国民党左派としてとは? わかりやすく解説

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国民党左派として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 07:00 UTC 版)

甘乃光」の記事における「国民党左派として」の解説

1922年民国11年)、私立嶺南大学経済系を卒業し同大学附中学教師になった。このとき、廖仲愷の娘・廖夢醒の担任となり、その伝手で廖仲愷面識持った1924年民国13年)、甘乃光中国国民党加入し党中央民部秘書となる。同年7月黄埔軍官学校英文秘書政治教官に任ぜられた。 翌1925年民国14年)、甘乃光国民政府監察院監察委員となる。同年8月廖仲愷暗殺されると、同事件の検察委員会委員つとめた。これ以降は、国民党左派重鎮であった汪兆銘汪精衛)の引き立てを受けることになる。同年9月に査弁電報局委員会兼査弁粤漢鉄路委員会委員10月予算委員会委員調査国立広東大学委員会委員主任11月広東南路各属行政委員兼広三鉄路査弁委員会委員歴任したまた、国民新聞』、『民国日報』などの機関紙運営にも従事している。 1926年民国15年1月中国国民党第2期全国代表大会で中央執行委員中央常務委員青年部長に選出され、後に政治委員委員となっている。5月党中央農民部長10月広東省党部執行委員となった11月広東省政府委員12月広州政治分会委員つとめている。1927年民国16年4月江蘇省政務委員会農工庁長異動したが、6月早くも辞任する9月国民党中央特別委員会候補委員となり、さらに10月国民党広東省党部改組委員をつとめる。同年末に広州市市政委員長代理転じた。しかしまもなく中国共産党広州起義遭遇し対処できなかったために罷免されてしまった。

※この「国民党左派として」の解説は、「甘乃光」の解説の一部です。
「国民党左派として」を含む「甘乃光」の記事については、「甘乃光」の概要を参照ください。

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