福建事変
福建事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 00:46 UTC 版)
上海事変後、第19路軍は蒋介石の命令により、共産党掃討のために福建省へ動員されることになった。しかし、蒋光鼐と蔡廷鍇は、安内を攘外に優先させる蒋介石の方針に反発を募らせ、密かに蜂起の準備を進める。1933年(民国22年)1月、蒋光鼐は福建省政府主席兼民政庁長に任命された。 そして、同年11月、蒋光鼐と蔡廷鍇は、李済深・陳銘枢らを迎え入れ、福建人民政府を樹立し、蒋介石に反旗を翻した(福建事変)。蒋光鼐は、人民(革命)政府委員、財政部部長に就任している。しかし、蒋介石の反撃は素早く、わずか2か月で福建人民政府は崩壊した。第19路軍は解体され、蒋光鼐は香港に逃亡した。
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福建事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 03:24 UTC 版)
同年1月28日より、第19路軍は上海で日本軍との戦闘に入り、3月1日まで33日間激戦を展開したが、力尽きて撤退した。しかし、この時の第19路軍の勇戦は国内からの賞賛を得るものであり、陳銘枢も京滬衛戍司令長官としてその栄誉に与った。ところが蒋は、安内を攘外に優先させる方針の下で、第19路軍を引き続き共産党討伐に用いようとする。そのため陳は、蒋に大きな不満を抱いた。この年に、陳は欧州へ視察に赴いている。 1933年(民国22年)5月、帰国した陳銘枢は、李済深ら反蒋介石派や第19路軍指揮官たちと連絡を取り合い、蜂起の準備を進めた。そして、同年11月20日、李・陳らは福州に福建人民政府(中華共和国)を創設した。陳は人民革命政府中央委員兼文化委員会主席、軍事委員会委員兼政治部主任などの職に就いた。また、生産人民党を組織し、その総書記に就任している。しかし、わずか2か月で蒋の反撃に遭って福建人民政府は崩壊し、第19路軍も解体され、陳は香港に逃げ込んだ。
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