国民党中央宣伝部との関わりとは? わかりやすく解説

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国民党中央宣伝部との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:50 UTC 版)

ハロルド・J・ティンパーリ」の記事における「国民党中央宣伝部との関わり」の解説

従来ティンパーリ書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストよるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。この『WHAT WAR MEANS』の出版日本軍残虐行為告発活動通して国民党との関わり生じティンパーリ1939年以降マンチェスター・ガーディアン紙を辞して正式に国民党雇われたものとみなされていた。しかし、同じ1939年に(既に?)国民党中央宣伝部下部組織である国際宣伝英国支部ロンドン)の「責任者」として宣伝工作活動行ってたとする史料や、逆にティンパーリ左翼思想持ち主イギリス共産党はじめとする当時国際的な共産主義運動関与していたとされる説[要出典]等が、近年出されている。 北村は、王凌霄『中国国民党新聞政策研究(1928-1945)』(1996年)および国際宣伝処処長曽虚白回想記に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性示唆している。 1988年台湾出版された『曾虚白自伝(上)』の記述は以下のようになっているティンパーリー都合のよい事に、我々が上海抗日国際宣伝展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人重要人物のうちの一人であったオーストラリア人である。〔中略直接会って全て相談した。我々は秘密裏長時間協議行い国際宣伝処の初期海外宣伝計画決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人ティンパーリー経由でスマイスに依頼して日本軍南京大虐殺目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略二つ書物は〔中略宣伝目的達したちなみに、曾虚白自身はこの自伝の中で上記二冊の本について信頼性を保つ為に内容真実であることを旨としたと述べている。 また、中国社会科学院1981年編集した近代外国人名辞典』には、ティンパーリについて「1937年盧溝橋事件後、国民党により欧米派遣され宣伝工作従事続いて国民党中央宣伝部顧問就任した」と記されているが、北村は、同人名辞典の編集をした孫瑞1937年当時にはロイター通信社北京支局携わっていて、ティンパーリ個人的に知っていたと主張している。 鈴木明は『近代外国人名辞典』の記述根拠に、ティンパーリ中華民国政府顧問秘密宣伝員であると主張している。 東中野修道は、日本軍南京占領した1937年12月以後3年間の中国国民党宣伝工作記録した国民党中央宣伝部国際宣伝工作概要」という1941年作成され文書中の「対敵宣伝本の編集製作」の部分に『外国人目睹日軍暴行』("What War Means"の中国名)は同機関が編集印刷した対敵宣伝書籍明記されているとして、ティンパーリ著作中国国民党宣伝書籍であるとする鈴木北村見方確実なものだと主張している。 これに対して渡辺久志は、曽虚白ティンパーリ日本軍占領下南京にいたとする誤り前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、北村説を批判している。また、渡辺ティンパーリ関係の原資料調査して確認したところ、ティンパーリ国民党中央宣伝部顧問就任したのはマンチェスター・ガーディアン特派員辞めた1939年であり、『WHAT WAR MEANS出版時には国民党中央宣伝部顧問ではないと主張している。 井上久士は「中央宣伝部国際宣伝二十七年工作報告」には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍南京大虐殺目撃実録買い取り印刷出版した」とあり、曽虚白回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述誤り主張している。実際にスマイスの書いた本は、南京安全区委員会後を引き継いだ国際救済委員会(委員長ベイツ)の依頼基づいて南京復興救済計画基礎とする為に実際に調査が行われ纏められたもので、その事ベイツ自身の手による本の前書きにも書かれ公表時から関係者には広く知られていた。おそらく曽虚白本について其の存在知ってはいても、その報告纏められ経緯については知らなかったものと考えられる笠原十九司渡辺井上論文依拠しながら、「曽虚白自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と主張し国際宣伝処がティンパレーから翻訳権買い取り中国語版10万部を出版するために資金出したことを、曽虚白は「自分がティンパレーに書かせたかのように誇張した」と主張している。さらに笠原北村研究に対して、その最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党宣伝工作員でないときに執筆した戦争とは何か」を、国民党スパイとして書いたかのように思わせようとした点であると主張し、また北村は「裁判における起訴状判決書区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文書いたとするなど、裁判イロハわかっていない」と主張した産経新聞によれば、米コーネル大に1937年国民政府の元財政部長、宋子文(有名な銀行家であり、当時政府から退いていた)からテインパーリが月額1000ドル受け取ることで合意したとされる史料があったとされ、産経新聞自体ティンパーリがこの当時から国民党側の宣伝為に活動していた可能性があると考えているようであるが、これは上海での南市安全区活動為の寄付であった可能性も高い。ティンパーリとジャキノの活動により実現した上海での南市安全区には、日本側から当時松井石根陸軍最高司令官長谷川海軍高司令からもそれぞれ1万円ずつの寄付が行われている。また、ティルマン・ダーディンは、当時ティンパーリについてフリーランス記者としてどちらかといえば厳しい生活をしていたと考えている。

※この「国民党中央宣伝部との関わり」の解説は、「ハロルド・J・ティンパーリ」の解説の一部です。
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