国民党左派としての活動
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翌年2月、胡漢民とともに、上海で和平統一代表の任にあたった。まもなく広州へ戻って、私立嶺南大学文学系主任となっている。1924年(民国13年)9月、私立上海法政大学校長となったが、翌月、馮玉祥の招聘に応じて俄文法政学校校長、中俄庚款委員会主席に任ぜられた。 1925年(民国14年)7月以降は、中国国民党側で活動する。武漢国民政府において、国民党中央常務委員、国民政府委員会常務委員、軍事委員会軍事裁判所長などの党・政・法の要職をつとめた。しかし、1927年(民国16年)4月の上海クーデターにより徐謙は失脚し、上海の租界を経由して香港に逃れた。 1933年(民国22年)に李済深らが福建事変を起こすと、徐謙もこれに参加し、最高法院院長兼農工幸福委員会主席に任じられた。しかし、まもなく福建事変は敗北に終わり、徐謙は香港に再び逃亡した。日中戦争(抗日戦争)勃発後は、国民政府に復帰して国防委員会委員、国民参政会参政員などをつとめた。しかし1939年(民国28年)10月、病気療養のために香港に引き返した。 1940年(民国29年)9月26日、香港にて病没。享年70(満69歳)。
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