国民党中央宣伝部との関わり
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「ハロルド・J・ティンパーリ」の記事における「国民党中央宣伝部との関わり」の解説
従来、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。この『WHAT WAR MEANS』の出版や日本軍の残虐行為の告発活動を通して、国民党との関わりが生じ、ティンパーリは1939年以降マンチェスター・ガーディアン紙を辞して正式に国民党に雇われたものとみなされていた。しかし、同じ1939年に(既に?)国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として宣伝工作活動を行っていたとする史料や、逆にティンパーリは左翼思想の持ち主でイギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたとされる説[要出典]等が、近年出されている。 北村は、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928-1945)』(1996年)および国際宣伝処処長曽虚白の回想記に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している。 1988年に台湾で出版された『曾虚白自伝(上)』の記述は以下のようになっている。 ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。〔中略〕直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。〔中略〕我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。 ちなみに、曾虚白自身はこの自伝の中で上記二冊の本について信頼性を保つ為にも内容は真実であることを旨としたと述べている。 また、中国社会科学院が1981年に編集した『近代来華外国人名辞典』には、ティンパーリについて「1937年盧溝橋事件後、国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記されているが、北村は、同人名辞典の編集をした孫瑞芹が1937年当時にはロイター通信社北京支局に携わっていて、ティンパーリを個人的に知っていたと主張している。 鈴木明は『近代来華外国人名辞典』の記述を根拠に、ティンパーリが中華民国政府顧問の秘密宣伝員であると主張している。 東中野修道は、日本軍が南京を占領した1937年12月以後約3年間の中国国民党の宣伝工作を記録した「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という1941年に作成された文書中の「対敵宣伝本の編集製作」の部分に『外国人目睹之日軍暴行』("What War Means"の中国名)は同機関が編集印刷した対敵宣伝書籍と明記されているとして、ティンパーリの著作は中国国民党の宣伝書籍であるとする鈴木や北村の見方は確実なものだと主張している。 これに対して、渡辺久志は、曽虚白はティンパーリが日本軍占領下の南京にいたとする誤りを前提として語っていることなどを指摘、この証言には問題があるとし、北村説を批判している。また、渡辺はティンパーリ関係の原資料を調査して確認したところ、ティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのはマンチェスター・ガーディアンの特派員を辞めた1939年であり、『WHAT WAR MEANS』出版時には国民党中央宣伝部顧問ではないと主張している。 井上久士は「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」には「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した」とあり、曽虚白の回想記の「二冊の本を書いてもらった」という記述は誤りと主張している。実際にスマイスの書いた本は、南京の安全区委員会の後を引き継いだ国際救済委員会(委員長:ベイツ)の依頼に基づいて、南京の復興と救済計画の基礎とする為に実際に調査が行われ纏められたもので、その事はベイツ自身の手による本の前書きにも書かれ、公表時から関係者には広く知られていた。おそらく曽虚白は本について其の存在を知ってはいても、その報告が纏められた経緯については知らなかったものと考えられる。 笠原十九司は渡辺と井上の論文に依拠しながら、「曽虚白の自伝は、自画自賛的で信憑性がない」と主張し、国際宣伝処がティンパレーから翻訳権を買い取り、中国語版10万部を出版するために資金を出したことを、曽虚白は「自分がティンパレーに書かせたかのように誇張した」と主張している。さらに笠原は北村の研究に対して、その最大の「トリック」は、ティンパレーが国民党の宣伝工作員でないときに執筆した「戦争とは何か」を、国民党のスパイとして書いたかのように思わせようとした点であると主張し、また北村は「裁判における起訴状と判決書の区別もできずに、裁判官がティンパレーの本から引用して判決文を書いたとするなど、裁判のイロハがわかっていない」と主張した。 産経新聞によれば、米コーネル大に1937年国民政府の元財政部長、宋子文(有名な大銀行家であり、当時は政府から退いていた)からテインパーリが月額1000ドルを受け取ることで合意したとされる史料があったとされ、産経新聞自体はティンパーリがこの当時から国民党側の宣伝の為に活動していた可能性があると考えているようであるが、これは上海での南市安全区の活動の為の寄付であった可能性も高い。ティンパーリとジャキノの活動により実現した上海での南市安全区には、日本側からは当時の松井石根陸軍最高司令官と長谷川海軍最高司令からもそれぞれ1万円ずつの寄付が行われている。また、ティルマン・ダーディンは、当時のティンパーリについてフリーランスの記者としてどちらかといえば厳しい生活をしていたと考えている。
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