ハバロフスク議定書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 14:12 UTC 版)
軍事的敗北と国内情勢の悪化から、中国は停戦を模索し始めた。当時の駐独大使だった蔣作賓の要請に応えてドイツ政府が調停作業を進め、ベルリンにおいて交渉が行われたが、ソ連は全く譲歩の意志を見せず、斡旋工作は失敗した。11月26日、国民政府は、各国の調査団が現地を訪問して侵略の実態を調査してほしいと訴えた。アメリカのヘンリー・スティムソン国務長官は、これに応えて英仏を勧誘し、12月1日に米・英・仏の3カ国共同声明を発表した。声明の内容は、ソ連の行為を不戦条約違反であると非難するとともに、調停に立つ用意があるとして停戦を要請するものであった。しかし、12月3日、ソ連は、自衛戦争であって不戦条約違反ではなく共同声明は不当な干渉だと回答し、第三者の介入を拒否して直接交渉に応ずるとした。 12月16日からハバロフスクにおいて、中国側代表の蔡運升とソ連外務人民委員会代表A・シマノフスキーによる中ソの直接交渉が行われ、22日にいわゆるハバロフスク議定書(zh)が調印された。その内容は、 ソ連理事、管理局長、副管理局長の復職。 衝突期間内の逮捕者の相互釈放。 ソ連人職員の免職処分の取消し、停職期間中の給与の支払。 中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。 中ソ双方の領事館と商業機構の再開。 というものであった。 ハバロフスク議定書調印を受けて、12月25日にはソ連軍は撤収を完了した。翌1930年1月10日以降、中東鉄道の運航も次第に回復した。 ところが、国民政府は、ハバロフスク議定書はソ連側の主張を一方的に認めたものとして批准せず、交渉の再開を求めた。新たに中東鉄道理事長の莫徳恵が全権としてモスクワに派遣されたが、ソ連はハバロフスク議定書の有効性を主張し、1930年10月から25回に及んだ会談においても何の成果も得られなかった。この国民政府の行動の背後には、中ソの接近を警戒する列強の支持があったと見られる。中ソ間の中東鉄道交渉は、満洲事変の勃発により、1931年10月末をもって事実上の中止となった。
※この「ハバロフスク議定書」の解説は、「中ソ紛争」の解説の一部です。
「ハバロフスク議定書」を含む「中ソ紛争」の記事については、「中ソ紛争」の概要を参照ください。
- ハバロフスク議定書のページへのリンク