北東アジアの国際情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「北東アジアの国際情勢」の解説
1917年のロシア革命で共産主義の波及を恐れた日本はイギリス、フランス、イタリアと共にロシア内戦への干渉を決定。1918年にチェコ軍団救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。 両国の勢力圏の中間にある満州地域は、中華民国の軍閥時代である1920年代後半には奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏(易幟)した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争(中東路事件)で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。
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