国民党左派としての活動と夫の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:56 UTC 版)
「何香凝」の記事における「国民党左派としての活動と夫の死」の解説
1924年(民国13年)1月、中国国民党が第1回代表大会を開催すると、何香凝は同党婦人部長に選出され、各種女性運動を展開する。また、廖仲愷とともに聯共(国共合作支持)の党内左派人士と目された。翌1925年(民国14年)1月、孫文が北京で重病に倒れると、何はその下に駆けつけ看病に従事し、3月の孫の死も看取っている。孫死後も夫を助けて政治活動を展開したが、同年8月20日、廖と何が党本部正門を出たところを暴漢に狙撃され、廖が殺害されてしまう。 これ以後も、何香凝は廖仲愷の遺志を受け継ぐ形で、党人としての活動を継続した。第2回全国代表大会でも引き続き婦人部長に選出され、北伐の後方支援のために慰労隊・救護隊の組織に従事した。しかし、1927年(民国16年)4月の上海クーデター(四・一二政変)を経て蔣介石が党内権力を掌握し、武漢国民政府の汪兆銘(汪精衛)も同年7月に中国共産党との決裂に至ってしまう。聯共を唱える何は地位を保持し得なくなり、まもなく事実上、下野して欧州に去った。
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