日本とソ連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:08 UTC 版)
詳細は「中ソ紛争」および「日ソ国境紛争」を参照 1918年から1922年までの間、日本軍はシベリア出兵に伴いウラン・ウデやチタなどのバイカル湖東部に至るロシア極東を占領、短期間ではあるが外満洲と内満洲とをあわせて支配した。この出兵は1925年の北樺太撤退を以って終了した。 満洲事変と満洲国建国のあと、関東軍は極東のソ連軍に備えるべく鉄道敷設や部隊配置、入植地建設などを行い、ソ連侵入に抵抗できる防衛線の整備を急いだ。一方、1930年代から第二次世界大戦までの間、帝国陸軍の皇道派将校や関東軍、その他一部の国民の間では北進論(満洲及びシベリアへの進出を目標とする政策)が高まり、皇道派などによってソ連極東への侵攻計画が立てられたこともあった。「B計画」などと呼ばれたこの計画は、ハバロフスク、沿海地方、オホーツク海沿岸、カムチャツカ半島、ウラン・ウデ、外蒙古までの占領を意図したもので、この地の占領統治またはソ連への緩衝地帯形成を目的としていた。 清とロシアの画定した国境の不確かさにより外満洲と内満洲の間の国境紛争も発生した。張鼓峰事件・ノモンハン事件などといった事件はこうした国境争いであると同時に北へ進む大きな戦略の一部であったといえたが、アメリカの対日全面禁輸が発動されると、北進論は弱まり海軍の南進論が勢いを増すこととなった。 外満洲では日本軍に対するソ連軍の増強が1930年代より進められ、1945年8月のソ連参戦においては満洲国への侵攻のための基地となった。短期間、外満洲と内満洲はソ連のもとで支配されたが、1949年に内満洲は新しく成立した中華人民共和国に接収されソ連軍は撤退した。
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