国民党右派として
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1924年(民国13年)1月、中国国民党が第1回全国代表大会を開催した際には、黄季陸はカナダ支部代表として帰国、大会に参加した。大会後は広州市党部常務委員兼青年部長、大本営法制委員会副委員長、大元帥府秘書、広東大学(翌年、中山大学に改組)教授・法政系主任を務めた。黄は早くから反共の姿勢を示し、同年6月には孫科と共に共産党制裁の提案を中央党部に提出して孫文の叱責を買っている。 1925年(民国14年)3月に孫文が死去すると、黄季陸は本格的に反共の活動を開始する。同年11月、黄は北京での国民党右派による党1期4中全会に参加し、西山会議派の一員となった。黄はまもなく上海に向かい、孫科と協力して西山会議派の中央党部を樹立している。翌年3月、西山会議派の第2回全国代表大会で中央執行委員に選出されている。 1927年(民国16年)1月、黄季陸は四川省に戻り、成都大学教授となる。同年の上海クーデター(四・一二政変)や第1次国共合作崩壊を経て、黄は四川省で清党委員、整理委員、執行委員に任ぜられた。翌年、広東へ移って中山大学に復帰し、さらに広東省党部常務委員兼宣伝部長、広州『民国日報』社長などを務めた。1931年(民国20年)11月、国民党第4回全国代表大会において中央執行委員候補に選出され、さらに西南政務委員会委員にも任ぜられている。
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