満洲事変とは? わかりやすく解説

満洲事変

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満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体滿洲事變英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍[注釈 1]ポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満洲中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変[注釈 3]




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満洲事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「満洲事変」の解説

柳条湖事件」および「満洲事変」も参照 1931年9月18日関東軍は、張学良北平滞在し奉天軍閥主力長城以南結集、さらに残存留守部隊東三省分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖満鉄線路爆破事件柳条湖事件)を引き起こした。そして、それを中国側仕業発表して懸案満洲占領作戦実行うつした関東軍作戦計画は、各部隊迅速に奉天集中させ、戦闘開始劈頭東北軍主力叩き、その権力中枢麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的容易であるという考えであったいずれにしても関東軍第2師団独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって留守部隊とはいえ戦車航空機重火器若干毒ガス兵器装備した張学良20万余対峙したのである関東軍野戦訓練重ね24センチ榴弾砲秘密裏奉天運び入れて夜襲威嚇射撃により相手虚を突く軍事行動展開した実際榴弾砲轟音地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れた。北平にあった張学良日本軍挑発乗らないよう無抵抗指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間占領された。 柳条湖事件勃発のときから政府陸軍謀略であることを強く疑っており、9月19日本庄繁関東軍総司令官からの増援要求一蹴されていた。閣議でも不拡大方針確認され幣原喜重郎外相井上準之助蔵相南次郎陸相対し部隊の原駐地への帰還強く迫った。そこで関東軍吉長経由吉林第2師団主力送り込み、わざと奉天警備手薄にして朝鮮軍来援要請したが、9月19日金谷範三参謀総長出兵制止した関東軍9月21日には吉林占領し同日かねてより来援要請されていた林銑十郎司令官とする朝鮮軍独断鴨緑江をわたり、満洲入った。本来、国境越えて出兵は軍の統帥権有する天皇許可必要だったはずだが、はその規定無視した。そして9月28日までには袁金鎧奉天地方維持委員会委員長に、煕洽吉林省長官誘い出して彼らを用いて奉天省吉林省張学良からの独立宣言させた。黒竜江省占領ねらったが、早期占領は無理と判断する黒竜江省首席代表の馬占山とは妥協し北部満洲治安安定図った当時満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳当初事変不拡大望んでいたが、理事の中で唯一事変拡大であった十河信二周旋内田本庄司令官面談すると、内田急進的な事変拡大派に転向し満鉄は上から下まで事変協力することとなった。 ところが、満洲情勢混迷一途たどっていた。関東軍一撃確かに奉天軍閥麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の馬賊」や「匪賊」の跳梁促し、これに東北軍敗残兵が加わることによって内陸部もとより満鉄沿線治安悪化一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力満鉄沿線とどめて治安維持かかりきりになるような有り様だったのである加えて敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人陸続となだれ込んで深刻な事態となっていた。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派認めなかった。 手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった錦州への空爆である。10月8日石原莞爾本庄無断錦州軍政府爆撃加えた錦州爆撃)。錦州爆撃規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件大きな衝撃受けた天津支那駐屯軍は、今度自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き厳し制止増派不可宣し支那駐屯軍暴走ひとまず食い止められた。12月初旬頃の関東軍作戦行動南北ともに行き詰まっており、昭和天皇事変不拡大意思も固かった。第2次若槻内閣参謀本部連携して関東軍策動抑え込んでいた。国際連盟論調風向き変わり極東における安定勢力結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲無政府状態収拾するかないとして、ジュネーヴでは満洲委任統治構想急浮上していた。英仏伊の3国は錦州一帯中立地帯設定し、そこに国際警察軍のような組織進駐させるという打開策提示動き始めていた。こうした状況受けて若槻内閣は、奉天内田満総裁委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して本国政府意向出先周知徹底させるためのシステム満鉄中心に作り上げようとした。こうして、事態政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた。 しかし、アメリカ合衆国ヘンリー・スティムソン国務長官記者発表によって事態急転するスティムソンは、アメリカ駐日大使経由した幣原外相談として今後関東軍錦州攻撃行われないであろうとの談話発表するが、これが日本国内メディアで報道されるや、幣原外国政権担当者軍事作戦約束しており、これは統帥権干犯にあたるとして猛烈な反発招いたのである皇道派平沼騏一郎らの流れを汲む右派関東軍行動支持していた人びとこぞって幣原攻撃し幣原・南・金谷求心力低下した動揺した若槻内閣結局12月退陣した。

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満洲事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)

日本の軍事史」の記事における「満洲事変」の解説

詳細は「満洲事変」および「第一次上海事変」を参照 第一次世界大戦国家総力戦となったこのため陸軍内に、将来戦争備えるために平時からの国家総動員準備自存のための経済圏資源確保、これらを実現するための政治への積極関与が必要との認識生まれた日露戦争後日本満洲特殊権益有していたが、中国統一政府存在しない状態であり、さらに国権回復運動もあり、その権益確固たるものではなくなってきていた。このため1920年代後半には、陸軍満洲内モンゴル分離領有という構想を持つに至った満洲には関東州南満洲鉄道附属地守備目的とした関東軍設置されており、関東軍満洲軍閥である張作霖支援していた。しかし張作霖満洲留まらず中国本土への野望示して国民党抗争し、結果としてはこれに敗れた。この抗争影響満洲に及ぶことを恐れた関東軍1928年6月4日国民党仕業見せかけ張作霖爆殺した。その真相はすぐに知られ息子後継者となった張学良反日姿勢明らかにし、満鉄並行線を建設して満鉄赤字転落させ、また在留邦人危険にさらされることとなった。これを一挙に解決するため、関東軍1931年9月18日柳条湖事件起こし自衛名目軍事行動開始した関東軍圧倒的に兵力不足であったが、9月21日には朝鮮軍独断越境して満洲入った政府不拡大方針陸軍中央の局地解決方針無視して現地軍は戦線拡大していった。不拡大方針貫けなかった若槻内閣12月13日総辞職し犬養内閣成立した張学良軍が積極的な抗戦を行わなかったこともあり、1932年2月初め頃には、関東軍満洲全土をほぼ占領3月1日には清朝最後の皇帝であった溥儀執政として満洲国建国された。犬養内閣満洲国承認しなかったが五・一五事件暗殺され齋藤内閣成立した国際連盟リットン調査団派遣しおよそ3ヶ月調査行った調査団報告書10月2日発表されたが、日本一方的に非難することはなく「名を捨て実を取る」ことを求めるものであった。しかし日本公表前に満洲国承認しており、1933年3月8日国際連盟脱退した。 満洲事変により上海でも反日運動発生していたが、1932年1月28日には国民党19路軍が、日本海軍陸戦隊に対して攻撃開始した第一次上海事変)。陸戦隊兵力2700人に過ぎなかったため、海軍空母2隻を含む艦隊陸戦隊7000人を派遣、さらに陸軍上海派遣軍編成派遣した3月1日日本軍が七了口上作戦成功させる19路軍は撤退開始3月3日戦闘終了した5月5日には上海停戦協定締結され日本軍上海から撤兵した。第一次上海事変空母初め実戦参加した他、陸軍研究していた上陸用舟艇である大発上陸作戦使用され、その有効性証明された。またこの際戦訓から上陸作戦支援のための陸軍特殊船建造され、後の日中戦争・太平洋戦争活躍することになる。

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満洲事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 19:02 UTC 版)

昭和」の記事における「満洲事変」の解説

1931年昭和6年4月若槻礼次郎首班立憲民政党内閣第二次若槻内閣)が成立した7月には長春付近朝鮮移民中国官憲農民との衝突事件起きて一触即発情勢生まれていた。陸軍8月に「満洲問題解決方針大綱」を決定していた。 同年9月18日には関東軍謀略により柳条湖事件契機に満洲事変が勃発した関東軍奉天長春公主嶺四平街などの南満州鉄道沿線首都と主要都市軍事行動起こして戦時体制入った。このことが1945年昭和20年)の敗戦までにわたる戦争第一歩となった政府戦争不拡大方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定日中間は一旦停戦となる)。 日本満洲国建国前後して国際連盟イギリスヴィクター・ブルワー=リットン率いリットン調査団派遣し、その調査結果基づいて1933年昭和8年)、日本撤退勧告案42対1 で可決した日本2月20日閣議で同勧告案可決され場合脱退決めていたので松岡洋右代表は退場2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退通告した。このことにより日本国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。 また1932年昭和7年2月9日第18回衆議院議員総選挙戦中民政党井上準之助前蔵相)が選挙応援中に射殺され3月5日には団琢磨三井合名理事長)が三井銀行本店入り口射殺された。いわゆる血盟団事件である。続いて5月には海軍将校らが犬養毅首相射殺した五・一五事件起こり犬養内閣総辞職の後、5月26日斉藤実内閣成立したが、帝人事件贈収賄容疑閣内波及したため1934年、(昭和9年7月3日総辞職し7月8日岡田内閣岡田啓介首相)が成立した軍部急進派右翼団体中心に明治維新精神復興天皇親政求める「昭和維新」をスローガンとする右翼思想唱えられこの影響1936年昭和11年)には皇道派青年将校斎藤実内大臣高橋蔵相らを射殺した二・二六事件起こった1936年昭和11年2月28日岡田内閣総辞職し政党内閣終焉至ったその後同年3月9日成立した廣田内閣広田弘毅首相)は、二・二六事件対す措置として大規模な粛軍実行した一方で実質廃止となっていた軍部大臣現役武官制復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣難航する問題内包しており、復活とともに軍部政治介入政治的優位確立したため、後に議会その役割事実上停止する8月7日首相外相蔵相陸相海相五相会議開かれ対外問題中心にする重要国策国策基準)を決定した内容公表されなかったが、戦争政策見取図計画であったまた、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍国防充実12か年計画海軍第二次補充計画立てたこのため1937年昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計14億円に達した11月末の予算閣議30億円を超える巨額予算案短時間決定された。前年度比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案発表される諸物価が高騰し始め国民の生活に大きな影響与えるものとなった。 同内閣1936年昭和11年11月ベルリン日独防共協定調印した1937年昭和12年1月29日閣内不統一総辞職して、2月2日林内閣林銑十郎首相)が成立する5月31日には総辞職となり、6月4日第一次近衛内閣近衛文麿首相)が成立する中国では西安事件拉致され蔣介石周恩来の間で国共合作成立して抗日闘争進められた(第二次国共合作)。

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