国民党代表
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1996年、クリストフ・ブロハーの意向で、マウラーはスイス国民党の代表に選出された。当初のマウラーは党代表としてまともに相手にされず、テレビ・コメディアンのヴィクトール・ジャコッボはマウラーをブロハーの卑屈なおべっか使いと茶化した。そのため子どもたちは学校でからかわれ、泣きながら帰宅することもあった。しかし、マウラーが代表であった間、国民党の党員数は倍増し、フランス語地域に党組織が確立された。こうした成功は、主としてマウラーの指導力の賜物とされた。カリスマ性に欠けたマウラーは、それを激務や党規の厳格な実施、欧州統合や外国人、ポリティカル・コレクトネスへの反対といったポピュリスト的な政策、それに見出しを独占するような短いコメント(「黒人について話すあいだは、しじゅう撮られている」など)によって補った。 国民党代表就任後、マウラーは党の攻撃的でよい結果を収めたポピュリスト的な運動を主導した。それは左派や外国人、その他好ましくない人物を攻撃する諷刺的なポスターの掲示を認めるなど、スイスの政治的主流派の怒りを招き、外国の評論家の懸念を引き起こすものであった。スイスの政治上の不文律を犯すことになるにもかかわらず、マウラーは他の政治家に対する直接的な個人攻撃をはばかることはなかった。例えば自由民主党員は「いくじなし」、社会民主党に投票した者は「きちがい」、国民党を割ったサミュエル・シュミットとエフェリーネ・ヴィドマー=シュルンプフは切除を要する「盲腸」と呼んだ。それにもかかわらず、世間におけるマウラーのイメージは、国会議員のあいだでのマウラーのイメージとは異なったものであった。国民議会におけるマウラーの地位は上昇し、政敵でさえ彼の個人的な清廉さ、合議を重んじる姿勢、政治課題に対するしっかりとした理解にお墨付きを与えた。社会民主党の女性代議士と良好な仕事上の関係を築いていることは、とりわけ政治評論家たちを当惑させた。 マウラーと国民党の形勢は上向いたが、マウラーと長年の師であるブロハーとの関係はゆっくりと冷え込んでいった。公には依然強力な盟友関係にあった両者だが、かつて国民党のだれもが認める指導者としてワンマン的な指導力をふるったブロハーは、自らの戦略的アプローチのいくつかにマウラーが疑問を呈するのを認めなかった。そしてマウラーと党事務局の代わりに、自らの側近を介して権力を行使するようになった。2007年10月の総選挙で、国民党は史上最大の大勝を果たしたが、マウラーは党代表を辞任した。そしてマウラーの意に反して、その後任にはブロハーの腹心のひとりであるトニー・ブルンナーがあてられ、2008年3月1日に就任した。全州議会選挙の決選投票でもフェレナ・ディーナーに敗れたマウラーは、国民党チューリッヒ支部長の役職に甘んじた。 この間、1994年から2008年までチューリッヒ農業協同組合の組合長を、また連邦参事会参事に選出されるまで、スイス青果農業協同組合と農機組合の組合長を務めた。
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