国民党左派論客として
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華僑の家に生まれる。中国語よりも英語を良く話した。ロンドン大学、ウィーン大学で学ぶ。1925年、ロンドン大学のB.sc(経済学)を取得し、王立経済学協会会員に推薦された。 1929年、中国国民党中央執行委員会駐欧通訊主任となる。翌1930年(民国19年)に帰国し、汪兆銘(汪精衛)の秘書をつとめるかたわら、欧米各国報道機関の通信員を掛け持ちする。例としては、ニューヨーク・タイムズの北平通信員、ドイツ社会民主党通信社中国通信員、デイリー・ニュース(ロンドン)、ニュー・リーダー誌、バタビア新報の各北平通信員があげられる。また、聯華書報社社長やピープルズ・トリビューン(『民衆論壇』)総編集ともなった。 なお1931年(民国20年)に、当時上海で中国共産党中央の指導機関を運営していた周恩来が、国民党の取締りを受けて苦境に陥ることがあった。このとき、湯良礼は周を匿い、さらに外国人協力者等の協力を得て周の上海からの脱出を手助けしたとされる。 1933年(民国22年)、国民政府外交部顧問となり、特任全権公使待遇も受けている。その後、China Today Series(『今日之中国叢書』)や『中国現代英文百科全書』などの総編輯を担当した。この頃の湯良礼は、中国に関連する多くの英文著作を著し、国内外に大きな影響を与えている。なお、1937年に発行したThe New Currency System in China(『中国新貨幣系統』)は、張公権(張嘉璈)の著作とともにミルトン・フリードマンにより参考にされた。
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