南京安全区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:19 UTC 版)
「南京安全区国際委員会」も参照 南京安全区(英語版)とは、南京戦前の11月、ジョン・ラーベ及びアメリカ人宣教師たち(プラウマー・ミルズ、ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする約15名)によって、戦災に巻き込まれた市民を救済するという名目で組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。 安全区設置の目的については、(ヴォートリンの日記に記されていた、安全区設立発案者のミルズの発言'try to encourage and comfort the Chinese army'から)、布教の為に中国軍の支援保護を行うことにあったとし、その前提に1937年5月6日の全国基督教連盟による、プロテスタントである蔣介石の実質的な建国活動(=新生活運動:スローガンは民衆生活の軍事化・生産化・芸術化)への全面支援決議があったとする見方がある(安全区内に、戦闘中は中国軍の砲台が置かれ、戦闘後は中国兵の潜伏を許したことが確認されているとの主張がある)。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった。 安全区内の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった。 南京安全区(別称:難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベの感謝状」)。また占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の暴虐(例:敗残兵狩りによる一般人の誤認逮捕と区外連れ出し後の処刑など)の記録はあり、決して過少ではない。また、その後、安全区の人口が5万人ほど増えたとされるが、欧米人が設置した安全区が南京市内の中で安全であり、荒廃した市内などから安全区に移動したとされるなお、安全区の人口については、南京事件論争#人口推移、南京事件論争#人口推移の論点を参照。
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