南京安全区解消まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 06:22 UTC 版)
「ミニー・ヴォートリン」の記事における「南京安全区解消まで」の解説
1938年4月には、模範刑務所に元兵士の嫌疑をかけられた多くの民間人が入獄しているという情報を得て、収容されている民間人の釈放を求める嘆願書を作成し、多くの女性が嘆願書に署名した。模範刑務所に勤務している日本兵を通じて入獄者の名簿と南京市政府公署の顧問を務める許伝音博士を通じて提出することにした。嘆願書に署名するために、一日に数百人の割合で夫や息子が拉致された女性が金陵女学院を訪問し、ヴォートリンに彼女たちの身に起きた悲劇について語った。釈放の嘆願書への署名者は同月9日には千名に達したが、模範刑務所の囚人としての目撃情報があったのは10名程度に過ぎなかった。 ヴォートリンは、模範刑務所に囚われている民間人を釈放させるため、ドイツ大使館のローゼン書記官に日本大使館への働きかけを要請し、許伝音博士には上海の日本軍上級機関に請願書を送付してもらい、南京市政公署の仕事をしている中国人に同公署の幹部の協力を依頼する手紙を書いたりした。日曜の礼拝に参加していた或るクリスチャンの日本兵が模範刑務所の警備の任務につくことになったため、入獄者の名簿と嘆願書にある男性の名前を照合して、一致する何人かの名前を教えてもらった。ヴォートリンは、その夫人を連れて刑務所に面会に行こうと考えた。 この頃、日本軍の南京攻略を前に周辺の農村に避難していた女性たちが城内に戻ってくるようになった。しかし自宅が破壊されたり焼失している人がほとんどで、金陵女学院の難民キャンプに収容を求めてきた。南京国際救済委員会は既に5月13日をもって安全区の難民キャンプを撤去することを決定し、新たな難民を受け入れない申し合わせをしていたため、救済を求めてやってくる女性の受け入れを断らなくてはならず、ヴォートリンは立ち去る女性たちの姿に胸を締めつけられた。若い女性にはなお日本兵に凌辱される危険があるため、希望があれば受け入れようとも考えていた。 春になり、南京城の内外に散乱する死体の腐乱が激しく、病気の流行の原因ともなりかねなかったため、慈善団体を動員しての埋葬作業が急ピッチで進められた。ヴォートリンは、死体の埋葬にあたった紅卍会から埋葬数についての情報を得て、その記録を残した(内訳となる民間人の死者数や、集計の範囲についても言及している)。また農村地域に避難していた金陵大学の馬文煥博士が訪ねてきて、避難先で強姦、殺害、放火、掠奪のすべてが行われ、地方の警官が逃げた後は匪賊に苦しめられたことをきいた。また長江河岸に沿って膨大な数の死体が埋葬されずに放置されており、多くの死体が長江を漂って流れていたことをきいた。 5月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それにともなって、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようになった。また、この頃になると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになったが、一家を支えていた男性が殺害されていたり行方不明になったりして、生活に困窮する場合もあった。 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、一人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所はヴォートリンがちょうど15分ほど前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家のなかに2人の嫁がいるのを見つけて、なかに入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。 6月3日には、釈放嘆願書を受けて模範刑務所に囚われていた民間人のうち30名が釈放され、家族のもとへ帰って行った。釈放嘆願署名活動の成功を喜びつつも、嘆願書に署名しながら夫や息子が戻らなかった圧倒的多数の女性の失望を考え、ヴォートリンの気持ちは複雑だった。5月31日の安全区撤廃の日が近づくと、ヴォートリンらはその対応を迫られた。最高時は26ヵ所の難民収容施設に約7万人が収容されていたが、この頃には6ヵ所、約7千人に減少していた。金陵女学院には1千人余が残っていたが、30・31日に約300人の難民が施設を離れていった。難民収容所と粥場は31日をもって閉鎖された。30日から6月1日にかけて、難民収容所のスタッフの「感謝パーティ」や、国際救済委員会主催の式典が行われた。他方で、家族を失ったり、家を失ったりして自活が困難な若い女性約800人は、国際救済委員会から生活費の支給を受けて、金陵女学院で引き続き保護することになった。終わる見通しのない戦争と、その犠牲者の悲劇に毎日直面していたことから、ヴォートリンの日記にはこの頃から疲れと悲観に沈む抑鬱心理が記述されるようになる。
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