国民党左派として
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1922年(民国11年)、私立嶺南大学経済系を卒業し、同大学附属中学で教師になった。このとき、廖仲愷の娘・廖夢醒の担任となり、その伝手で廖仲愷と面識を持った。1924年(民国13年)、甘乃光は中国国民党に加入し、党中央商民部秘書となる。同年7月、黄埔軍官学校で英文秘書兼政治教官に任ぜられた。 翌1925年(民国14年)、甘乃光は国民政府監察院監察委員となる。同年8月、廖仲愷が暗殺されると、同事件の検察委員会委員をつとめた。これ以降は、国民党左派の重鎮であった汪兆銘(汪精衛)の引き立てを受けることになる。同年9月に査弁電報局委員会兼査弁粤漢鉄路委員会委員、10月に予算委員会委員兼調査国立広東大学委員会委員兼主任、11月に広東南路各属行政委員兼広三鉄路査弁委員会委員を歴任した。また、『国民新聞』、『民国日報』などの機関紙の運営にも従事している。 1926年(民国15年)1月、中国国民党第2期全国代表大会で中央執行委員・中央常務委員・青年部長に選出され、後に政治委員会委員となっている。5月に党中央農民部部長、10月に広東省党部執行委員となった。11月に広東省政府委員、12月に広州政治分会委員をつとめている。1927年(民国16年)4月、江蘇省政務委員会兼農工庁庁長に異動したが、6月に早くも辞任する。9月、国民党中央特別委員会候補委員となり、さらに10月、国民党広東省党部改組委員をつとめる。同年末に広州市市政委員長代理に転じた。しかしまもなく中国共産党の広州起義に遭遇し、対処できなかったために罷免されてしまった。
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