安全区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:32 UTC 版)
「南京安全区国際委員会」の記事における「安全区」の解説
南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.85平方キロメートルで、城内全域の11%程度の広さにあたる。外国人の施設や邸宅が多くある地区であった。 冨澤繁信は、安全区の設置場所には中国人にとってもっと便利な場所があったがこの地区が選ばれた理由には委員たちの財産保全も考慮したためとし、安全区に残留中国人を集めて戦争に中立な地帯としてその安全を保証し、かつ残留中国人を行政的に支配しようとしたと主張している。ただし、この地域は、残留外国人の多くが勤務する金陵大学や金陵女子文理学院、その他には最高法院、司法院等の多数の人間を収容して難民キャンプを設けるに良いスペースと施設があり、また、金陵大学の附属病院である鼓楼医院もあり、外国人らが難民の救済活動をするのに都合が良かったことに注意する必要がある。もともと上海には市街地に外国人租界があり、そこにさらに周囲から難民が殺到した際に収容しきれない為、租界に加えて、人口密集地帯そのものを難民区として安全地帯にしようとしたもので、南京の場合は、逆に人口密集地からの難民を土地・施設のある個所に収容しようとした点で上海の場合とは状況が異なる。また、8月の上海事変の悪化により日本人が南京を退去したのを皮切りに、その後の南京空襲、漢口への首都機能移転、さらに日本軍の接近により南京が戦火に巻き込まれる恐れから、身の安全を図るために次々に外国人の南京退去が続き、この当時、南京城内になお残っていた外国人は、宣教師や鼓楼委員の医師・看護師、ごく少数のジャーナリスト、大使館員等のなんらかの使命感に基づいて残留した者らに限られており、結果的には助かったとはいえ、財産以前になによりも身を危険に晒していたことに注意する必要がある。実際に、残留せずとも最後の脱出者となった者の中からはパネー号事件に遭い、死者も出ている。当時、残留を選んだニューヨークタイムズのダーディン記者は、自分らはいちばん危険な道を選んだが安全を期した者が危険な目にあったと述べている。また、彼らが中国人住民を、富澤のいうところの行政的に支配することで、何らかの実利を得ていた形跡はない。
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