 2 合計 82 63 (20) ソ連軍の主要火砲投入数と損失数兵器名保有数損失数ML-20 152mm榴弾砲 36 6 M-30 122mm榴弾砲 84 26 M1910/30 107mmカノン砲 36 4 F-22 76mm野砲 52 11 M1927 76mm歩兵砲 162 14 合計 370 61 火砲の数はソ連軍が圧倒しており、口径10 cm以上の重砲では日本軍50門に対しソ連軍156門で約1対3、10 cm以下の軽砲(速射砲・歩兵砲等も含む)では日本軍277門に対してソ連軍546門で、約1対2であった。 砲の数もさることながら、消費砲弾量の差は日本軍(推計)66,000発に対しソ連軍は430,000発消費しており、比率は1対6.5にもなった。しかしこれはノモンハン事件全期間を通じての消費数であり、日本軍はハルハ河附近での大砲撃戦(7月23日から25日)で20,488発の砲弾を撃ち込んでいるが、8月のソ連・モンゴル軍の総攻撃の際は、砲弾不足による極端な砲弾の節約を迫られ、ソ連軍砲兵部隊に撃たれるがままであったため、その時の日ソの砲弾消費量の比率は1対10以上になっていたものと推定される。 砲の性能については、様々な評価はあるものの、川上清康砲兵大尉によれば、「威力性能はソ連火砲に些かも劣らず。とくに十五榴と90野砲は威力を十分発揮した」とソ連軍火砲との性能差は感じないとした上で、九六式十五糎榴弾砲と九〇式野砲を高く評価していた。敵のジューコフも「我が方をしのぐ長距離の重砲」と射程の面ではむしろ日本軍重砲の方が上回っていたと評価している。 しかし砲の運用についてはソ連軍の方が勝っており、川上は「陣地変換を煩雑に実施する、射撃すると直ちに後退するが如し」とソ連の火砲の巧みな運用について指摘している。一方、ソ連軍のジューコフは逆に日本軍の砲兵について「射撃陣地の変更を好まず、機動性に全く欠いていた」や「敵砲兵は優秀な測量隊を持ち、航空写真も活用して精度の高い地図を用意した。…有利な観測地点と射撃陣地に恵まれていたのに、訓練は不十分で、とりわけ歩兵との連携は稚拙だった」と辛辣な評価をしていた。訓練が不十分であったことは日本軍自身も自覚しており、特に『虎の子』との評価を受けて内地から増派された野戦重砲第3旅団について「実戦の経験者が皆無に近く、訓練も精致と称するには程遠い実情」と旅団長の畑は考えていた。 日本軍の観測隊は九八式直接協同偵察機を飛ばして弾着修正を試みていたが、日本軍砲兵隊は砲撃がそろわずバラバラで、砲弾の多くはソ連軍陣地外の空き地に着弾していたため、それを空から見ていた観測将校が「そんな下手な射撃はやめてしまえ」と呆れて無線で怒鳴りつけて帰ってしまったこともあった。 ノモンハン戦後に大本営研究班の主任として戦訓調査に当たった小沼治夫少佐は日本軍とソ連軍の砲兵を以下のように比較評価している。 (日本軍の)砲兵将校能力劣る。射向1キロ広がり(砲弾が)集まらぬ中隊あり。 敵(ソ連軍)砲兵、予備陣地や掩砲所に隠れる。牽引車にて後へ下がる。 上表の各砲の損失数には敵軍に鹵獲されたものも含まれている。日本軍の重砲に自己破壊が多いのは、8月20日からのソ連軍の総攻撃で設置されていたバルシャガル高地(733高地、ソ連名レミゾフ高地)がソ連軍に包囲されたため、ソ連軍に奪われないよう破壊したものであるが、敵の攻撃下で徹底した破壊ができなかったため、多くの火砲が大きくは破損していない状態でソ連軍に鹵獲された(日本軍の主力重砲の八九式十五糎加農砲は戦場に投入した6門の内5門までがソ連軍に鹵獲されている)ソ連軍の総攻撃で砲兵陣地間近までソ連軍戦車に迫られた重砲隊は、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と戦い、大きな損害を与えたが全滅している。
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