南京攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)
先立つアヘン戦争で消耗し、アロー戦争をも同時進行で戦わなければならない正規軍は広大な国内に分散配置せざるを得ず、正面からぶつかる事も不可能な事態さえ起こった。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破った。 しかし食料・火薬が底をついたため太平天国軍は永安を後にし、楊秀清の意見に従って北上し湖南省・湖北省を目指すこととなった。清朝軍と衝突を繰り返しながら北上を続けたが、1852年6月湘江に到着した際に南王馮雲山が、9月長沙攻略の際には西王蕭朝貴が戦死した。二王の戦死は太平天国首脳間の力関係を微妙に変化させ、後の「天京事変」の遠因となる。しかし、戦死直後は清朝との交戦が弔い合戦の色合いを帯び、かえって志気を高める結果となった。 桂林・長沙(湖南省の省都)こそ結果的に攻略できなかったものの、12月下旬には漢陽・漢口を落城させ、ついに1853年1月には武昌を落とした。武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)であって、その占領は多大な金銀財宝をもたらした。 そしてまたもや楊秀清の意見により南京方面を目指すこととなり、水陸両軍を編成して長江を下り、1853年3月19日(咸豊元年2月18日)に太平天国軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた。 4月27日、イギリスのHMS Hermesが南京に到着し、イギリスの公使George Bonhamが北王韋昌輝及び翼王石達開と会見した。会見ではThomas Taylor Meadows(密迪楽)の通訳の元、イギリスが太平天国にも清国にも中立であることが告げられた。
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