南京戦の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:19 UTC 版)
詳細は「南京戦」を参照 1937年11月、上海戦で中国軍を撃破した日本軍は、首都南京に向かい進撃を開始した。10月29日、蔣介石は国防最高会議で遷都を説き、長期抗戦実施のため重慶に遷都し四川を抗敵の大後方とすることを明示し、11月20日、林森は、1000人余の官僚とともに龍興号に乗船し南京を離れ、26日に重慶に到着した南京の防衛か放棄かが討議され、唐生智が南京の死守を唱え、24日、国民政府は南京衛戎司令に唐を任命した。 南京は揚子江方面以外の三方面を完全に日本軍に包囲されていた。唐は各部隊に陣地の死守を命じ、違反者は厳重に処分すると通達し、各部隊の所有船舶は全て第78軍長宋希濂(中国語版)が管理し、勝手な乗船渡江を禁じ、違反者は武力で制止するとした。 12月1日、上海派遣軍の南京攻略命令下達により、上海派遣軍は山田支隊、第十六師団、第九師団などをもって東方から、第一〇軍は第三師団先遣隊、第百十四師団、第六師団などをもって南方から前進を開始し、8日、南京城外の第一線防衛陣地を突破し、包囲の態勢を整えた。12月7日早暁、蔣は宋美齢とともに廬山に向けて故宮飛行場を飛び立った。9日までに外郭陣地は喪失し、烏龍山砲台、紫金山、雨花台が残った。 12月9日、松井は、和平開城の勧告を飛行機で散布した。回答は翌10日正午句容街道上の歩哨線で受領するとした。10日、武藤章参謀副長、中山寧人参謀等が中山門-句容街道上で午後1時まで待ったが軍使が姿を現さなかったため、午後1時、松井は総攻撃の命令を発した。 12日午後、唐は蔣から撤退命令を受け、午後5時、師長以上を集めて軍事会議を開き、蔣の撤退命令を読み上げ、各指揮官に夜6時から明朝6時までに南京を撤退するよう命じた。日本軍に利用されないよう、重要建築物の放火破壊が始まり、第36師が中山北路に面する軍政部、鉄道部 (南京衛戎司令部)、交通部などを焼燬し、1時間以内に市内の主要な建築物は烈しい火と濃い煙に包まれた。12日午後9時、唐は副指令羅卓英等とともに軍用小火艇で浦口に渡り脱出したため、残された軍人や市民は烏合の衆と化し、悲劇を生む一因になった。 山田支隊は烏龍山北側から南下し下関へ向かい、牛島支隊は南から北上し下関へ向かい、佐々木支隊は城北部の門を制圧しつつ前進し、13日午後に下関を占領した。第十六師団は、教導総隊約4万が守備する東部の紫金山を攻撃し、13日夜明け近く、中山門を占領した。第一一四師団、第六師団は、第88師が防衛する雨花台方面を攻撃し、13日正午過ぎ、中華門周辺に到達した。13日正午、国崎支隊が浦口駅(中国語版)を占領し、中国軍の江北への退路を完全に切断した。前線から潰走してきた兵士、傷病兵、難民が中山門、中華門から入ってきたが、難民区に入ろうとして拒絶されると、一部は中山北路(中国語版)を通り挹江門(中国語版)から下関に、一部は中央路から和平門(中国語版)を通り燕子磯に向ったが、両門とも完全に閉鎖されていた。渡江しようとする中国軍とそれを阻止する部隊との間に同士討ちが始まり、多くの兵士はなんの目途もなく寒夜揚子江に逃げ入り、徒死するにいたった。
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