使命感
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:09 UTC 版)
神谷美恵子(1914年~1979年)は、日本語で「生きがい」と言うと、対象を指す場合と、感情を指す場合がある。生きがいを感じさせる対象を「生きがい」と呼び、それを感じる人の感覚・感情を「生きがい感」と呼び分けることもできる、と著書『生きがいについて』で述べている[要ページ番号]。人は長い一生の間にはふと立ち止まって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたりすることがあり、このようなときは、大まかにいって次のような問いが発せられるわけだろう、と神谷は述べる[要出典]。 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか[要出典]。 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか[要出典]。 人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われ、それは上記の問いの第一と第二が一致した場合であろう、と述べる[要出典]。だが、これらは必ずしも一致しない[要出典]。生活のための職業とは別に、ほんとうにやりたい仕事を持っている人も多い。それらの両立が困難になると、うっかりすると神経症になる人もあり、中には反応性うつ病や自殺にいたる人さえいる。 「生きがい感」を一番感じている人種というのは、使命感に生きている人(自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力で歩いている人)、ではないか、と述べる。このような使命感の持ち主は、立派な肩書や地位を持って目立っているというわけではなく、むしろ人目につかないところに多くひそんでいて、例えば小、中学校の先生、特殊教育に従事する人、僻地の看護士など、いたるところにいる、と述べる[要出典]。 社会的にどんなに「立派」とされることをやっている人でも、自己に対してあわせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる[要出典]。心の日記もつけられなくなる[要出典]。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなり、自分の心の深いところからの声に耳をかすのも苦しくなる[要出典]。すると、生活を忙しくして、この自分の心の深いところからの声が聞こえぬふりをするようになる[要出典]。この、「自己に対するごまかし」こそが、生きがい感を何よりも損うものである、と指摘する。 使命感に生きる人にとっては、たとえ使命半ばで倒れたとしても、事の本質は少しもちがわない[要出典]。自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえが、正しいと信じるところに置かれているならば、使命の途上のどこで死んでも本望であろう、と述べる[要出典]。これに対して、使命にもとっていた人(使命に背いていた人)は、安らかに死ぬことすらできない。
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